二十五、戦神の領地に響く守護の叫び
二人の旅は、驚くほど静かなものだった。
フレイヤはてっきり、「全面戦争」とは道中に狼煙が立ちこめ、伏兵が潜み、戦鼓が鳴り響くものだと思っていた。
しかし実際には、森に響くのは風の音と鳥のさえずりばかりだった。
時折、放牧をしている村人とすれ違い、何事もないように挨拶を交わすことさえある。
「……順調すぎるわ。」
フレイヤは眉をひそめた。
髪に飾られた黒百合へ指先を触れる。
言いようのない不安が胸をよぎった。
戦神アレスの領域が弱まっている気配はない。
むしろ遠い空には重い暗雲のように広がっている。
それなのに目の前の村々は妙に静かで、生気だけが抜き取られたかのようだった。
やがて二人は、戦神を信仰する村へ足を踏み入れた。
その光景はさらに異様だった。
祭壇は健在だった。
アレスの紋章も掲げられている。
だが、そこにいるはずの戦士たちの姿が見当たらない。
家々は空き家同然で、わずかな女性や子供たちが隅に身を寄せ合い、怯えた目をしていた。
まるで見えない災厄から逃げているかのように。
「これは……どういうこと?」
フレイヤは小さく呟く。
嫌な予感しかしなかった。
その時だった。
村の外れから、不気味な骨の擦れる音が響く。
カタカタ。
カタカタ。
黒い霧が森から流れ出し、その中から骸骨たちが現れた。
壊れた武器を引きずりながら歩く白骨の軍勢。
空洞の眼窩には不気味な緑色の鬼火が揺れている。
女性や子供たちが悲鳴を上げて逃げ惑った。
村は一瞬で混乱に包まれる。
「スケルトン軍団……アンデッド……?」
フレイヤの表情が険しくなる。
「負のエネルギーで動く存在が、どうしてこんな場所に……」
彼女は思わずトールの腕を引こうとした。
兵法領域が警鐘を鳴らしている。
情報不足。
敵情不明。
今ここで介入するのは危険だ。
「トール、行きましょう! 私たちは助けに来たわけじゃ――」
だが最後まで言えなかった。
トールはすでに飛び出していたからだ。
彼は聖典を高々と掲げる。
次の瞬間、それは見慣れたピンク色のハート型魔法杖へと変化した。
「女神の御名において!」
雷鳴のような声が響く。
「民は守るものだぁぁぁぁ!!」
咆哮と共に、彼はスケルトンの群れへ突撃した。
魔法杖が振るわれる。
骨が砕ける。
白骨が宙を舞う。
激突のたびに火花が散り、砕ける音が響いた。
それはまるで世界に向かって宣言しているかのようだった。
これこそが自分の信じる戦いなのだと。
フレイヤは呆然と立ち尽くした。
トールの背中を見つめる。
彼女は思っていた。
トールはもう「戦争の化身」として狂信に染まり切ったのだと。
勝利と破壊だけを求める存在になったのだと。
しかし違った。
彼は迷いなく見知らぬ村人を守るために戦っている。
自ら危険へ飛び込んで。
――勝利のためじゃない。
――守りたいから。
その純粋な願いのために。
「……トール。」
胸が強く震えた。
呼吸が乱れる。
ようやく理解した。
この男は愚直だ。
馬鹿なくらい真っ直ぐだ。
だがその本質だけは何も変わっていない。
彼の言う「純潔」は、自分の考える純潔とは違う。
それでも。
同じくらい真剣で、揺るぎないものだった。
トールの猛攻によって骸骨たちは次々と砕かれていく。
何体現れようと意味はない。
彼の一撃で白骨の山へと変わるだけだった。
絶望していた村人たちの目に、少しずつ光が戻る。
希望という名の火種が灯り始めていた。
トールは振り返り、満面の笑みを浮かべた。
「ほら見ろ!」
聖典を掲げる。
「聖典にも書いてある!」
「民を守ることこそ、最も純潔な勝利なんだ!」
「……本当に、お馬鹿さんね。」
フレイヤは額を押さえた。
思わず笑ってしまう。
目元には小さな涙が滲んでいた。
「だからこそ……見捨てられないんだけど。」
*
トールは震える村人の肩を軽く叩いた。
その笑顔は温かく、力強い。
大きな手は荒れていたが、不思議と安心感があった。
まるで彼がいる限り、恐怖など存在しないかのように。
「心配するな。」
トールは胸を張る。
「俺がいる限り、誰も傷つけさせない。」
「ありがとうございます……ですが、あなたは……?」
村人は戸惑っていた。
白い鎧を纏うトールは、彼らの知る戦神の信徒とはまるで違って見えたのだ。
トールは堂々と答える。
「純潔の女神の名において!」
「お前たちを守る!」
内容には疑問を抱いたようだったが、村人たちは次第に落ち着きを取り戻していく。
その様子を見ながら、フレイヤは感じていた。
新たな信仰の流れを。
小さな川のように。
静かに。
確実に。
トールへと流れ込んでいる。
絶望の中で希望となった彼は、もはや力の象徴だけではない。
人々を導く灯台そのものだった。
そしてその信仰は、以前よりもずっと純粋で強い。
フレイヤは地面を這う骸骨の残骸へ視線を向けた。
疑問はますます大きくなる。
戦争と死は切り離せない。
もし本当にアレスが死の領域へ手を伸ばしたのなら――
これは暴走なのか。
それとも別の勢力の介入なのか。
村人たちの話からも気になる情報が出てきた。
最近、アレスは緊急動員令を出したという。
ほとんどの戦士を村から引き抜きながら、その理由は明かさなかった。
「……妙ね。」
フレイヤは眉を寄せる。
村を守る戦士がいなくなれば、防衛は崩壊する。
戦神が自ら信仰の基盤を捨てるはずがない。
「この死の力は……アレスの暴走?」
「それとも別の誰かが裏で動いている?」
考えれば考えるほど謎は深まる。
その間にもトールは最後の骸骨を叩き砕いていた。
銀色の光が波のように広がる。
砕けた骨が雪のように散っていく。
フレイヤはその光景を見つめた。
トールの行動に心を打たれながらも、同時に理解する。
世界は思っていたより遥かに複雑だ。
これは単なる《戦神》と《純潔の女神》の争いではない。
複数の領域。
複数の神々。
複数の思惑。
それらが絡み合う巨大な盤上遊戯なのだ。
「……もっと慎重にならないと。」
フレイヤは小さく呟く。
黒百合の髪飾りがわずかに震えた。
兵法領域が静かに動き始める。
未知の脅威に備えながら。
村人を守りながら。
そして情報を集めながら。
この旅が、自分の想像を遥かに超えるものになっていることを。
彼女はすでに悟っていた。
信徒:400
領域:
幸運・純潔・復讐・暴力・狂信・戦争・聖戦・兵法
神術:
水生成、武器変化、軽傷治癒、変装術、花火術、精神安定、聖典創造、聖戦術、鑑定術




