三十一、戦神アレスとの対面――要塞の奥で見た真実
二人はついに最終目的地へとたどり着こうとしていた。
鉄戟堡の輪郭がゆっくりと視界に現れた瞬間、空そのものが見えない巨人の手によって押し下げられたかのように感じられた。重苦しい雲が低く垂れこめ、息苦しい圧迫感を放っている。
要塞は荒々しい黒石で築かれていた。
その一つひとつの石には歳月と戦火の傷跡が刻まれ、分厚い城壁はまるで眠る古代の巨獣のように静かでありながら、揺るぎない威圧感を放っていた。
城壁の塔には血に染まった戦旗が掲げられている。
黒地に赤い紋様が描かれた旗は冷たい風に激しくはためき、その紅い線はまるで血が流れているかのようだった。
そこに示されている支配者はただ一柱――戦争。
旗のはためく音と風の唸りは、無数の戦死者たちの嘆きにも似た囁きとなり、聞く者の背筋を凍らせた。
要塞へ続く街路は真っ直ぐで冷たい。
灰色の石畳が敷き詰められ、余計な装飾は一切存在しない。
軍隊の進軍と兵站輸送のためだけに作られた実用的な大道だった。
道の両脇に並ぶ建物もまた簡素そのものだった。
低い石造りの家々が整然と並び、鉄扉には錆が浮いている。
華やかさなど微塵もなく、有事の際にはそれぞれが小さな砦へと変貌しそうな雰囲気を漂わせていた。
重厚さ。
厳粛さ。
そして微かな鉄錆の匂い。
それらは見えない大剣となって、この地に足を踏み入れた者すべてに圧し掛かる。
誰もが無意識に息を潜め、鼓動すら慎重になってしまうほどだった。
フレイヤは鉄戟堡を、噂通りの戦争要塞だと思っていた。
無数の兵士が巡回し、厳重な検問が行われ、街は戦神アレスへの狂信に満ち溢れている。
そんな光景を想像していた。
しかし実際に足を踏み入れてみると、目の前に広がっていた景色はまるで違っていた。
住民はいる。
だが人影はまばらだ。
石畳の上を数人がゆっくり歩いているだけで、その足音だけが空虚な街に響いていた。
検問の兵士も確かに存在した。
しかし彼らはフレイヤとトールを一瞥すると、人間であることを確認しただけで無言で通した。
質問もない。
敵意もない。
住民たちの表情には確かにアレスへの信仰が宿っていた。
だがそれは噂のような狂熱ではなかった。
長い戦いに削られた者だけが持つ、疲れた静けさだった。
「違う……こんなの……」
フレイヤは胸中で呟いた。
《兵法》の領域が高速で演算を始める。
無数の情報が星々のように浮かび上がり、一つの戦況図を描き出した。
鉄戟堡。
戦神アレスの聖地。
かつては数万の兵士と莫大な軍需物資が集められていた場所。
だが今は空虚だ。
まるで捨てられた野営地のように。
そして一つの結論が導き出される。
――大軍は出征した。
圧倒的な戦力を率いて。
どこかの戦場へ。
その戦場は極めて高い確率で、自分たちの小さな領地だ。
その考えが亡霊のように心へまとわりつき、フレイヤの胸を締めつけた。
そんな時だった。
街道の先から見覚えのある男が歩いてくる。
二人の前で立ち止まった。
黒と赤の鎧。
背には血炎の大剣。
ゲイルだった。
だが彼はいつものように剣を抜かなかった。
挑発もしない。
威圧もしない。
その巨体は変わらない。
だが鎧には風塵と乾いた血がこびりつき、足取りには隠しきれない疲労が滲んでいた。
険しい表情で二人を見据えながら、低い声で告げる。
「戦神様がお前たちに会いたいそうだ」
「いいだろう! 栄光のために!」
トールの瞳が燃え上がる。
全身から凄まじい戦意が噴き出した。
「そういう意味じゃない。戦神様がお前たちを呼んでいる」
ゲイルは首を横に振った。
そしてそれ以上何も言わず背を向ける。
二人がついて来るかどうかすら確認しなかった。
「何かある……」
フレイヤの《兵法》が激しく回転する。
しかしどれだけ推論してもアレスの意図が見えない。
自ら呼び出す?
挑発にしては危険すぎる。
罠にしては露骨すぎる。
探りにしては率直すぎる。
理解できない。
不安だけが膨らんでいく。
「面白い! 戦神が呼ぶなら行ってやろうじゃないか! アレスが何を企んでいるのか見届けてやる!」
トールは豪快に笑った。
獲物を見つけた猛獣のように。
フレイヤの迷いなど気にも留めず、ゲイルの後を追って歩き出す。
「待って――」
伸ばした手は空を掴んだ。
トールは振り返らない。
フレイヤは小さく息を吐き、不安を押し殺して後を追った。
*
ゲイルに導かれ、二人は鉄戟堡の長い回廊を進んでいく。
足音だけが石造りの通路に響く。
空気は重く、胸の上に巨大な岩を載せられたようだった。
回廊の壁際には多くの負傷兵が座り込んでいた。
粗末な包帯で失った手足を縛る者。
血が滲み出している者。
紙のように青白い顔で、今にも息絶えそうな者。
彼らはフレイヤたちを見ようともしない。
生死を超えた場所に立っているかのようだった。
その瞳に残っているのは疲労と、わずかな信念だけ。
誰も喋らない。
鎧の擦れる音。
ゲイルの軍靴が石床を打つ音。
そして時折聞こえる弱々しい呟き。
「アレスのために……」
祈りにも似たその言葉は、痛み止めのようにも聞こえた。
フレイヤの《兵法》の領域が静かに動き出す。新たな情報を取り込もうとするが、この異様な静けさが無形の網となって彼女の思考を絡め取っていた。
やがて三人は広大な広間へと辿り着く。
そこには王座の間らしい豪華さはなかった。
むしろ軍議室だった。
石床には複雑な陣形図が刻まれ、中央には巨大な砂盤が置かれている。
山脈。
河川。
森林。
城塞。
精巧な地形模型の上には無数の旗が刺さっている。
さらに上空には神術による戦場映像が浮かんでいる。
そこでは戦神の軍勢が、オークやアンデッド、ゴブリンたちと激しく戦っていた。
血と炎。
剣戟。
軍馬の嘶き。
兵士たちの咆哮。
そのすべてが映し出されている。
そして砂盤の向こう側。
広間の最奥には巨大な石の玉座があった。
まるで戦場すべての勝敗を背負う孤峰のように。
そこに座る存在こそ――戦神アレス。
漆黒の鎧。
血のような紅い装飾。
重厚で美しく、それでいて禍々しい。
まるで鮮血と闇を圧縮して作り上げたかのような鎧だった。
兜は完全に顔を覆っている。
表情は見えない。
ただ深い闇だけがそこにあった。
「左翼を圧迫しろ……右翼は陽動だ……時間を稼げ……」
低く重厚な声が響く。
左手で戦況を指示しながら、右手は一振りの巨大な剣に置かれている。
夜のように暗い刃。
その上を赤い血炎が生き物のように這っていた。
アレスは休むことなく命令を出し続ける。
戦場は一つではない。
数多くの軍勢が戦っている。
そのすべてに神の指揮が必要なのだ。
その声には微かに疲労が滲んでいた。
だが圧倒的な自信と威厳によって無理やり押し隠している。
フレイヤが戦況映像へ目を向ける。
そこに映る人類軍は、ほぼ全域で劣勢だった。
孤独な戦神。
誰よりも重い責務を背負う存在。
《兵法》の領域は告げていた。
その声の奥には――
動揺。
悲しみ。
諦めきれない無力感。
そんな感情が隠されていることを。




