似て非なるもの
初回は言語に関すること、前回は愚痴のようなものを書いているので、今回は自然科学系の話題を取り上げたいと思います。
世の中にはジーンズとデニム、雪駄と草履など似て非なるものが多数存在します。
(この様な「似て非なるもの」の使い方をすると言葉の使い方に煩い方からお叱りを受けそうですが、一般に「同じに見えて違うもの」という使い方も十分受け容れられていると思うのでどうかご容赦ください。)
化学的にこの似て非なるものを表す言葉として「異性体」という言葉があります。
今回はその異性体の話をしようかと思います。
多少専門的な話(高校化学レベル?)が入ってくるため、なるべく平易なものに落とし込んではいますがそういったものが苦手な方は破線部間を読み飛ばしてください。
また、ある程度専門性の高い用語についてはあとがきにて補足しています。
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さて、化学的に似ているとはどのような物質同士のことを指すのでしょうか。
まずは構成する元素が違う場合について考えてみましょう。A-B-AとA-B-Cろいう化合物があったとします(ただしA,B,Cは何かしらの元素もしくは置換基[1])。
このような2種の化合物の場合、その物性は大きく異なることがほとんどです。
例えばアセトン(CH3COCH3)と酢酸(CH3COOH)はその一例です。
示性式[2]で書くと少し分かりづらいですが、上記のABC表記に当てはめると
A = CH3, B = CO, C = OH
となります。アセトンは優秀な溶媒の1つで、水、アルコール類その他多くの有機物と任意の割合で溶け合うことができます。
様々な物質を溶かし込める性質を利用してマニキュアの除光液や汚れ落としとして活躍しています。
対して酢酸は非常にざっくりと言ってしまえばお酢を凝縮したものです。
溶媒としての性質はアセトンほどありませんが、ポリ酢酸ビニル(PVAc)など[3]工業的に非常に重要な物質の原料となるので大変に重宝されるものです。
また、酢酸は純度が高いものであると常温で固体であることも有名です(アセトンの融点は-90℃ほど)[4]。
上記の例は構成元素が似ているため多少似通った性質を示す部分もありますが(酢酸は水、エタノールなどと任意の割合で混和)、もっと極端に構成元素が異なれば共通点も少なくなることでしょう。
それでは、最初に挙げた異性体とはどういった物質同士を指すのかと言うと、「互いに同じ種類の元素を持っているが、違う構造を持っている物質同士」のことになります。
異性体は大きく構造異性体と立体異性体の2つに分けられます。
構造異性体の例としてはエタノール(CH3CH2OH)とジメチルエーテル(CH3OCH3)があります。
前者はご存知の通りお酒の構成成分であり、(比較的)人体への安全性も高いことから消毒液などに広く利用されています。
対してジメチルエーテルは軽度の麻酔性がありますが(実用に耐えうるレベルではありません)、有害性は低く、"丁度良い"引火性を持つことからスプレーの噴射剤などに利用されています。
違いといえば、エタノールはヒドロキシ基(-OH)を持ち、鎖も短いことから(Cが2つ)水と任意の割合で混和することができます。
しかしジエチルエーテルはと言うとエーテル基(-O-)があるため水への溶解度は決して低くはありませんが、常温で7 wt%[5]とエタノールのそれには劣ります。
次に立体異性体です。立体異性体は大きくcis-trans異性体[6]と光学異性体に分けられます。
cis-trans異性体の話については、私の文章力では著わすことが叶わないので省略させていただきます。
更に、光学異性体は鏡像異性体と、そうでないもの(ジアステレオマー)[7]の2種類に分けることができますが、この話もキラリティーなどが絡んでくるため省略します。
鏡像異性体とは、その名の通り鏡映しの関係にあるものです。
例えば右手と左手(細かい話をすると指紋や手相など違いはありますが)、右ネジと左ネジはどれだけ回転させようとも絶対に重なり合うことはありませんが、鏡に映すことで対称という関係性があります。
化学、特に薬学の世界ではこの鏡像異性体は非常に重要視されることの1つです。
というのも、形がこれだけ似ていたとしても性質が異なることは多々あり、右手の形を持った物質だけを作ろうとしても左手の形の物質が副生してしまう(ラセミ、エピ化)ことも多いのです。
問題になるのは副生する物質が毒性を持っていた場合で、これを適切に取り除かなければ薬になる物質を使用することはできません。
鏡像異性体が問題となった薬物の代表例としては鎮痛剤や睡眠薬として広く利用されてきたサリドマイドという物質があります。
一方は薬として働きますが、もう一方は催奇形性があり、妊婦に対して陣痛時の鎮痛剤としても用いられたことから先天異常を持った子供が非常に多く生まれてしまいました。
鏡像異性体の厄介なところとして、右手と左手の関係にある化合物は物理物性がほとんど同じであるために分離しづらく、化学的に分離しようとするとコストがかかってしまうという点があります。
最初からラセミ化しないプロセスで薬剤を作ることも可能ですが、これもまたコスト面で不利になります。
サリドマイドはそうした事情から混ぜ物の状態で利用され、多くの被害者を出してしまいました[8]。
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以上のように化学的に"似ている"物質であったとしても完全に同じでなければ全く同じ物性のものなど存在しません。
例え右手と左手ほどの差の物質であったとしてもサリドマイドのように大きな薬害を引き起こすものもあります。
そういった点を加味して、異世界ものの小説を書く際には精製の重要さを説いてみてはいかがでしょうか。
例えばポーション作成時には常に非常に似た性質の副生物ができてしまい、分離が困難であるためにそのまま売られているがそれが原因で質を落としていたり、主人公が薬を作る際の失敗例として使用してみたりといった感じです。
私の貧弱な発想力ではこの程度の応用しか思いつきませんが何かのネタになればと思います。
化学的な解説に関しては高専、大学在学中に使用していた教科書や専門書を基に推敲しておりますが、一部誤りや不適切な表現を含む可能性があります。
そういったことを見つけた場合には指摘してくださると有難く思います。
[1]化合物を系統的に分ける際に重要となる部分的な構造のこと。筆者はおそらくこの置換基と官能基という言葉を正しく使い分けられていません。
[2]化学的な性質を分かりやすく示したもの。酢酸の場合にはC2H4O2と書くよりもCH3CH2OHやC2H5OHとしたほうがアルコール(ヒドロキシ基)という置換基が強調されます。
[3]液体のりや接着剤として広く利用されるポリビニルアルコール(PVA)の原料となる物質。PVAはビニルアルコールが沢山繋がった物質ですが、ビニルアルコールが不安定なため酢酸ビニルが沢山繋がったPVAcを経由して製造されます。
[4]常温で固体となることから、純度の高い(一般に99%以上の)酢酸は氷酢酸と呼ばれます。
[5]質量パーセント濃度。(溶質の質量)/(溶液の質量)で表される濃度のことです。
[6]主要な立体異性体の1分類ですが、簡単な例が思い浮かばなかったため本文中では省略しました。どれだけ回転させても重ならず、鏡に映しても重なりません。
[7]キラル中心が2つ以上ある場合に生じる異性体のこと。AとBというキラル中心があった場合にAのエナンチオマーをA'、BのエナンチオマーをB'とすると組み合わせにはA-B、A'-B、A-B'、A'-B'の4通りが考えられます。このときA'-BとA-B'は回転させることで重ね合わせることができるため、実際には3種類の異性体が存在することになります。
[8]こういった経緯からサリドマイドは一時は国際的に使用が禁じられましたが、近年の分離精製技術の向上によって再版されるようになってきました。ただし依然としてサリドマイド薬害の印象が強く(有機化学で鏡像異性体を教える際には鉄板)、一般にも敬遠されがちのようです。




