二十九、最強になった使徒が、私の言うことを聞いてくれない件
戦場の硝煙はまだ完全には晴れていなかった。
空気には金属と土埃の匂いが漂っている。
フレイヤは静かに撤退していく黒紅軍団を見つめていた。
しかし彼女の胸の内では、目の前の戦場よりも激しい波が渦巻いていた。
かろうじて微笑みを浮かべる。
少なくとも異郷の地で敗北することはなかった。
だが、そのわずかな安堵の下から、次々と不安が押し寄せてくる。
第一の不安は、トール自身についてだった。
白翼の大剣を振るうその姿は、もはや彼女の知る不器用で真っ直ぐな大男ではない。
まるで本物の戦神。
彼の身体から放たれる神威は、徐々に「女神の信徒」という枠を超え、「もう一柱の半神」へと変貌しつつあるように見えた。
その力は確かに彼女を守った。
しかし同時に、恐ろしいほどに見知らぬものだった。
第二の不安は、この勝利そのものだ。
今回の戦いはあまりにも鮮烈だった。
トールが見せた力は常識外れである。
もしアレスが少しでも感知していれば、自らの領土に新たな戦争の化身が現れたことに気づくはずだ。
その時にやって来るのは、ゲイルの軍団だけではない。
もっと多く。
もっと強く。
もっと抗い難い戦神の軍勢だ。
そして第三の不安。
それは計画そのものについてだった。
本来の方針は、
潜入。
交渉。
失敗した場合のみ一騎打ち。
その順番だった。
しかし今やトールは単なる駒ではない。
制御不能な力そのものになりつつある。
このまま予定通りアレスとの交渉へ向かうべきか。
それとも方針を変え、トールを「新たな戦神」として各地へ示し、信仰を奪いながらアレスの基盤そのものを崩していくべきか。
前者の問題は、トールが従うかどうか。
後者の問題は、彼を本当に戦神へ押し上げてしまうこと。
それはもう戻れない道かもしれなかった。
フレイヤは静かに目を閉じる。
《兵法》の領域が全力で回転する。
無数の未来。
無数の選択肢。
光の線と影が交錯し、数え切れない戦略シミュレーションが脳内で展開されていく。
だが、どの未来にも共通する不安があった。
――トールは、まだ私の言葉を聞いてくれるのだろうか。
目を開く。
そこには白翼の大剣を高く掲げ、集まった村人たちへ勝利を宣言するトールの姿があった。
顔には誇り。
高揚。
そして戦意。
その瞳に宿る光は、もはや信仰や献身だけではない。
神そのものが放つ輝きだった。
村人たちの視線も変わっている。
かつては神使を通じて女神の威光を見ていた。
しかし今は違う。
彼らが見ているのはトール自身だ。
敬意と畏怖。
まるで神が降臨したかのように。
人は神を目の前にした時、跪く以外に何ができるというのだろう。
フレイヤの胸が痛む。
彼女はまだ優しく導くことができる。
《兵法》の領域で最善の策を導くこともできる。
だが。
戦神の気配を纏い始めたこの半神は。
本当にこれからも、自分の言葉を唯一の道標としてくれるのだろうか。
*
トールの手にあった白翼の大剣は、再び《純潔》の聖典へと姿を変えた。
肩で息をしながらも、その顔は紅潮している。
まるで全身が燃えているかのようだった。
「ははは! やっぱりあいつらじゃ俺には勝てないな!」
夜空を見上げる。
瞳には炎が宿っていた。
「こういう勝利こそが栄光にふさわしい! ……女神のな!」
「……そうね。勝利だったわ。でも覚えている?」
フレイヤは静かに言った。
「トール。あなたが最初に持っていたのは剣じゃない。《純潔》の聖典だったはずよ」
「聖典? もちろん覚えてるさ!」
トールは笑った。
「だけどな。剣なら一瞬で本当の信仰を理解させられる!」
彼は拳を握る。
「説得するより勝つ方が早い。信仰だってその方が集まる!」
「勝利……」
フレイヤは小さく繰り返した。
「信仰は勝ち負けじゃないわ。人の心の最も誠実な願い。生きる支えそのものなの」
普段のトールなら首を傾げていただろう。
そして日記の一節を指差しながら、滅茶苦茶な理屈を真顔で語り始める。
そのたびにフレイヤは怒鳴っていた。
だが今のトールは違う。
笑みを消し。
拳を胸へ叩きつけた。
「子民を守れるなら!」
その声は力強かった。
「剣でも信仰でも関係ない! 俺は剣を選ぶ!」
フレイヤは言葉を失った。
かつて純粋だった瞳。
今は戦神のような闘志に燃えている。
胸の奥の不安を振り払うように、《兵法》の領域を発動する。
計算が始まる。
戦局が流れる。
アレスとの戦い。
ゲイル軍団との戦争。
他の神々の介入。
あらゆる可能性を演算していく。
しかし。
どんな未来を辿っても。
最後には必ず現れる光景があった。
ぼやけている。
だが消えない。
戦場の中央。
向かい合う二人。
フレイヤとトール。
敵として。
「……違う」
彼女は強引にその予測を振り払った。
「そんなはずない……」
無理やり微笑みを作る。
何事もなかったように。
しかし、その不吉な未来は影となって心に貼りついて離れなかった。
風が吹く。
その瞬間。
彼女の胸に、これまで決して考えようとしなかった想いがよぎる。
もしかすると――
最後に本当に立ちはだかる最大の敵は。
アレスではない。
トールなのかもしれない。




