三十二、旧き神に挑む新たな神! 托爾、聖典を捨てて剣を取る
「戦神……」
トールは低く呟いた。
アレスの異変など意にも介さない。獲物は目の前にいる。一秒でも余計に迷うことは、目標に対する侮辱だ。
その瞳には雷霆のような光が宿り、戦意は今にも全身を引き裂かんばかりに高まっていた。
フレイヤは即座にそれを察し、彼の腕を押さえようと手を伸ばした。しかし触れた瞬間、トールの身体は極限まで張り詰めた弓弦のようになっていることに気づく。
彼の肉体と魂は、玉座の上に座す圧倒的な神威に呼応していた。
《兵法》の領域が冷静に導き出した結論は明白だった。
今のトールは、もはやただの人間ではない。
古き神へ挑戦せずにはいられない、新たな神だった。
「フッ……」
玉座のアレスが顔を上げる。
兜の奥に広がる闇は深淵のようで、その視線はまっすぐトールを見据えていた。
「聞いているぞ……栄光の女神を名乗る犬の飼い主がいるとな。その足元には狂犬が一匹いると」
血炎の大剣が低く唸る。
赤黒い炎が石床を這い、まるで旧神が新神を見定めているかのようだった。
「まさか自らここへ来るとはな」
「トール!」
フレイヤは言葉に神力を込める。
その声は命令としての威圧を帯び、逆らうことを許さなかった。
「まずは私に話をさせて!」
意外なことに、トールは無理やり戦意を押し殺した。
静かに身を引き、フレイヤとアレスの対話を見守る。
まるで二柱の古き神へ敬意を払うかのように。
フレイヤがその変化に驚く間もなく、アレスの重々しい声が再び響いた。
「お前が? 何を話すという。この状況で……」
「アレス……」
フレイヤは震える声を押さえながら問いかけた。
「なぜ私に、そして私の民に戦争を仕掛けるのですか? 本当に人類を守るつもりなら、なぜ最初に人類同士を争わせるのです?」
アレスはすぐには答えなかった。
鎧の隙間を流れる血炎が、まるで呼吸するかのように揺らめく。
長い沈黙の後、彼は低く口を開いた。
「お前は勘違いしている」
「戦争は災厄ではない。戦争こそが守護だ」
「戦争を知らぬ者は籠の中の雛鳥と同じ。やがて獣に喰われるだけだ」
「戦場へ赴く者は、一歩ごとに生死と覚悟を背負っている」
「だが、お前が守っている者たちはどうだ?」
その瞬間、声色が鋭く冷えた。
血炎の大剣が石床を引き裂き、不快な金属音を響かせる。
「……覚悟というものを何一つ知らん」
「踊りや歌でオークを退けられると思っているのか?」
「祈りでアンデッドを追い払えると思っているのか?」
「違う」
「彼らに必要なのは力だ」
アレスは鉄の腕を突き出し、トールを指差した。
「見ろ、この若者を!」
「お前が育てた新たな神を!」
「純潔という庇護の中で戦争と衝突し、比類なき力へと至った存在を!」
彼の声が議場全体を震わせる。
「戦争と純潔が交われば――聖戦となる」
「戦争と美が交われば――兵法となる」
「そしてそのすべてが、我が領域を鍛え上げる」
「より純粋に、より強大に!」
フレイヤの《兵法》領域ですら、この論理を否定できなかった。
狂信。
復讐。
暴力。
聖戦。
それら派生した領域は、確かに純潔よりも人の心の闇へ近い。
トールが歩んできた戦いの道もまた、フレイヤの力と戦争の領域が互いに衝突し、互いを鍛え上げる過程だった。
「理解しただろう?」
アレスの声は戦鼓のように轟く。
「私はお前の領域を奪おうとしているのではない」
「正しく使おうとしているのだ!」
「私の戦争の中でこそ、それらの領域は真に人類を守る!」
*
フレイヤはアレスを見つめた。
その瞳には隠しきれない悲しみが宿っていた。
《兵法》の領域は、アレスの言葉が合理的であり、最小の犠牲で勝利へ至る道だと告げている。
だが――
彼女の心は受け入れられなかった。
「……いいえ、アレス」
静かだが揺るぎない声だった。
「あなたの言う通りです。戦争は覚悟を鍛えるでしょう」
「けれど人の心が、幾度もの殺し合いの果てに麻痺し、憎しみと恐怖だけで満たされたなら……」
彼女は両手をそっと持ち上げた。
見えない何かを守るように。
「たとえ外敵が消えても、その人たちに何が残るのですか?」
「愛のない暮らし」
「美しい歌のない世界」
「純潔な心のない人生」
「そんな人類は、生きていてもただ歩く亡者です」
「あなたが作ろうとしているのは、生者の国ではなく、亡者の王国です」
アレスは動かなかった。
血炎の大剣だけが低く唸り、彼女の理想を嘲笑っているようだった。
トールは相変わらずアレスを見つめている。
二柱の神の議論が耳に入っているのかどうかすら分からない。
フレイヤは心の底で理解していた。今自分が放つ言葉が戦神を動かすことはない。むしろ弱さと見なされるだろう。だがそれこそが自分の立場であり、存在する意味なのだ。
「アレス、あなたが求めるのは勝利」
彼女は黒い兜を真っ直ぐ見据える。
「でも私が守りたいのは――」
その声は優しかった。
「勝利の先でも、人々が見上げられる空なんです」
*
アレスはしばらく沈黙した。
やがて低い笑い声が漏れる。
圧迫感を伴う笑いだった。
「ハハ……純潔か」
「愛か」
「美か」
「確かに高尚なものだろう」
「だが、それらは強者が剣で守ってこそ、だ。守る者がなければ、どれほど長く保てる?」
彼は指先で沙盤の幻影を示した。
オークが村人を引き裂く。
アンデッドが畑を踏み荒らす。
ゴブリンが子供を闇へ引きずり込む。
「見ろ」
「彼らに必要なのは剣と盾だ」
「踊りでも歌でもない」
「戦争の庇護がなければ、お前の純潔は塵となる」
「戦士たちの犠牲がなければ、お前の愛も美も弱者の幻想に過ぎん!」
轟音のような言葉が大広間を支配する。
フレイヤは反論しようとして口を開く。
だが言葉が出ない。
なぜなら彼女自身、その言葉が真実だと知っていたからだ。
心が揺らぐ。
《兵法》の領域も囁く。
勝利こそが存続の前提だと。
「言葉はもう十分だ!」
その時だった。
トールが一歩前へ出た。
「戦神の真理は――戦場で決めるものだ!」
声は雷鳴のように響き、フレイヤの沈黙を断ち切った。
彼は聖典を高く掲げる。
聖光が爆発する。
次の瞬間――
フレイヤの日記だったはずの聖典が、光の中で伸び、歪み、姿を変えていく。
そして巨大な両手剣へと変貌した。
そこから放たれる神威は、これまでのどの時よりも凶暴だった。
まるでそれこそが本来の姿であるかのように。
フレイヤはその剣を見つめる。
だが彼女の目には、聖典が引き裂かれる光景にしか映らなかった。
純潔の信仰が、戦争に呑み込まれていく。
止めたい。
けれど、もう止められない。
交渉の道は完全に閉ざされた。
すべてを決めることができるのは――
ただ一人。
「トール……」
フレイヤは静かに目を閉じた。
「希望を、あなたに託します」




