六、ケーキ教、炎上する
トールは高台の上に立ち、重々しく胸を震わせながら、なおも声を広場へ響かせていた。
だが、彼が期待していたような割れんばかりの拍手も、感動の涙も、ひれ伏す光景すら現れない。
下にいる村人たちは、敬意を示すどころか、互いに顔を寄せ合ってひそひそ話している。
眉をひそめる者。
白けたように目を逸らす者。
果ては頭を掻きながら「こいつ何言ってるんだ……?」とでも言いたげな顔をしている者までいた。
トールの満面の笑みが、徐々に固まっていく。
「……む? おかしいな。白石村の時とは反応が違うぞ?」
彼は口を開き、何か追加で語ろうとした。
しかしその時、視界の端にフレイヤの姿が映る。
小さな女神は、先ほど自分の「ケーキ理想生活」を大衆の前で読み上げられたせいで、羞恥のあまり今にも爆発しそうになっていた。
頭の中では思考がぐるぐると回っている。
「終わった終わった終わった! 私が“一日中ケーキ食べたい女”だって、完全に世界へ公開されたじゃない! だ、ダメ……私は女神なのよ!? こんなことで心折れちゃダメ……落ち着いて、落ち着いて……。どうせこいつら、誰も私が本物の女神だなんて知らないんだから……そう、そうよ……なら私には関係ない……!」
そしてフレイヤは、現実逃避を決意した。
ぷいっと唇を尖らせ、視線を空へ逸らし、存在しない口笛まで吹く真似をする。
その態度は全力でこう語っていた。
「この人、私とは無関係です」
だがそのタイミングで、困惑していたトールの視線がちょうど彼女へ向く。
彼は小さな女神を見つめながら、脳内で様々な記憶を繋ぎ始めた。
普段から堂々と自分を女神だと言い張ること。
聖典の内容に妙に詳しいこと。
そして今の、この頬を膨らませた表情が、どこか聖典の女神像に通じていること。
その瞬間、トールの脳裏に電流が走った。
「そうか! 見た目は聖典の偉大なる女神とは少々違うが、この子は聖典に詳しい! しかも自ら女神を名乗っている! ならば本人に直接布教させるのが最善ではないか!」
思いついた瞬間、トールの胸は高鳴った。
彼は勢いよくフレイヤを指差し、朗々と宣言する。
「諸君! 貴様らは幸運だ! なぜなら今日——女神ご本人が、自ら真理を説いてくださるからだ!」
「は?」
「女神?」
「あのチビっ子が?」
村人たちの視線が一斉にトールの指先へ集まる。
そこには、唇を尖らせ、視線を泳がせ、「私は関係ありません」オーラを全力で放っているフレイヤの姿があった。
「……へ?」
フレイヤは呆然と固まった。
尖らせた口も戻し損ねたままである。
だが言い訳する暇もなく、次の瞬間には広場中から盛大なブーイングが巻き起こった。
「この外来人たち、漫才でもしに来たのか?」
「女神が一日中ケーキ食ってるとか、そんなもん信じるくらいなら“食神”でも信じるわ!」
「食いしん坊で怠け者とか、豊穣とは真逆だろ!」
嘲笑混じりのざわめきはどんどん広がり、やがて村人たちは完全に興味を失い、三々五々に散っていった。
ほどなくして広場は再び閑散となり、高台の上にはトールとフレイヤだけがぽつんと取り残される。
トールはしばらく黙り込み、眉間に皺を寄せて考え込んだ。
「おかしい……どこを間違えたのだ? 聖典には確かにそう書いてあるのに……」
フレイヤは勢いよく振り向き、顔を真っ赤にして絶叫した。
「全部よ!! 全部が間違ってるのよーーー!!」
しかしトールは真顔のまま反論する。
「否。聖典は真理だ。この点に誤りはない。」
「アンタねぇ!!」フレイヤは地団駄を踏む。「さっきの生活表なんて、どう聞いても“食っちゃ寝ダメ人間”の設定でしょ!? 誰がそんな教義信じるのよ!」
するとトールは、逆に真剣な顔で問い返した。
「では、どうやって布教すればいいのだ?」
その一言で、フレイヤは完全に詰まった。
小さな口を半開きにしたまま、脳内が真っ白になる。
そもそも神である彼女は、自分で布教したことなど一度もない。
それは信徒や修士の役目だった。
人間をどう説得するか?
どうやって信仰を集めるか?
そんなこと、彼女は今まで一度も考えたことがなかったのだ。
こうして高台の上では、
聖典を絶対視する筋肉男と、
羞恥で爆発寸前なのに反論を封じられた女神が、
奇妙な膠着状態に陥っていた。
……もっとも、誰一人として気にしてはいなかったが。
*
広場からは既に大半の人が去っていた。
残っているのは、先ほどの意味不明な「教義講演」について小声で噂している数人の村人だけである。
その時だった。
広場の反対側から、急に騒がしい声が上がる。
数人の村人が、慎重に数頭の黒い狼を運び込んできたのだ。
狼たちの毛並みは焼け焦げ、まだらに乱れ、後ろ脚には痛々しい痣が残っている。
かなりの重傷であることは一目で分かった。
「急げ、薬草を塗れ!」
「こいつらは黒岩村の守護獣だぞ! 絶対に死なせるな!」
その姿を見た瞬間、フレイヤの瞳が激震した。
「……あれは!」
まさしく数日前、山中でトールに尻をぶっ飛ばされた“黒毛火線狼”たちだった。
狼たちは苦しげに呻いていたが、広場へ視線を向けた瞬間、ぴたりと硬直する。
そして次の瞬間——。
高台の上に立つトールの姿を見た。
あの筋骨隆々の巨体。
あの、狼の尻にトラウマを刻み込んだ恐怖の気配。
「クゥゥゥンッ!!」
狼たちは全身を震わせ、その場で失禁した。
周囲の村人たちが一斉に固まる。
「え……?」
「なんで急に全員ビビってるんだ?」
「狼たちが人間を怖がるなんてあり得るのか!?」
狼たちは身を縮めながらも、すぐにここが荒野ではないと気づいた。
背後には黒岩村がある。
軍営のような巨大な部族がある。
その事実を思い出した狼たちは、低く唸り声を上げ、高台のトールへ鋭い敵意を向けた。
トールは眉を上げた。
「ほう? またお前たちか。まだ懲りていなかったようだな。」
彼の目が鋭く細まり、一瞬で戦闘態勢に入る。
迷うことなく、手にしていた『純潔の聖典』を高く掲げた。
「ダメぇぇ! 逃げて! やめてぇぇぇ!」
フレイヤの悲鳴は、トールの耳には届かない。
次の瞬間。
聖典は、神々しい光を放つ魔法のステッキへと変化した。
「前回の説教では足りなかったか? なら今日はもっと深く叩き込んでやろう!」
トールが勢いよく魔法ステッキを振るう。
ハートが回転し、
羽がぱたぱたと羽ばたき、
再び狼たちの尻へ“愛の制裁”を加えようとしていた。
狼たちは毛を逆立て、悲鳴を上げながら後退した。
そして——この瞬間。
村人たちはついに全てを理解した。
狼たちの傷。
トールの持つ発光する魔法ステッキ。
そして先ほど本人が口にした「尻を叩く」という言葉。
全ての線が繋がる。
「待て……こいつ、守護獣を傷つけた張本人じゃないか!?」
「だから狼たちがあんなに怯えてたのか!」
「こいつ、伝道師なんかじゃない! 敵だ!」
「もうダメぇぇぇぇ!!」
フレイヤの悲鳴は、村人たちの武装する音に呑み込まれた。
金属音が次々と鳴り響き、広場の空気が一瞬で変わる。
屈強な村人たちは怒号を上げ、
傍らに置いてあった鉄斧や長槍を掴み取り、
家の中で休んでいた戦士たちまで黒と赤の革鎧を纏って飛び出してきた。
「黒岩村の戦士たちよ! 敵はここだ!」
「守護獣を守れ!」
「この外来のクソ野郎をぶち殺せ!」
わずか数声の号令で、
静まり返っていた広場は一瞬にして殺気立つ戦場へ変貌した。
数十人の大男たちが高台を完全包囲する。
槍の穂先と斧の刃が冷たい光を放ち、
その全てがトールへ向けられていた。
フレイヤは心臓が縮み上がり、その場にへたり込みそうになる。
「お、終わった……! 今度こそ本当に大惨事よぉぉ!!」
だがトールは、なおも真っ直ぐ立っていた。
鋼鉄のように冷えた眼差し。
手には無畏の光を放つ魔法ステッキ。
まるで彼にとって、この数十人の戦士たちですら——
ただ魔法ステッキに付く塵を少し増やす程度の存在に過ぎないかのようだった。




