沈黙
アグレッサーのタラップに足をかけた和泉の背中に、小島は「和泉」と短く声をかけた。
だが、それ以上の言葉は続かなかった。
数日前までは鍛え上げられていたはずの和泉の肉体は、今や骨の形が浮き出るほどに衰弱している。今アグレッサーと再接続すれば、限界を超えた心臓が止まるかもしれない。
それでも小島が彼を力ずくで引き留めなかったのは、このどうしようもない絶望を打ち破れるのは、彼にしかできないことだと痛いほど理解していたからだ。
振り返らずに歩を進める和泉のその細い背中は、小島に向かって雄弁に語っていた。
――必ず、帰ってくる。
小島は短く息を吐き、静かにその背中を見送った。
和泉はハッチの中へと滑り込んだ。
内部は、最後に戦った時のまま、焦げ付いた回路の匂いと微かな血の匂いが混じり合っていた。
シートに腰を下ろすと、老いた肉体が悲鳴を上げる。レバーを握る手は震え、視界は時折白く明滅した。
『――接続を開始します。ニューラル・リンク、同期率0.5……1.2……上昇中』
コックピット内のモニターが、ノイズ混じりに覚醒を始める。
だが、肝心のアグレッサーの「コア」は、深く長い眠りについているかのように静まり返っていた。
「……目を開けろ」
和泉がコンソールに痩せ細った手を置く。
「外にいるあいつらがお前を待っている。王である、お前を」
だが、返事はない。
機体は冷たく、沈黙を貫いている。
ハンガー全体を見渡す外部モニターには、作業台の上で淡い光を放ちながら、機体への定着を拒み続けている百五十のコアたちが映し出されていた。
それらはまるで主の言葉を待つ従者のように、ただ静かに、そして頑固に沈黙していた。
「どうした。南雲のコアが世界中に声を届けたのは、他でもない、お前のためだろう」
和泉は目を閉じ、意識を深く、コアの深淵へと沈めていった。
アグレッサーのコア――それは人間の命を喰らって神のごとき力を振るう「異物」だ。かつて戦場で感じた、あの圧倒的な破壊の衝動。
だが、今のコアから感じるのは「深い沈黙」だった。
(……いや、これは沈黙じゃない)
和泉は気づく。コアは動けないのではない。動かないのだ。
王は、パイロットである和泉が「何を成そうとしているのか」を見定めている。ただ命を救うための防衛ではなく、仲間を弔うための復讐でもない。その先にある、この理不尽な世界に対する「答え」を、和泉の魂に問いかけている。
「……分かっているさ」
和泉が呟く。瞳の奥に、かつてないほど鋭い決意が宿る。
「俺は、お前を連れて境界線の向こうへ行く。あの空に浮かぶ母艦を落とし、この星に夜明けを取り戻す。……そのための牙が、今、ここに集まっているんだ」
和泉の精神が、機体の核と激しく接触する。
「命なら、いくらでもくれてやる。……だから、号令をかけろ!」
ドクン、と。
機体全体が大きく脈動した。
言葉による返答はなかった。だが、和泉の精神の奥底に、凍りついていた何かが融けるような柔らかな温もりと、それに続く、すべてを焼き尽くさんばかりの強烈な『歓喜』の感情が流れ込んできた。
それは、理不尽な神に抗おうとする人間の矮小な、けれど強靭な覚悟を、王たるコアが確かに認め、共に境界線を越えることに合意した絶対的な証だった。
直後、ハンガー内の電圧が急上昇し、照明が激しく点滅する。
技術班たちがどよめいて後ずさる中、和泉のアグレッサーを中心に、目に見えない圧力の波が広がっていった。
小島は、アグレッサーから溢れ出す圧倒的な「意志」の奔流に目を見開いた。
それは機械が発する出力ではない。和泉の執念が、月の欠片を媒介にして空間を震わせているのだ。
そして次の瞬間、小島やハンガーにいた全員の鼓膜に、信じられない「声」が響いた。
『――全機、覚醒せよ(目を覚ませ)!!』
それは拡声器を通した和泉の怒声だった。
しかし、その声には、散っていった南雲たちのようでもあり、人智を超えた透き通るような響きを持つ「別の誰か」の声が、幾重にも重なって聞こえたのだ。
その号令が響き渡った瞬間。
作業台に並んでいた百五十のコアたちが、歓喜するように一斉に眩い光を放った。
それまでの「拒絶」は嘘のように消え去り、彼らは自ら宙へとフワリと浮き上がると、まるで吸い寄せられるように、用意されていた百五十機の通常機体の胸部マウントへと、一斉に飛び込んでいった。
ガション、ガション、と重厚なロック音がハンガーに連鎖していく。
王の号令を受け、百五十の星たちが、ついに自らの「器」へと定着した瞬間だった。




