四、女神の御姿
村人たちが、希望に満ちた視線で自分を見上げているのを見て、トールは「今こそ好機」と直感した。
これは布教の絶好のタイミングであり、フレイヤ女神の教えと恩恵を広く伝える千載一遇の機会——そして、フレイヤ本人が最も見たくない光景でもあった。
まだ恐怖の余韻が残る村人たちは、震える身体を押さえながら、トールが高く掲げる『純潔の聖典』を見上げていた。
その目は真剣そのもので、次に発される言葉を一言も聞き逃すまいとしている。
トールは軽く咳払いをし、声は荘厳に、目は力強く、全身から聖人降臨のような雰囲気を漂わせながら、うっとりと語りかけた。
「聖典に曰く——腹が減った時は、こっそり台所に忍び込んでお菓子を食べるべし。これこそ正義である!」
「おお……?」
「なるほど……いや、どこかおかしくないか?」
「女神様、懐が深すぎる……盗み食いまで救済してくださるとは……」
村人たちは互いに顔を見合わせながらも、先ほど目の当たりにした奇跡の影響もあり、その言葉を妙に納得してしまう。
やがて小さなどよめきの後、彼らの目には「これは真理だ」という確信の光が宿っていった。
一方その頃——
フレイヤは顔を両手で覆い、しゃがみ込み、声を震わせながら叫んだ。
「ちがうぅぅぅ!!それ昔、私がお菓子盗み食いして怒られた時に、自分で書いた言い訳だからぁ!!教義じゃないからぁぁ!!」
しかしその叫びは誰にも届かない。届いたとしても、すでに耳には入らなかっただろう。
村人にとってそこにいるのは救済者トールであり、彼が掲げるものこそ「聖典」なのだから。
「聖典にはさらにこうある!」
トールはページをめくり、歪な文字を指さした。
「一日に三度、自分に向かって笑えば奇跡が起こる!これが真理である!」
「なるほど……!」
「だから私、最近ついてなかったのか……笑ってなかったから……!」
「女神様万歳!!」
「やめてぇぇぇ!!それただの自己暗示なんだからぁ!信じないでよぉ!」
フレイヤの悲鳴は虚しく響く。
しかしその瞬間——彼女の身体に、かすかな、しかし確かな力が流れ込んだ。
信仰の力だ。
純粋で、敬虔で、甘やかな力。
その起源が誤解であろうと、嘘であろうと、その力は確かに神へと届いていた。
「……どうして?」
フレイヤは呆然とする。
「全部デタラメなのに……どうしてこんな信仰が届くの……?」
その横でトールは気づかず、聖典の朗読に酔いしれている。村人たちも恍惚とした表情で頷き、中には跪く者まで現れ始めた。
「まずい……このままでは信仰が完全に歪む……!」
フレイヤはせっかく得たばかりの神力も味わう間もなく、歯を食いしばった。
「こうなったら……やるしかない!」
彼女は両手を組み、低く呪文を唱え始める。
祝福の神聖な鐘の音が鳴り響き、周囲の空気が震えた。
その瞬間、村人たちの前に眩い光が広がる。
「おおおっ……!」
村人たちが見上げると、光の中に一人の女神が現れた。
高くしなやかな身のこなし、風に揺れる金の長い髪。神聖にして威厳に満ちた眼差し。その背には眩いばかりの翼が広がっている。
それが、フレイヤ本来の神格の顕現——堂々たる女神の姿だった。
「これが……本当の女神様……!」
村人たちは息を呑み、涙を流す。
「子らよ。惑わされてはいけない。私はフレイヤ。愛と豊穣の女神。あなたたちを導き、守護する者」
その時だった。
トールが聖典を掲げ、叫んだ。
「皆さん、騙されてはいけない!これは偽物だ!」
「なっ……!?」
フレイヤの幻影が思わず叫び返す。
「誰が偽物だと言ったのよ!?」
村人たちもどよめく。
トールは冷静に聖典のページを開き、そこに描かれた歪な落書きを指差した。
頭が異様に大きく、体は小さく、目は潰れた魚のような女神の絵。
その横にはこう書かれている。
『美しいフレイヤ様 今日もとても可愛い』
トールは断言する。
「聖典に描かれた女神の姿はこれだ!この歪んだ幻影こそ偽物。こちらの聖典こそが真実である!」
「そ、それ私が子供の頃に描いた落書きでしょ!!よくもそんなものを証拠に——!」
フレイヤは顔を真っ赤にして絶叫した。
「本女神、こんな顔じゃないんだからぁぁぁ!!」
しかし村人たちは再びざわめき始める。
「でも……聖典にはそう描いてある……」
「今の女神様も確かに荘厳だけど……」
「いや、やはり聖典こそが神の言葉。ならば聖典の絵こそが真実では?」
「もしかして……これは試練なのでは?」
「そうだ!我々は外見に惑わされてはいけない。女神は歪んだ姿で現れることで、本質を見よと教えているのだ!」
「なるほど!だからこそ、あの歪な姿こそが女神様の真の御姿だったのか!」
「女神様は慈悲深い……わざと歪な姿で示してくださっている!」
「違うって言ってるでしょぉぉぉ!!」
フレイヤの叫びはもはや悲鳴に近かった。幻影であるにもかかわらず、その胸は激しく上下し、今にも気絶しそうだった。
「このバカども!本女神はそんな顔じゃないのよぉ!」
トールは確信に満ちた表情で言い放つ。
「偉大なる女神様、これはきっと試練なのですね。たとえ今は逆のことを仰っていようとも、聖典に記された真実を私は決して疑いません。私は絶対に騙されませんよ!」
「もう……腹が立って頭がどうにかなりそうよぉ!うわああああああああ!!」
フレイヤの幻影はついに限界に達し、崩れかけながら叫んだ。
その背後で、信仰値だけが静かに増えていく。
信徒:23+1(?)
領域:幸運
神術:造水術、武器変化、治癒小傷、幻化形象




