五、ケーキ教、爆誕
フレイヤの幻影は、混乱と虚しい叫びの渦の中で、ゆっくりと消えていった。
聖なる光は薄れ、荘厳な幻想は煙のように霧散する。
そこに残されたのは、ありのままの草原と、ぐったりとうなだれる小さな女神だけだった。
「はぁ……」
フレイヤは心の底から長いため息をついた。
全身から力が抜け落ち、両腕をだらりと垂らしたまま、虚ろな目で前方を見つめる。
心の中にあるのは、ただただ深い徒労感だった。
「もういいよ……もういいもん……」
彼女は唇を噛み、乾いた笑みを浮かべながら心の中で呟く。
「どうせ信仰さえ入ってくればそれでいいし……正統派でも異端でも、力の本質は変わらないし……。信者が増えれば、遅かれ早かれ異端なんて絶対に出てくるものだし……うん、今回はそれがちょっと早かっただけ……そう、ほんの少し早かっただけ……」
肩が小さく震える。
まるで現実に打ちのめされた普通の少女のようだった。
それでもフレイヤは、必死に自分へ言い聞かせ続ける。
「信者の数さえ増えれば、そのうち本当に私の神性を理解してくれる流派だって生まれるはずだし……。このバカたちが変な方向に走っても、まあ燃料にはなるし……本物の信徒を育てるための養分だと思えば……うん……たぶん……」
こうしてフレイヤは、自分自身を無理やり納得させ、ついに抵抗を諦めた。
ぷいっと顔を背け、そのまま現実逃避モードへ突入する。
「聞かない、見ない、知らない……もう好きに信じればいいでしょ……どうせ最後は全部、私のところに入ってくるんだし……」
その一方で——。
初めて布教の成功体験を味わったトールは、信徒たちから向けられる崇敬と熱狂を浴び、全身が神性に満たされる感覚に酔いしれていた。
彼の表情は輝き、瞳には燃え盛るような信仰の光が宿っている。
トールは『純潔の聖典』を勢いよく閉じると、例の絵日記を胸に抱え込んだ。
その姿はまるで、大理石から削り出された聖人像。
神託を授かった使徒そのものだった。
「今日ここに伝えられた女神の真理は、いずれ雷鳴の如く世界へ轟くであろう!」
鐘を打つような力強い声が村中に響き渡る。
そしてトールは、わざわざ跪いている村人たちの方へ視線を向けた。
村人たちの瞳は、敬虔さと狂信に満ちている。
その熱量は絶え間なく、フレイヤの神格へと流れ込み続けていた。
「ありがとうございます、女神様!」
「ありがとうございます、修士様!」
「我らの命、今後は『純潔の聖典』へ捧げます!」
トールは感極まり、思わず天を仰いで豪快に笑った。
「女神は決して、ご自身の民を見捨ててなどいなかったのだ!」
その横でフレイヤは、小さな頭を抱えて身体を丸め込んでいた。
彼女の脳内を埋め尽くしているのは、たった一つ。
(私、こんなバカな民を救うつもりなんて、一度もなかったんだけどぉぉぉ!!)
*
その後、トールとフレイヤは村の小さな議事堂へ案内された。
……とはいえ、実際は村長の家である。
小さな村とはいえ、屋根付きの集会所くらいは必要だ。
空間をやりくりした結果、こうなったらしい。
布教を一段落させたトールだったが、その胸にはさらに大きな野望が燃えていた。
——女神の教えを、大陸全土へ広めること。
村長は部屋の箱や棚を漁り、小さな羊皮紙の地図を取り出した。
「ここが……」
ひび割れた指が、地図の中央を指し示す。
「白石村。わしらの村です。北東へ丘を越えれば、紅河町という町があります。人も多く、交易も盛んですな。南には緑林寨、狩りで生計を立てておる集落があります。そして西には黒岩村……わしらと同じ流れを汲む村です。ただ、古い地図ゆえ、今でも正確かどうかは分かりませんが……」
トールは話を聞きながら、興奮で胸を熱くしていた。
「素晴らしい! 実に素晴らしい! 女神の聖典は、あらゆる地へ届けねばならん!」
しかし、そこで村長の表情が曇る。
眉間には深い皺が刻まれていた。
「ただ……修士様。わしらは先日、狼のような化け物に襲われまして……。黒岩村の方も無事かどうか心配なのです。もし女神様の恩恵を広められるのでしたら、まずは黒岩村を見に行っていただけませんでしょうか……」
それを聞いた瞬間、トールは勢いよく立ち上がった。
「なるほど! これこそ女神がお与えになった試練なのだな!」
彼は拳を強く握り締める。
「安心しろ! このトール、フレイヤ女神の御名にかけて、決して民が辱められるようなことは許さん!」
「ありがとうございます……修士様……!」
村長は感極まって涙を浮かべ、トールの両手を固く握った。
トールは力強く腕を振り上げる。
「では出発だ! 女神の光で、黒岩村を照らそうではないか!」
一方その頃、フレイヤは隅っこで膝を抱えていた。
額を腕に押し付け、完全に「思考停止モード」である。
村長とトールの熱い会話も、右から左へ流れていく。
(もうどうでもいいや……信仰さえ入ればそれでいいし……。もう、あのバカ好きに暴れさせとこう……)
こうして——。
希望と野望に満ち溢れたトールと、完全に心が折れかけている女神フレイヤは、共に黒岩村への道を歩み始めたのだった。
*
トールとフレイヤは泥だらけの道を半日ほど歩き、ついに黒岩村へ辿り着いた。
村へ足を踏み入れた瞬間、フレイヤはぴたりと立ち止まる。
眉がぴくりと引きつった。
——空気が重い。
村全体が、妙な圧迫感に包まれていた。
建物の壁は黒を基調とし、そこへ血痕のような赤い線が走っている。
入口の石碑も黒く塗り潰され、不気味な赤い紋様が刻まれていた。
村というより、まるで戦場の駐屯地だ。
フレイヤは顔を青ざめさせ、小声で呟く。
「……やばい。ここ、完全に戦神系の空気なんだけど……」
だがトールは全く気にしない。
前回の布教成功ですっかり自信をつけてしまっていた。
「安心しろ!」
胸を叩きながら豪快に笑う。
「十分な信仰さえあれば、女神の光はあらゆる邪悪を打ち払う!」
「そういう問題じゃないってば!! ここ、明らかに別系統の信仰圏なの! 目立ったら絶対トラブルになるってぇ!!」
しかしトールは聞く耳を持たない。
堂々とした足取りで村の入口へ向かっていく。
すると、二人の大柄な門番が立ちはだかった。
筋骨隆々、顔つきも厳つい。
「外の者か。ここは簡単に入れる場所じゃない。身分を名乗れ」
敵意の混じった声だった。
フレイヤは慌てて誤魔化そうとする。
しかしトールは胸を張った。
粗末な修士服の下で筋肉が盛り上がり、陽光を浴びたその姿は、まるで神に選ばれた戦士そのものだった。
「我こそは女神の代弁者!」
トールは正々堂々と言い放つ。
「純潔と豊穣の真理を、この世界へ広めるために来た!」
門番たちは思わず顔を見合わせた。
話の内容は、どう考えても自分たちの知る教義と噛み合っていない。
しかし——。
トールの圧が異常だった。
岩のようにゴツい体格。
彫刻みたいに無駄に神々しい顔。
そして、意味不明なのに一切迷いのない態度。
結果、門番たちは逆に不安になった。
(もしかして……俺たちの勉強不足なのか?)
白い修士服も見覚えがない。
だが、そんなことは些細な問題に思えてくる。
やがて二人は静かに道を開けた。
「……通れ」
フレイヤは脳内で絶叫した。
(はぁぁぁ!? 検問ってそんなガバガバでいいの!? あんたたちクビになりなさいよ!!)
こうして二人は、あっさり黒岩村へ侵入成功してしまったのだった。
*
村の中へ入った瞬間、フレイヤの「嫌な予感メーター」は一気に振り切れた。
村中どこを見ても黒と赤。
家々には戦斧や盾の紋様が刻まれ、干されている布にまで物騒な刺繍が入っている。
空気には火薬と鉄の臭い。
村人たちは皆ガタイが良く、目つきも鋭い。
前の村の素朴な農民たちとは、まるで別世界だった。
フレイヤは慌ててトールの服を引っ張る。
「ねえ、やっぱ帰ろ!? ここ絶対ヤバいって!! 今ならまだ引き返せるから!!」
だがトールの目は輝いていた。
彼の視線は、広場中央にある石造りの演説台へ釘付けになっていたのである。
長椅子まで置かれている。
どう見ても集会用だ。
トールの胸は高鳴った。
——これは神が用意した舞台に違いない!
「わっはっは! 素晴らしい! 女神よ、やはり私に舞台を用意してくださったのだな!」
英雄のごとき勢いで、トールは演説台へ駆け上がる。
フレイヤの頭の中で警報が爆発した。
「ちょっ、待っ、降りなさいってぇぇ!! ここ白石村と違うからぁ!!」
だが、その悲鳴はトールの大声に掻き消された。
「黒岩村の諸君!!」
広場中へ響き渡る声。
「今日、私は君たちへ女神の理想的生活を伝えに来た!!」
村人たちは足を止め、警戒混じりの視線を向ける。
トールは『純潔の聖典』を勢いよく開いた。
その表情はやたら神々しい。
「聖典に曰く——理想の一日とは、こうあるべし!」
そして高らかに読み上げる。
「一、自然に目が覚めるまで寝る!
二、昼はケーキ!
三、おやつもケーキ!
四、夜もケーキ!
五、夜食もケーキ!!」
沈黙。
次の瞬間、村人たちがざわついた。
「……太るだろ」
「太るな」
「仕事いつするんだ?」
「そもそもケーキって何だ?」
「おやつって概念が分からん」
「ただの食いしん坊では?」
広場は困惑のざわめきに包まれる。
そしてフレイヤは——。
「やめてぇぇぇぇぇぇ!!」
顔を真っ赤にして地面を転げ回った。
「あれ私が子供の頃に書いた夢の生活表なのぉぉ!! 一日中ケーキ食べたいって妄想してただけなのぉぉ!! 教義じゃないからぁぁ!!」
羞恥で涙目になりながら、今すぐ地面に埋まりたそうに叫ぶ。
しかしトールは満面の笑みだった。
彼には村人たちの困惑が「教義が浸透し始めた証拠」に見えている。
彼はさらに力強く腕を振り上げた。
「人よ! 肥満を恐れるな!」
朗々たる声が響き渡る。
「ケーキこそ、愛と豊穣の象徴である!!」
フレイヤは心の底から絶叫した。
(もぉぉぉぉぉやめてぇぇぇぇぇぇーーーっ!!)




