二十一、信者が増えるほど危険なんですが!?
鉄葉村の広場から、ようやく戦火が消え去った。
残されたのは、見るも無惨な廃墟だった。
黒く焼け焦げた板張りの地面には無数の亀裂が走り、それはまるで引き裂かれた古い絵巻のように、戦争というものの残酷さを物語っている。
崩れた家屋の残骸は夕陽を受けて長い影を落とし、空気には焦げた木材と土の匂いが漂っていた。
その中に混じるのは、疲れ切った村人たちの荒い息遣いと、復興作業の木槌の音。
村人たちは傷だらけの身体を引きずりながら、懸命に村を立て直していた。
顔には煤と血がこびりついている。
それでも、その瞳に宿る光だけは消えていない。
子供たちの泣き声が時折響き、それを慰める母親たちの優しい声が重なる。
悲惨でありながら、どこか希望も残る光景だった。
フレイヤは静かに瓦礫の間を歩く。
裾には灰が付着し、風に揺れていた。
彼女は傷だらけの村人たちを見つめる。
その瞳は優しく、そして深い。
まるで彼らの疲労も、苦しみも、強さも、すべて見通しているかのようだった。
彼女は立ち止まり、一人の負傷した猟師の肩にそっと手を置く。
掌から柔らかな銀光が溢れ出した。
「女神の加護がありますように」
治癒の神術が発動する。
猟師の腕に刻まれていた深い裂傷が瞬く間に塞がり、元通りの皮膚へと戻っていった。
「女神様……ありがとうございます……」
猟師は呆然と呟き、やがて目を潤ませた。
だが――
その穏やかな空気を引き裂くように、雷鳴のような大声が響き渡る。
「もっと力を入れろォォォ!! 盾を掲げて突撃するつもりで運ぶんだ! オオオオオッ!!」
フレイヤの顔が引きつった。
上半身裸のトールが、夕陽を浴びながら瓦礫の山の上に立っていた。
汗に濡れた筋肉が眩しく輝いている。
巨大な岩を抱え上げながら叫ぶ姿は、もはや復興作業ではなく戦場の指揮官そのものだった。
「いち! に!」
トールの号令が飛ぶ。
村人たちは一糸乱れぬ動きで石材を運び始めた。
その姿は完全に軍隊である。
子供たちまで拳を振り上げ、
「敵を浄化しろ――じゃなかった! 村を再建しろーっ!」
と叫んでいる。
「これ復興じゃなくて軍事訓練じゃない!?」
フレイヤは頭を抱えた。
トールの存在は、村人たちの心に眠る何かを燃え上がらせていた。
疲れ果てていたはずの彼らの目に、再び狂信にも似た熱が宿っている。
さらに彼女を不安にさせたのは、その熱狂が別の形を取り始めていたことだった。
広場の片隅。
村の彫刻師が一本の巨大な木材を削っている。
やがて現れたのは――
聖盾を掲げるトールの木像だった。
雄々しく。
勇ましく。
まるで神話の英雄そのものの姿。
そして誰かが叫んだ。
「我らの守護者だ!」
「純潔の戦神の化身だ!!」
その瞬間だった。
「戦神の化身!」
「純潔戦神!」
「戦神万歳!!」
歓声が広場中に広がる。
子供たちは憧れの眼差しを向ける。
女性たちは花輪を捧げて祈りを捧げる。
若者たちは戦争の徽章を像に掛け始めた。
フレイヤの胸が痛んだ。
これは自分への信仰ではない。
純潔の女神への信仰でもない。
ただ一人の人間――トールへの崇拝だ。
彼女には見えていた。
信仰の奔流が、暴走する馬のようにトールへ向かっていることが。
そして彼の背後で揺らめく《聖戦領域》が、その力を貪欲に吸収していることも。
まるで魂を燃料にする炎だった。
フレイヤは深呼吸する。
そして一人の少女へ歩み寄った。
かつて洞窟で救い出した少女。
純潔教の伝道者となったはずの少女だった。
彼女は《純潔》の聖典を抱いている。
だが表紙には、銀翼ではなく戦槌の紋章が浮かび上がっていた。
聖戦領域に汚染された聖典。
少女は虚ろな瞳で呟く。
「純潔とは戦争……敵を浄化してこそ永遠が訪れる……」
フレイヤは目を閉じた。
そして額に手を置く。
銀光が流れ込む。
少女の傷を癒し。
心を縛る狂気の鎖を解いていく。
少女の瞳に光が戻った。
「これは純潔ではありません」
フレイヤは優しく語りかける。
そして指先を弾いた。
汚染された聖典は光の粒となって消滅する。
代わりに現れたのは、本物の《純潔》聖典。
そこには――
愛。
美。
純潔。
豊穣。
本来の教義が記されていた。
「女神様……」
少女の目から涙が溢れる。
「あなたこそ、本当の光です……」
フレイヤは微笑む。
だがその笑顔の奥には、深い疲労と悲しみが隠されていた。
彼女の奇跡は本来、とても単純なものだった。
信仰を神力へ変え。
その神力で人々を癒やす。
優しい循環。
それが彼女の神としての在り方だった。
恐怖で支配しない。
破壊を誇示しない。
他者の領域を奪わない。
だが今、その全てが崩れようとしている。
彼女は遠くを見る。
そこには村人たちの礼拝を受けるトールの姿。
腕を組み。
満足げに頷いている。
背後には巨大な《聖戦領域》。
まるで眠る怪物のようだった。
フレイヤの脳裏に、一瞬だけ恐ろしい考えが浮かぶ。
――トールを追放すれば。
――全て解決するのではないか。
だが彼女はすぐに首を振った。
それは新たな人神を生み出すだけだ。
戦神アレス以上に危険な存在を。
復讐。
暴力。
狂信。
戦争。
それらを抱えた怪物を。
そして何より。
村人たちは悪くない。
ただ生き延びたかっただけ。
希望が欲しかっただけ。
もし自分が彼らを見捨てれば。
それはアレスと何が違うのだろう。
フレイヤは唇を噛んだ。
彼女は理解していた。
これは神と神の争いではない。
自分とトールの戦いでもあるのだと。
そして――
自分は今から、茨の道を歩くのだと。
◇ ◇ ◇
夜。
戦後の鉄葉村は静寂に包まれていた。
フレイヤは一人、村外れの影に立っていた。
戦神アレスとの戦い。
聖戦領域。
狂信村、暴力村、復讐村。
そして聖戦村。
彼女の頭の中では、知らぬ間に戦略図が組み上がっていく。
四人の伝道少女。
四つの村。
兵站。
情報。
指揮系統。
軍隊編成。
まるで熟練した軍師のように。
「……違う」
フレイヤは震えた。
「こんなの……私じゃない……!」
激しい吐き気が込み上げる。
視界が揺れる。
その瞬間、水面に映った自分の姿が見えた。
そこにいたのは――
白花を掲げる女神ではない。
荊冠を戴き。
巨大な剣を持つ。
冷たい瞳の戦女神だった。
フレイヤは慌てて村外れの小川へ駆ける。
顔を冷水へ沈めた。
だが。
顔を上げた瞬間。
彼女の心臓は凍り付いた。
黄金の髪。
その一房だけが。
墨を流したように黒く染まっていた。
黒百合の髪飾りが震える。
長剣の首飾り。
仮面の徽章。
どれも不気味な紅黒の光を放っていた。
「いや……」
彼女は震える手で髪飾りを引きちぎる。
投げ捨てる。
だが。
それらは黒い霧となって再び彼女へ戻ってきた。
もう理解していた。
これは呪いではない。
現実そのものだ。
復讐。
暴力。
狂信。
聖戦。
それらが神格へ刻み込まれているのだ。
「誰にも見せられない……」
彼女は胸を抱いた。
涙が滲む。
助けを求められる相手はいない。
トールは戦神の栄光に酔っている。
伝道少女たちには頼れない。
救う者は、救われてはならない。
そんな思い込みさえ彼女を縛っていた。
だから彼女は必死に祈る。
白い花。
愛の抱擁。
美しい歌。
豊穣の果実。
何度も何度も思い浮かべる。
やがて黒髪は再び金色へ戻った。
しかし。
髪飾りの周囲には灰色の靄が残り続けている。
消えてはいない。
ただ潜んでいるだけだ。
次の機会を待ちながら。
フレイヤは夜空を見上げる。
そして震える声で呟いた。
「私は……絶対に……戦争なんかに奪われない……」




