二十四、盾に咲く花
フレイヤとトールは、小川のほとりに並んで腰を下ろしていた。
トールは手にした『純潔の聖典』を熱心に読みふけっている。その瞳は炎のように燃え上がり、まるで再び戦場へ突撃する時を待つ獅子のようだった。
トールにとって、戦争の理屈は単純だった。
「フレイヤ。お前の言う村や防衛線なんて、全部まやかしだ! ただの時間稼ぎだ!」
彼は拳を握りしめながら笑う。
「この戦争を終わらせる方法は一つしかない! 俺がアレスをぶっ飛ばして地面に叩き伏せることだ!」
その口元には獰猛な笑みが浮かんでいた。
「奴の頭を押さえつければ、信徒たちも自然と従う! 戦争の勝敗は、最も純粋な戦争によって決まるんだ!」
フレイヤは歯を食いしばった。
だが、心の揺らぎは表に出さない。
それがトール本来の考えではないことを、彼女は知っている。
《戦神の化身》としての思考が、少しずつ彼を侵食しているのだ。
もし今ここで「話し合い」や「説得」を口にすれば、トールは受け入れないだろう。
むしろ、自分が「純潔の栄光」を裏切ったと疑うかもしれない。
「……そうね、トール。」
フレイヤは静かに息を吸った。
「この戦争を終わらせるには、元凶を叩かなければならない。正面からでは勝てない。だから――奇襲するのよ。」
無理やり作った笑顔。
だがその声には確かな意志があった。
「奇襲だって!?」
トールは勢いよく立ち上がる。
「やっと分かってくれたか!」
彼は豪快に笑った。
「そうだ! 正面で勝てないなら奴の本拠地に乗り込んで、玉座から引きずり下ろしてぶん殴ればいい!」
「それこそが最も純粋な勝利だ!」
フレイヤは小さくうなずいた。
だが心の中では別の言葉を呟いていた。
――違う。
――奇襲でもない。
――勝利でもない。
――私が望むのは、戦争を終わらせること。
――広げることじゃない。
「今回は私たち二人だけで行くわ。」
彼女はトールの瞳をまっすぐ見つめた。
「みんなにはここを守ってもらう。あなたは私たち唯一の槍よ、トール。アレスと戦えるのは、あなただけ。」
「一騎討ちか!」
トールの血が一瞬で沸騰した。
彼は拳を振り上げ、空気を震わせる。
「はははっ! それでこそだ!」
「任せろ! 俺がアレスを土下座させてやる!」
フレイヤの笑顔はさらに苦くなる。
スカートの裾を握る指先には力が入っていた。
張り詰めた弦のように。
「……トール。」
彼女は小さく呟く。
「その時が来たら、私はアレスを説得したい。」
その言葉は心の中だけに留めた。
もし失敗したなら――
トールの顔を見る。
自信に満ちた、どこか狂気すら感じる笑顔。
彼女の祈りと絶望が入り混じる。
――どうか。
――あなたの拳が、すべてを受け止められますように。
――戦争そのものに飲み込まれませんように。
焚き火の明かりの中。
二人の影は長く伸びていた。
一人は狂信を抱く《戦争の化身》。
戦神へ向かって一直線に進む男。
もう一人は、不安と秘めた策を抱く小さな女神。
本心に逆らいながら歩き続ける少女。
近くにいるはずなのに、
どこまでも遠かった。
*
夜明けはまだ完全には訪れていなかった。
東の空に白みが差し始めた頃。
鉄葉の村の広場は人で埋め尽くされていた。
松明の炎が揺れ、
煙が空へ昇る。
低く響く戦鼓は、まるで巨大な心臓の鼓動のようだった。
村人たちは粗末な麻布の服をまといながらも、整然と隊列を組んでいる。
槍と木盾を手にし、
胸には純潔を象徴する白布を結んでいた。
彼らが見送るのは祭りではない。
荘厳な出征だった。
トールは先頭を堂々と歩く。
そのたびに歓声が沸き上がる。
「戦神の化身!」
「純潔の聖盾!」
「聖使のために戦え!」
その声を聞くたびに、トールの血は熱を帯びていく。
信仰と狂熱。
それらが純粋な力となって彼の中へ流れ込んでいた。
そして彼もまた応える。
「純潔!」
「栄光!」
「勝利!」
フレイヤはその後ろを歩いていた。
白いスカートが風に揺れる。
本来なら聞こえてくるはずだった。
少女たちの歌。
踊り子たちの祈り。
美しく穏やかな見送り。
けれど今、彼女の目に映るのは違う。
拳を掲げる兵士たち。
槍と盾を打ち鳴らす重い音。
そこにあるのは勝利への渇望だけだった。
「……もう、私の純潔じゃない。」
フレイヤは胸の奥で呟く。
「これは戦争の栄光だ。」
予想していたことだった。
それでも現実として目の前にすると、
胸が強く締め付けられる。
息が苦しくなるほどに。
それでも彼女は笑顔を崩さなかった。
ここで弱さを見せるわけにはいかない。
誰にも。
トールが突然振り返る。
拳を高く掲げ、
朝の冷たい空気を震わせる。
「待ってろ!」
「俺がアレスをぶっ倒して、本当の勝利を持ち帰ってやる!」
轟く歓声。
雷鳴のように広場を揺らした。
村人たちは胸当てを叩き、
戦士の礼で二人を送り出す。
その姿は炎と朝日に照らされ、
まるで一つの軍勢のようだった。
フレイヤは静かに見つめる。
胸の奥に広がる苦しみを抱えながら。
愛も美も、
今は戦争の糧へと変わっていた。
――もし。
――この勝利の代償が、
――信徒たちが純潔と美を捨て、
――狂熱の兵士になることだとしたら。
――私たちは勝つのだろうか。
――それとも、もう負けているのだろうか。
彼女はそっと胸に手を当てる。
そして朝摘みの花を取り出した。
最も近くにあった一枚の盾へ、
静かにその花を飾る。
槍と盾が打ち鳴らされるたび、
花びらは小さく震えた。
今にも散ってしまいそうだった。
どうか誰か気づいてほしい。
この花の嘆きに。
やがて村の門を抜け、
二人の背中は朝日に溶けていく。
それはまるで、
運命へ続く道を歩む旅人のようだった。
彼らが背負うのは村人たちの希望だけではない。
戦争と策略によって少しずつ蝕まれていく、
フレイヤ自身の心でもあった。




