三十、村を救いたい最強の使徒を必死に止めたら、なぜか戦神みたいになっていました
フレイヤは遠ざかっていく土煙を静かに見つめていた。
胸の奥では《兵法》の領域がなおも冷徹に演算を続けている。
現在のトールをどう使うべきか。
覚醒したトールは、圧倒的な存在感を持つ切り札だった。
かつてのような苦渋の選択ではない。
今の彼なら、無数の勝利への道筋が見えている。
だが、そのどれもが大量の血を代償として要求していた。
そして最終的にフレイヤが選んだのは、細く危険な一本の道。
――被害の最小化。
その計算は味方だけに向けられたものではない。
敵の命さえも含まれている。
なぜなら彼女はフレイヤだからだ。
《兵法》が勝利のためなら犠牲を厭うなと囁いても、彼女は自らの慈悲深い本質に逆らえなかった。
(だから……やっぱり潜入を続けるしかない。そして再び足取りを隠す)
そう自分に言い聞かせた。
傍らではジョニーとジェニーがまだ震えている。
親子は先ほどの戦いによって完全に怯えきっていた。
あれはもはや魔物との戦闘ではない。
神威と神威がぶつかり合う戦場だった。
フレイヤは小さくため息をつくと、ジェニーの乱れた髪を整えた。
「ここでお別れね」
できるだけ優しく言う。
ジョニーは名残惜しそうだったが、それ以上に安堵が見えた。
娘の肩を抱きながら頷く。
しかしジェニーは不安そうにフレイヤの服の裾を掴んだ。
「……また会える?」
フレイヤは一瞬だけ言葉に詰まった。
そして苦い笑みを浮かべながら答える。
「ええ。きっと会えるわ」
そう言って少女の手を父親の手へ戻した。
馬車が遠ざかっていく。
フレイヤは静かに見送った。
この村ではトールとゲイルの戦いが目撃されている。
信仰はすでに大きく揺らいでいた。
長居は危険だった。
最低限の信仰管理だけを済ませると、彼女はすぐにトールを出発させた。
少なくともトールがいなければ、村人たちが彼の影響を受ける機会も減る。
村の外ではトールが待っていた。
その瞳には濃密な戦意が燃えている。
かつての無邪気な笑顔とは別人のようだった。
フレイヤの胸が締め付けられる。
それでもまだ彼は自分の言葉を聞いてくれる。
今のうちに導き続ければ、この力を少しでも正しい方向へ向けられるかもしれない。
もし領域による侵食が止められないとしても――
せめて今はまだ、トールは自分の制御下にいる。
《兵法》の領域が冷たく輝く。
氷の刃のような理性が、彼女の不安を細かく切り刻んでいく。
だが消してはくれない。
フレイヤは深く息を吸った。
「行きましょう、トール。これからは……もっと慎重に」
「了解した」
トールは即答した。
「これからの道は、俺が刃となり前に立つ。お前は知恵となり後ろから導け。戦場は俺の責任だ。お前の策には従う」
その言葉にフレイヤは思わず息を呑んだ。
まるで将軍と軍師の会話だった。
トールの瞳は燃えるように輝いている。
そこには祈りもなければ、かつての素朴さもない。
あるのは勝利への執念。
そして戦いへの渇望だけだった。
「……ええ。私の指示を忘れないで」
フレイヤは無理やり微笑んだ。
訂正はしなかった。
ただ静かに頷く。
*
ジョニーから得た断片的な情報。
そして《兵法》の領域による精密な推論。
フレイヤの地図は徐々に完成へ近づいていった。
血管のように伸びる線。
それらはやがて一つの名へと収束する。
――鉄戟砦。
戦神の要塞。
兵糧も武器も精鋭も全てが集められた場所。
そしてアレスが最も高い確率で存在する場所だった。
フレイヤは地図を見つめる。
胸が重い。
その迷いを感じ取ったかのように、《兵法》の領域が再び冷たく囁いた。
『鉄戟砦。正面衝突。勝利時、神威および信徒を獲得。敗北時、失う駒は二つのみ。信徒は戦神へ吸収。被害最小』
フレイヤの指先が震える。
その「二つの駒」が自分とトールを指していることくらい分かっていた。
しかし声は止まらない。
やがて嘲笑とも誘惑ともつかない響きへ変わる。
『だが各地を攻略しながら信徒を奪うなら話は別だ。トールの威をもって領内を駆け巡れ。戦神が追いつく前に信仰は潮のように流れ込む。敵の基盤は崩壊する。絶対勝利』
フレイヤの瞳が揺れた。
勝利。
その言葉は甘い毒だった。
もし手段を選ばなければ。
トールに全ての村を従わせれば。
アレスの信仰基盤を根こそぎ奪えば。
彼女は信徒を守れる。
それどころか戦神そのものを打ち倒せる。
だが――
「違う」
フレイヤは小さく呟いた。
「血の海の上に築かれた勝利なんて、私の望むものじゃない」
『勝利を拒むなら』
《兵法》は淡々と答える。
『その慈悲こそが敗因となる』
フレイヤは顔を上げた。
湖のような瞳に強い意志が宿る。
「慈悲によって敗れる方がいい。虐殺によって勝つよりも」
《兵法》は沈黙した。
まるで次に彼女が揺らぐ瞬間を待つかのように。
フレイヤは溢れそうになる涙を拭った。
そして何度も心の中で繰り返す。
祝福のように。
あるいは呪いのように。
*
幸運なのか、不運なのか。
潜入を続ける道中、彼女たちは依然として襲撃された村々を目にした。
だが以前とは状況が違う。
鉄戟砦へ近づくほど、オーク、ゴブリン、トロール、アンデッドといった人型魔物の襲撃は続いていた。
しかし各村には兵士が増員されている。
そのため致命的な被害には至っていなかった。
焼け焦げた家屋。
血と煙の匂い。
それでも住民たちは生き残り、壊れた故郷を守り続けていた。
戦火を見るたび、トールの目には渇望が宿る。
今にも飛び出そうとする。
だがそのたびにフレイヤがそっと腕を引いた。
「トール」
静かに言う。
「あなたを必要とする戦場ばかりじゃないわ」
「だが彼らは俺を必要としている!」
トールは歯を食いしばった。
「敵がいる。民を守らなきゃならない!」
「すべての戦場があなたのものじゃない」
フレイヤは首を振る。
「本当の戦場はもっと先にある。今ここで戦えば、魔物だけじゃない。戦神に仕える兵士たちまで敵として追い払うことになる」
トールは沈黙した。
険しい表情のまま。
やがて力んでいた拳がゆっくり緩む。
その姿にフレイヤは逆に戸惑った。
かつてのトールなら止められなかった。
《純潔》の聖典と勢いだけで突っ走る男だった。
彼女の説得など、絹の首輪で獅子を繋ごうとするようなものだった。
だが今は違う。
何度も立ち止まる。
衝動を抑える。
自らの意思で従っている。
フレイヤは静かに考えた。
戦神の化身による侵食はさらに深まっている。
昔のトールは薄れつつある。
守護への衝動すら抑え込めるようになった。
それは何を意味するのか。
より深い欲求が生まれている。
――最終的な勝利への渇望。
それが目の前の戦場を上回っているのだ。
彼はもはや戦場へ飛び込むだけの男ではない。
獲物を待つ猛獣。
本当に価値ある獲物が現れるまで耐え続ける捕食者。
静かすぎるほど静かな男。
勝利だけを見つめる男。
その姿は少しずつ、もう一柱の戦神へ近づいていた。
遠く燃える村を見つめながら、トールは深く息を吐く。
何度も。
まるで戦鼓のように重く。
そして低く言った。
「……お前に従う」
その声は従順というより。
本能を抑え込む獣の唸りに近かった。
フレイヤはその言葉を聞いた。
そして、その奥に潜む見知らぬ戦意もまた聞き取っていた。




