逃亡
あのとき、わたしは追っ手から逃れるために、マスターしたばかりの瞬間移動魔法を、思いっきり発動した。できるだけ遠く、知らない国へ行くために。
しかし、あまり強く発動したためか、使い方の制御がまだ不十分だったのか、術の途中で意識を失った。気がついたときには、朦朧とした自分が馬車の上に転がり落ちるのを感じた。
男爵家の三女に生まれたわたしは、かなり自由に、わがままに育った。
生まれてから平和に暮らしてこられたのは、歴代の聖魔女のおかげであるということなど考えてみたこともなかったのだ。
当時のことを、ありありと思い出したわたしは、憤りも思い出した。
冗談じゃない、まったく! 王子の妃なんて。なりたい人になってもらえばいいのよ。好きでもない人と一生暮らすなんてありえないわ!
そのとき、「馬鹿者!」という声が聞こえた気がした。やばい、神官長だわ!
彼の声まで聞こえてくるとは! 本当に見つかってしまいそう。
わたしの聖なる魔力を見出したのは彼だった。
ちなみに神官長のアルスタルはわたしの母の兄である。
魔法師一族である我が家の家系の中で、最も優れた能力の持ち主だ。五歳のころから神童と言われたほどだった。十歳になったとき、神官見習いとして神殿に入った。
彼は、わたしが最終選考で選ばれるだろうと言っていた。わたしの能力を確信しているようだった。
でもほんとうに、そんな力があるのかどうかは自分ではよくわからない。
「国のために大切な仕事なのだ、その能力を持って生まれたからには、それを国のために捧げる義務がある」
そう言われても、わたしにはピンとこない。まったくそんな気になんてなれやしない。
だから、逃げるのだ。どこへと言われてもわからないけど。
わたしはチュニックの内ポケットから紙とインク付きペンを取り出し、急いでしたためる。伯爵宛に。お世話になった感謝の言葉を。それから先輩や同僚への挨拶も書く。ほとんど一言の簡単なものだけど。
世話になったのだから当然よね。ほんとうなら追い出されてもしかたなかったのに。伯爵の親切には感謝しかないわ。メイドの先輩や同僚も、さほどわたしをいじめたりしなかったし、受け入れてくれた気がするもの。
書き終えると、ベッドの上にそれを置いて、わたしは瞬間移動の魔法を発動する。
ふわっと体が浮き渦巻く大気が自分を取り囲む。久しぶりの感覚だ。でも懐かしがっている暇はない。今にも追っ手は現れそうだ。わたしの姿は一瞬揺れてふっと、かき消える。
かすかに、わたしを呼ぶライゼルの声が聞こえた気がしたが、気のせい、ということにした。




