7章 (6)
「全っ然見えねぇ。お前ら目が良すぎるんじゃないか」
揃って見上げながら、もう一人の隊員がぼやく。確かに建物四階分はあろうかという大木の、その最上部をちゃんと見通せる者は限られそうだ。
「なんでこんな時期に………おい?」
視力の良い彼からかかった声を背に。
フェルシアは今戻ってきた道を引き返そうとしていた。そう、降りたばかりの大木の幹へと。
「…なあ。まさか」
「少し見てくるだけです。…怪我をしているかもしれませんから」
驚く気配が伝わる。しかし構わず彼女は再び乾いた木肌へひらりと飛び乗った。
「やめとけ!さすがに落ちたら冗談じゃ…」
「大丈夫です。ご迷惑はおかけしません」
ついでに付け加える。お二人はもうここを去って頂いて問題ありませんから、と。
二人と一匹が見守る中、そう言い残して黙々と四肢を動かした。一本、また一本と踏み越えるたび、微かな風を切り全てが遠ざかってゆく。集中する意識の外でまた「おい!」と小さく聞こえた。
頭頂へ向かうにつれ徐々に枝は細くなる。途中まだ樹上にぶら下がっている紅葉をいくつも通り過ぎ、間もなく彼女は目標へと近付くことができた。
(……やっぱり……)
見上げる先、込み入ってきた細い枝の生え際に乗るようにして。
そこにはふわふわの小さくて白い毛玉…ではなく。
一羽の雛鳥がいた。
小さく胸を上下させながらプルッと身じろぎをしている。
(まだとても小さい…震えてるわ)
観察していると、あえぐように開いた嘴は鮮やかな黄色で、まだまだ給餌が必要な時期であることを知らせていた。
一見して出血はないが、明らかに飛ぶ練習をする成長具合でもない。向かう距離は二メートル弱、その円らな瞳の開閉まではっきり見ることができた。
そこから更に視線を上げれば……思った通りすぐ上方、二、三節を上がった位置に鳥の巣らしきものがある。
指先三本ほどの大きさが数匹は入ろうかという、小枝で編まれた籠のような形状。見ていると別の白いふわふわが見え隠れしており、中には家族がいるのも分かった。
どうやらこの雛は巣から落ちてしまったらしい。
そう結論づけてからやっと考える。自分は何がしたかったのかを。
(私が触ったことで、あの子が蹴落とされてもいけないし…)
野生の獣というものは匂いに敏感だ。
この雛を掬い上げて巣に戻すなら容易いが…、もしもそれが原因で再び巣から放り出されようものなら次はないだろう。
それでも…今この場から元に戻る手立ては恐らくそれしかない。留まるならば転落するか、衰弱が待ち受けるのみ。
よって自分が手を出そうが出すまいが、この子の未来はないのかもしれない。そして。
(私が連れて帰ることもできない…)
考えるまでもない手立てにフェルシアの瞳が翳る。
基地内では比較的悪影響がないといっても、伯爵邸に連れ帰れば末路は明白だ。加えて自分は成鳥の世話さえしたことがないので、どう考えてもこの命を預かることはできない。
間もなく、己が助けられる可能性は極めて低い、という結論が出て少女は立ち尽くした。
「……………」
では自分は一体ここへ何をしに来たのか。
そもそも自然の営みに手を出すべきではないという、先人の教えなど簡単に行き着いただろうに。
救って欲しいとも、そうでないとも。この子が何を考えているかなんて分からないのに。
…見ないふりをして、通り過ぎることもできずに。
遠目に見えた点のような頼りなさ。近付いてみれば不揃いな羽毛を靡かせて、ぽつんと不安定にもしがみ付くその姿が。今にも落ちて消えてしまいそうで……。
(……すごく……寂しそうに、見えて)
何と表わせばいいのか…、とても放っておけないと、強い欲求がして引き寄せられた。その結果気付けばここまで来てしまっている。
しかし長居はできないので、もうそろそろ離れねばなるまい。
まだ親鳥は事態に気付いていないのか、すでに捨て置いているのかは不明だが。どちらにしろ巣の主が帰ってくる前には退散すべきだろう。野鳥にとっては人間が近付くだけでも脅威であり、最悪巣ごと放棄されてしまう。
彼女は最後にと思いその姿を見つめた。
(ごめんなさい、元気でね。……頑張ってね)
口にすら出せず唱える。結局は寂しげな姿に対して自分ができることはあまりにもわずかだ。
それは延命さえしてやれない、己が行動の結果を受け止めきれないことへの贖罪も含まれていた。
そうした短い逡巡の末、フェルシアが下へ降りようとした―――その瞬間に。
「フェルシア。聞こえるか?」
聞き慣れた声が足下から響いた。
決して怒鳴っているわけでもないのにハッキリと耳に通る声。間違いない。
ライナスだ。
目で確認するまでもなく分かった。そのいつも通りの綺麗な声音に引かれれば、幹の根元、自分から見て左下に小さな人だかりが出来ていて。いつの間にか多くの人が集まってきている。
「………?」
何か珍しいものでもあったのだろうか?
どうしてこんなに人が。近くで事件でも……?と首を巡らすが、皆が見ているのは間違いなくこの木の上、自分の方であった。
人だかりの先頭に立つ姿を改めて捉える。遠目でやや表情が見え辛いが、あれは…。
「フェルシア」
「はい」
鋭く呼ばれて反射的に返事をした。先ほどよりも明瞭な声で。
なぜなら今のは、彼が指揮命令をするときの声音だから。
「そこから降りてこい。今すぐにだ。その雛も連れてこい」
「………?」
彼は今、何と言ったのか。
連れてこい?
(……この子を?)
思いがけない指示に、固まった。
どうしてそんな話になるのだろう。だって、自分がこの子を連れていっては…。
「少佐、それは………」
言いかけると、ブワッとまた突風が吹いた。と同時にギシ…ギシ…と鈍い音がして幹がわずかに傾ぐ。
揺らぎは意外と小さく、体制を崩すほどではなかったので掴まって静止していると、何故か下から「ひっ」と悲鳴がした。
その後また声が飛んでくる。
「いいから、早くしろ」
その断ずる声に励まされ…というよりも、命じられるままに。
素早くもう一段高くよじ登ったフェルシアは、指先を白い羽毛へと伸ばした。逃げられては危ないので両手で囲い、包み込むように掬い上げる。
すると今まで閉じていた嘴があたふたと開いて「ぴぃ」と声を発した。見た目通り、声までも弱々しい。
一旦とはいえ拘束する真似は後ろめたく感じ、持ち上げる瞬間少しどきどきした。触れてはいけないものに、触れてしまった背徳感も。
以前、白黒の毛並みを撫でてしまった時に似た感覚だった。
しかし考え込む時間はない。もぞもぞと動く小さな命を注意深く胸ポケットにしまうと、ようやっと彼女は地表へと戻り始める。ざっと下方を見渡し、ルートを確認すると今度は躊躇わず動くことができた。
できるだけ体に振動を与えずに全身の屈伸を繰り返し。
そうしてようやく地に足をつけた頃には、樹上で見た時よりさらに多くの人が自分を見ていた。
しかも集まっている割には、しん…と皆口を噤んでいる。
(……?木登りがそんなに珍しい…とか…?)
それか敷地内の木登りは禁止だったのだろうか。もしや規範を犯してしまった?
明確な理由を思いつかないまま、彼らの先頭、自分の目の前に立つ人へと正対する。
「ただいま戻りました」
そう言えば、何か返ってくると思ったのだが…。
やはり彼が見たことのない表情をしている、と思ったのは気のせいではなかった。
「ルルリエ」
「はい」
「その雛を預かってやれ。フェルシアは、私と一緒に執務室へ来い」
短く指示が出たかと思えば、広い肩に隠れ見えなかった彼女が頷く。聞き間違いでなく普段よりもきびきびとした返事だ。
スッとこちらへ踏み出してきた彼女はやや顔色が悪い。しかしその目は何故か安堵に溢れていた。
「…フェルシア、少しの間その子を預かるわ。良いわね?」
「はい。…どうぞ、お願いします」
色々と疑問は尽きなかったが、促されるままにそっと手に乗せた雛を差し出す。彼女ならば大切に世話をしていてくれるだろう。外気にさらされ、ぷるりと一つ震えたふわふわは真っ黒な瞳を瞠っていていかにも不安そうだ。
(大丈夫よ。ルルリエ先輩は優しいから)
そう心の内で語りかけていると、緊張した面持ちの彼女が囁く。
「フェルシア、あのね…」
しかしその言葉は止まる。いや、それは不自然に飲み込んだようだった。
「…ううん。少佐が話があるみたいだから後で。執務室の外で待ってるからね」
「分かりました」
いつも朗らかな彼女の、常ならぬ雰囲気がこの現状を示唆している気がする。周りの隊員達も彼女と似たり寄ったりな……気まずげな表情をしていて。
しかしライナスがこの場に背を向ける直前に、皆はサッと一斉に散ってしまった。全てを察した風で仕事に戻ってゆく。
ここで評するは、「行け」と言われずとも上官の意図を察する彼らの優秀さだろうか。
また、そうさせた彼の背中に連れられている自分は、周りからどう見られているのだろうか。それから。
(…話って何だろう…?)
この時フェルシアは、本心から何が起こっているのか分かっていなかった。




