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二十八、勇者が戦神になる日

ゲイルは冷ややかに前方へ立っていた。その背後には黒と紅の鎧をまとった戦士たちが堅固な陣地を築いている。まるで精密な盤上の駒のように整然と並び、フレイヤとトールを完全に包囲していた。


「今度こそ逃げ場はないぞ」


ゲイルの低く威圧的な声に、嘲りの色が混じる。


「純潔の女神の信徒は、前進あるのみだ!」


トールは全身の筋肉を膨れ上がらせ、地を震わせるような声で叫んだ。


馬車の陰では、フレイヤがジェニーをしっかりと庇いながら、慎重に《静音術》を施していた。気配すら断ち切るためだ。


もしゲイルがジェニーの存在に気づけば、必ず人質にする。


そうなれば彼女は選べない。


トールがジェニーのために戦いを放棄しても苦しい。


逆に見捨てて戦い続けても苦しい。


どちらに転んでも、心が引き裂かれるような痛みを味わうことになる。


さらにフレイヤは、黒紅軍団の戦術が以前とは変化していることに気づいた。


かつての彼らは両手武器を振るい、重装甲に頼った突撃戦法を得意としていた。


しかし今は違う。


片手剣と盾。


一人ひとりが慎重に動き、自分だけでなく仲間の安全も重視している。


隊列の連携も格段に向上していた。


「まさか……」


フレイヤの胸が締め付けられる。


「彼ら……トール対策の戦術を作り上げている……!」


トールの攻勢は凄まじい。


しかし、連携を前提とした軍団戦術の前では苦戦を強いられていた。


突撃の衝撃は盾列に受け止められる。


陣形を崩しても、即座に別の戦士が穴を埋める。


信仰の力によって戦神の化身に近づいたトールであっても、この徹底した対策の前では明らかに不利だった。


やがて額に汗が滲む。


「くっ……思ったより……厄介だな……!」


焦りが顔に浮かぶ。


ゲイルは冷静にその様子を見つめながら指を動かした。


「包囲を縮めろ。少しずつ圧殺するんだ。連携を維持しろ。決して陣形を崩されるな!」


トールは何度も突破を試みた。


だが成果はない。


戦神の化身としての誇りがさらなる猛攻を促すが、そのたびに体力だけが削られていく。


一方のゲイルは余裕を崩さない。


獲物が弱る瞬間を待つ猛獣のように。


トールが限界に近づいた時。


あるいは最後の反撃に出た時。


その瞬間に自ら出て止めを刺すつもりだった。


今回は万全だった。


何度も敗北を味わわされた相手を、必ず打ち倒すために。


*


フレイヤは戦場を鋭く見つめていた。


《兵法》の領域が思考を加速させる。


彼女の視線は黒紅軍団の陣形を走り、わずかな綻びを見つけ出した。


「トール! 左翼第二列! 足並みが乱れてる!」


その声は戦鼓のようにトールの耳へ届く。


同時に神力を注ぎ込み、《武器変化》を発動した。


トールの手にある桃色のハート型魔法棒が光を放つ。


まずは聖なる盾へ。


次の瞬間、盾に亀裂が走った。


まるで炉の中で溶ける金属のように形を変え、再び鋳直される。


そして現れたのは――


巨大な両手剣。


黒紅の血炎大剣ではない。


純白の刀身。


その両脇には翼が生えていた。


「え……?」


フレイヤは呆然とする。


「そんな……」


これは彼女が意図した変化ではなかった。


まるで武器そのものが意思を持ったかのようだった。


「うおおおおおおおっ!」


トールが咆哮する。


火山の噴火のような闘気が周囲を揺らした。


「ようやく分かったぞ!」


「そんな……武器まで……」


フレイヤの心が震える。


もう彼は、魔法棒を握り純粋に人々を守っていた頃のトールではない。


戦神の化身としての力が、彼を別の存在へ変えようとしていた。


トールは巨剣を握り締める。


そして《兵法》の導き通りに動いた。


鋭く。


正確に。


軍団陣形の綻びへ突き刺さる。


次の瞬間、暴風のように裂いた。


黒紅の戦士たちが吹き飛ぶ。


巨剣の一振りごとに風雷が轟く。


「アレス様のために!」


それでも戦士たちは踏みとどまる。


決して道を開けまいと。


「この力は……!」


ゲイルの表情が変わった。


これは怪力ではない。


神威だ。


本物の。


彼は血炎大剣を引き抜き、自ら前へ出る。


火花を散らしながらトールへ向かった。


「待ってたぞ!」


トールの瞳は燃え盛る炎だった。


「化け物め……!」


剣と剣が激突する。


火花が散る。


一度目。


ゲイルの身体がよろめく。


二度目。


腕が痺れ、虎口から血が流れた。


たった二撃。


それだけで勝負は見えていた。


「馬鹿な……!」


ゲイルは心の中で叫ぶ。


押し負けている。


完全に。


その神威は、アレスが降臨した時以上の圧力すら感じさせた。


認められない。


認めてはならない。


必死に膝を折りたい本能を押し殺す。


しかし彼自身が耐えられても、部下たちは違った。


恐怖によって連携が乱れる。


破られた陣形は埋まらない。


軍団戦術は崩壊した。


これ以上続ければ無意味な損害だけが増える。


ゲイルは決断した。


「全軍撤退!」


叫びと同時に、黒紅軍団は潮が引くように退いていった。


荒れ果てた戦場だけを残して。


トールは純白の巨剣を高々と掲げる。


そして叫んだ。


「勝利は俺のものだ!」


その言葉を聞いた瞬間――


フレイヤの胸は重く沈んだ。


彼ならいつものように叫ぶと思っていた。


『女神の栄光を!』


そう。


勝利を信仰へ捧げると。


だが違った。


彼が宣言したのは、自分自身の勝利だった。


フレイヤは巨剣を見つめる。


狂暴な神威を放つその姿を。


胸が震える。


本当に彼は、あのトールなのだろうか。


《純潔》の日記を聖典代わりに配っていた、あの不器用な男なのだろうか。


それとも――


戦いと勝利を重ねるうちに、信仰への依存を失い。


戦争そのものへと変わり始めているのだろうか。


「トール……」


唇を噛む。


震える指先。


だが、その名は最後まで声にならなかった。


彼女は初めて見た。


その背中の中に。


自分の知らない何かを。


そしてそれは、戦神だけが持つ絶対的な威容だった。


信徒:366


領域:幸運、純潔、復讐、暴力、狂信、戦争、聖戦、兵法


神術:水生成、武器変化、軽傷治癒、幻影変化、花火術、精神安定、聖典創造、聖戦術、鑑定術

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