あなたは誰?2
石塀に囲まれた裏口の木戸を押し開けると、木立の間を緩やかな坂道が続いていた。
空はまだ明るく、日が落ちるには間がありそうだった。
わたしは坂道を降りて行った。
川の音がする。すぐに川べりの草や灌木が見えた。
そのまま行くと簡単な舟着き場があり、小舟が繋がれていた。
コートの裾を持ち上げながら、舟に乗り込む。
舟には長い棹と、少し短い棹が置いてあった。
わたしは、慣れない水面の揺れに、困惑して立って漕ぐのは止めた。
それから座ったまま、銀ばら亭の建物をちょっと見上げると、とも綱を外し、短い方の棹で舟を川の流れの中に押し出した。
小舟はすぐ流れに乗って、川下へ動き出した。
川幅は、三間ほどで浅い川だった。川上の方は幅がさらに狭くなっているところを見ると、おそらく銀ばら亭の水路として作られた川なのだろう。
舟は緩やかに川下へ流れて行く。詰まりかけたり、岸へ寄り過ぎたりすると、棹で押し出す程度ですんだ。
わたしは少し舟に慣れた気分になり、ようやく息をついた。
空は夕日の光に変わり始めている。
どのくらいで町はずれの舟着き場へ着くのか、聞き忘れた。
本流らしき川は見えないので、まだ先なのだろう。
川の両端は草木が繁り、舟からは、周辺の様子はよく見えなかった。ときおり高い建物の屋根が見える程度だ。だから、安全とも言える。
あ、でも、闇に紛れて行きなさいと、おかみさんは言っていたわ。
ということは、暗くなるまで乗っていなければならないのかも。
まだ先は長いと思うと、空腹を感じた。
そう言えば、朝、食べたっきりだ。
わたしは収納バッグを探って食べ物を探した。
すると、おかみさんがくれた袋の中に軟らかいものがある。
あ、もしかして。
袋を取り出して開ける。中に紙で包んだパンが入っていた。
その他にもいろいろ入っていそうだ。おかみさんらしい気遣いだった。
ここで開けるのは、ちょっとまずいわね。
どこか安全なところへ出てからにしましょう。
わたしは、パンだけを取り出して、少しづつ頬張る。
チーズを練り込んで焼いたパンは、今まで食べたどのパンより一番美味しく感じられた。
パンを食べ終えて、空を見上げると、夕日はもう微かな光の箭だけを残して、茜色の空から、紺色の空に変わりつつあった。
川の音だけが辺りに響いている。
わたしは、ほんの少し、うつらうつらした――だけだと思ったのに、はっと気がつくと、すっかり日は落ちて、星明りの中、舟着き場の位置も定かではない。
すぐ向こうに、本流の流れらしきものが見えているではないか。
しまった、通り過ぎたわ!
わたしは後ろを振り返った。
そこには黒々とした大きな木が、枝を水に沈めている。
急いで棹を使って戻ろうとしたが、なかなか思うようにいかない。
流れが速くなっている。
せめて舟を岸に寄せようとしたとき、本流の流れに引き込まれた――
わたしは声を上げ、思わず移動魔法を使おうとした、そのときだった、ふわりと、わたしの身体が舟とともに宙に浮いた。と、そのまま舟着き場に着地した。
わっ、なに? わたしの魔法じゃないわよね?
首をかしげながら、舟から降りようとするわたしの手を、誰かが掴んで引き上げた。
「つかまえた」
低い男の笑い声がした。
とっさに、わたしはコートをひるがえして逃げた、はずだった。
しかし、逃げようとして、前のめりになったところを後ろから、がっしりウエストを抱え込まれて動けない。
「無駄だ。大人しくしろ、お転婆娘」
その声は、どこか聞き覚えがあった。




