二十三、戦神の信徒を奪えば勝てるらしいので、私はトールを敵地へ送り込むことにしました
フレイヤは静かに仮設テントの奥へ腰を下ろしていた。
外から聞こえる歓声や喧騒は厚い布越しに遮られ、この空間だけが別世界のように静まり返っている。
彼女の前には一枚の地図が広げられていた。
粗末な羊皮紙に描かれているにもかかわらず、その内容は驚くほど正確だった。
兵法領域による演算と推測の果てに生み出された地図である。
そこには鉄葉村だけでなく、これまで「染色」された三つの村も記されていた。
食料備蓄。
鉄鉱石の産地。
医療資源の分布。
さらには四人の宣教師少女たちの能力や信仰強度までも数値化されている。
まるで盤上の駒を管理するかのように。
だが、本当に彼女を震撼させたのは別の部分だった。
地図はすでに村々の範囲を超えていた。
その先。
大陸全土が描かれていたのである。
広大な森にはエルフ王国。
地下にはドワーフの要塞都市。
天空へ突き刺さる山脈には竜たちの縄張り。
果てしない草原には獣人部族。
様々な種族が独自の文化と信仰を築いていた。
「……そして、信仰があるということは、神がいるということ」
フレイヤは静かに呟きながら、地図上の神々の聖印を指でなぞった。
種族を超えて崇められる神もいる。
太陽。
月。
海。
風。
自然そのものを司る神々は、あらゆる生命に共通する存在だった。
しかし、それ以上に多いのは種族ごとの神々だ。
愛。
美。
戦争。
同じ概念であっても、種族が違えば神の姿も変わる。
そしてそこに対立が生まれる。
フレイヤの指先が、とある領域で止まった。
地図の大部分を覆い尽くす巨大な黒と紅。
戦神アレスの勢力圏。
彼女の領域は、その隅に存在する小さな白い点でしかない。
巨大な黒紅色に包囲された、小さな純白。
まるで棘に囲まれた花の蕾だった。
いつ踏み潰されてもおかしくないほどに脆い。
「……なるほどね」
フレイヤは小さく笑った。
だがその笑みには苦さしかなかった。
「これが兵法領域の答えってことなのね」
瞬間。
無数の戦略が頭の中に組み上がる。
アレスに対抗するなら人間の村だけでは足りない。
エルフの月神。
ドワーフの鍛冶神。
竜族が崇める古代意志。
他神系との同盟。
宗教的連携。
信仰ネットワークの構築。
兵法領域は冷徹に結論を告げていた。
それが唯一の生存ルートだと。
だが。
フレイヤの胸は痛んだ。
信仰を武器にしたくない。
愛と美と純潔と豊穣。
それは人々を生かすためのものだったはずだ。
決して兵力でも補給線でも戦略資源でもない。
神格が歪んでいく感覚。
自分が知らない何かへ変わっていく恐怖。
彼女はそっと髪に触れた。
そして見つけてしまう。
黒く染まった数本の髪を。
「……私は、何になってしまうんだろう」
テントの外では木槌の音が鳴り響いている。
トール像の建設が続いていた。
カン。
カン。
カン。
その音はまるで戦太鼓のようだった。
そして当のトールは広場で戦陣訓練をしている。
夕陽に伸びたその姿は大きく。
力強く。
誰の目にも「戦争の化身」に見えた。
フレイヤは苦笑する。
「兵法なんて欲しくなかった……」
そう。
欲しくなかったのだ。
「でも……これがなきゃ、みんなを守れない」
震える指先が地図の端に触れる。
その瞬間。
純潔と兵法。
二つの領域が彼女の中で激しく共鳴した。
そして彼女は理解する。
一度進めば、もう戻れないのだと。
神格も。
魂も。
この戦争によって変えられてしまうのだと。
◇ ◇ ◇
夜。
焚き火が揺れている。
フレイヤは村の見張り台に立ち、自ら描いた地図を広げていた。
村人たちは真剣な表情で耳を傾ける。
「食料は一か所に集約してください」
「最精鋭の戦士が交代で守ります」
「夜間の巡回は必ず三人一組」
「盗賊が来ても追撃してはいけません。中央を固めてください」
その指示は簡潔で明確だった。
村人たちは希望を見出したような目で頷く。
しかし。
フレイヤ自身は理解していた。
これは時間稼ぎに過ぎない。
嵐の前に柵を補強するようなものだ。
戦神アレスを本当に倒す方法ではない。
彼女の視線が地図へ落ちる。
そして、とある名前で止まった。
――トール。
「……私たちの駒は、一枚だけ」
トール。
唯一、戦神の権能を揺るがせる存在。
四人の宣教師少女たちも優秀だ。
だが半神には届かない。
トールだけが異質だった。
出自は不明。
正体も不明。
しかしアレスですら予測できない存在。
だからこそ。
彼だけが切り札になり得る。
フレイヤは静かに呟く。
「正面から戦う必要はない」
「奇襲よ」
兵法領域が導き出した答え。
敵地深くへ潜入する。
戦神領へ。
その内部へ。
「アレスに勝つには村人の信仰じゃ足りない」
「外交も時間稼ぎにしかならない」
「だったら……」
彼女の視線が黒紅色の領域へ向けられる。
「戦神自身の土台を奪う」
信徒。
それこそが神の力の源。
もし戦神の信徒たちの信仰を揺るがせるなら。
もし彼らの崇拝がトールへ流れるなら。
アレスの力は削がれる。
そして。
トールは神に並ぶ。
兵法領域は冷静に演算していた。
第一段階。
戦神領に入れば、トールの『戦争の化身』としての性質が自然に信徒を惹きつける。
第二段階。
アレスとの対面時には、その信仰がトールへ集中する。
第三段階。
神格出力が均衡する。
「その時……私がアレスを説得できれば……」
声が震えた。
あまりにも無謀な賭けだったからだ。
失敗すれば。
トールとアレスが激突する。
それは人間の戦争ではない。
神と神。
領域と領域。
概念同士の衝突だ。
たとえトールが勝ったとしても。
その先に待つのは。
新たな戦神の誕生。
かつての馬鹿みたいに日記帳を振り回して、
『純潔は最強だぁぁぁ!』
などと叫んでいた男ではなくなる。
フレイヤは焚き火を見つめた。
苦い笑みが浮かぶ。
「……まさか私が」
「トールと戦神を戦わせようと考えるなんてね」
彼女は髪に触れる。
黒く染まった一筋が、また少しだけ広がっていた。
兵法は最小損失の道を示す。
だがその代償として。
彼女自身を少しずつ冷酷に変えていく。
「これが兵法……」
「勝つために」
「守るために」
「私は……自分の一部を捨てなきゃいけないんだ」
焚き火の光が横顔を照らす。
そこにいたのは、もはや無垢な小さな女神だけではなかった。
戦神アレスと盤上で渡り合うことのできる、ただ一人の策士。
その瞳には、静かな決意の光が宿っていた。
ステータス
信徒:358
領域:幸運、純潔、復讐、暴力、狂信、戦争、聖戦、兵法
神術:造水術、武器変化、軽傷治癒、変身術、花火術、精神安定、聖典創造、聖戦術、鑑定術




