十六、純潔の試練
白霜村の広場では、松明の炎が夜風に揺らめいていた。
その不安定な光は、木造の家々や切り株の間に長い影を踊らせ、まるで不吉な祭儀の舞のように広場を包み込んでいる。
村人たちは広場をぐるりと囲み、固唾を呑んで見守っていた。
木こりの男たちは斧傷の残る腕と分厚い手のひらを組み、女たちは子供を抱き寄せながら視線を向ける。
その目は、フレイヤ、トール、そして演説を行っていた少女の間を行き来し、敬意と期待、そして狂熱めいた色を滲ませていた。
空気には樹皮と汗の匂いが混じっている。
その奥には、今にも暴力が拳となって降り注ぎそうな、重苦しい圧迫感が漂っていた。
少女は高台の上に立っていた。
先ほどまで長剣へ変化していた武器は、再び純白の経典へ戻っている。
しかし、その縁には灰色の光がまとわりついていた。
禍々しさは消えるどころか、むしろさらに濃くなっている。
一方、トールはピンク色のハート型魔法棒をぎゅっと握り締めていた。
先ほどの神学論争では完全に押し負けた。
その悔しさがまだ胸の中で燻っているのか、彼の全身の筋肉は怒りを抑えるように震えていた。
やがて、フレイヤが高台へ上がる。
小さな身体ながら、その表情は真剣そのものだった。
彼女は咳払いを一つすると、澄んだ声を夜空へ響かせる。
「女神の御名のもと、これより《純潔の試練》を行います!」
その言葉だけで、村人たちがざわめいた。
「トールとこの少女が、それぞれ異なる形で“純潔の力”を示します!」
「真に人々の心へ女神の恩寵を届けた者こそ、勝者です!」
「……いや待て」
トールが首を傾げた。
「お前、さっき“彼女は間違ってる”って言ってなかったか? もし勝ったら正しいことになるんじゃないのか?」
「安心しなさい」
フレイヤは悪戯っぽく笑い、そっと彼の耳元へ囁いた。
「これはね、あなたを勝たせるための試練なの。それも、村人たち自身に“本当の純潔”を見せつけるためのね」
「お、おお……?」
トールは半分ほどしか理解できていなかったが、とりあえず頷いた。
村人たちは期待と好奇心を隠せず囁き合う。
少女も完全には意図を掴めていなかった。
しかし、女神自らの提案を拒絶する理由もない。
彼女は胸を張り、高らかに宣言した。
「いいでしょう!」
「ならば私は、“罪人を浄化する鉄槌”によって、純潔の真義を証明します!」
フレイヤは内心で鼻を鳴らした。
(鉄槌ですって? ふふん。この試練、最初からトール向けに作ってあるんだから)
そして改めて宣言する。
「ルールは一つだけ!」
「誰も傷つけてはなりません!」
「神術によって希望を示し、人々の心へ純潔の光を届けること!」
最初に前へ出たのは少女だった。
彼女は神官としての才能を持っている。
神術の扱いにも優れていた。
経典を開き、厳かに詠唱を始める。
すると白光が溢れ出し、空中へ一本の剣を形成した。
《慈悲の剣》。
刃先は丸く潰されているが、巨大な威圧感を放っている。
透明な刀身には、
――《罪人を浄化せよ》
という文字が刻まれていた。
「おお……!」
村人たちから感嘆が漏れる。
「これが純潔の力……!」
「罪人は裁かれるべきだ!」
だがフレイヤには分かっていた。
その剣に宿っているのは慈悲ではない。
“暴力”を“純潔”で包み隠しただけだ。
人の心の奥底にある獣性を刺激する危険な力。
やがてトールの番となる。
だが彼は高台の上で固まった。
「え?」
「神術? 俺できないぞ?」
「尻叩きも駄目なんだろ? 聖典にも“出し物”のやり方なんて書いてないし……」
フレイヤは慌てて彼へ駆け寄り、小声で耳打ちする。
「空へ向けて魔法棒を掲げて、それから村人たちへ向けるの!」
「“爆発の刑”覚えてるでしょ!?」
「あっ!!」
トールの目が輝いた。
「なるほど!!」
彼は深く息を吸い込む。
経典をピンクのハート型魔法棒へ変化させ、そのまま夜空へ掲げた。
「これぞ女神の祝福――《爆発の刑》だ!!」
「花火術!」
フレイヤの神力が注ぎ込まれる。
瞬間、魔法棒の先端が眩く輝いた。
無数の光粒が夜空へ撃ち上がる。
そして――。
ドォォォン!!
赤。
青。
金。
白。
色鮮やかな花火が夜空一面へ広がった。
巨大な光の滝が空から降り注ぐ。
トールが魔法棒を振るたび、優しい光の雨が村人たちへ舞い降りた。
それは攻撃ではない。
温かく、柔らかい。
まるで誰かに抱き締められているような安心感だった。
「これが……女神の恩寵……」
老人たちは震える手を合わせ、祈りを捧げる。
子供たちは歓声を上げながら光を追い回した。
女たちは涙を浮かべ、小さく感謝を呟く。
そして最後の大輪が夜空で炸裂した瞬間――。
花火は巨大な幻影へ変わった。
金髪をなびかせ、羽を広げたフレイヤ女神。
その姿は慈愛と気高さに満ち、柔らかな純潔の光を放っている。
「純潔女神よ!!」
「どうか我らをお守りください!!」
村人たちは一斉に膝をつき、祈りを捧げた。
対照的に、少女の《慈悲の剣》は花火の光の前で色褪せて見えた。
彼女の瞳が揺れる。
「そんな……どうして……」
その声は震えていた。
フレイヤは一歩前へ出る。
「分かったでしょう?」
「純潔とは“罰”じゃない」
「人を照らす“希望”なの」
「あなたの教義は暴力に歪められていた。それはもう、女神の意志ではないわ」
その声音は優しかった。
だが同時に、鉄のように揺るがなかった。
少女は俯いた。
「……私、間違っていたんですね……」
「道を誤っていました……」
「女神様……どうかお許しください……」
長くフレイヤを見つめた後、とうとう涙が零れ落ちる。
広場は大歓声に包まれた。
拍手と祈りの声が森へ反響する。
フレイヤはその勢いのまま神力を発動する。
少女の持つ汚染された経典が白光へ変わり、禍々しい気配が浄化されていった。
そして彼女は、あらかじめ用意していた本物の聖典を取り出す。
銀の翼が刺繍された、純白の経典。
フレイヤはそれを厳かに少女へ差し出した。
「これが本当の純潔の教義よ」
「行きなさい。そして、もっと多くの人へ光を届けて」
少女は震える両手で経典を受け取る。
その瞳には再び、信仰の火が宿っていた。
村人たちはこの光景を、まるで神話の奇跡を見るように見守っていた。
純潔の信仰が洪水のようにフレイヤへ流れ込む。
彼女の神格はさらに満たされていく。
だが同時に。
首筋に冷たい感触が走った。
黒百合の髪飾りが明滅している。
そこには細剣のような影が浮かび上がっていた。
暴力と復讐。
その力は、まだ完全には消えていない。
黒き長剣の形をした装飾が、首元へ静かに垂れ下がっていた。
フレイヤは拳を握り締める。
「暴力の領域……まだ終わってない……」
その時。
「フレイヤ!!」
トールが走ってきた。
なぜか手には湯気の立つケーキ。
「村人たちが“ケーキ大聖堂”を建てるって言ってたぞ!」
「これこそ純潔の勝利だな!!」
「勝利じゃなーーい!!」
フレイヤは即座に叫んだ。
「このケーキ狂信者!!」
「次の村へ行くわよ! 汚染された信仰を全部修正しなきゃいけないんだから!」
そう言いながらも。
彼女の心は、以前より少しだけ軽くなっていた。




