第7話
ライラの街を飛び出してから何日過ぎただろうか。
道なき道を進み、途中の村で仕入れた食料が尽きてからは狩りをしながら進み続けた。
険しい連峰の谷間に隠されたその集落に辿り着いた時、クライブの胸中にあったのは純然たる困惑だった。
周囲の貧しい農村とは明らかに違っていた。
切り開かれた傾斜地には、精緻な石積みの灌漑水路が張り巡らされ、遠くからは規則正しい水車の音が響いてくる。
村人が手にするクワや鎌は、陽光を浴びて鈍い銀色の光沢を放っていた。鉄製の農機具だ。
(……なんだ、この村は。ただの隠れ里なんかじゃねえ)
クライブは山間に広がる見事な田畑に、立ち並ぶ煉瓦造りの家に、立派な用水路や舗装された道路に目を奪われていた。
だからと言って、決して油断していた訳ではない。だが、草むらから、あるいは樹上から、音もなく現れた十数人の男たちに気づく事が出来なかった。
シナーテは気づいていたのだろう。悪態をつく。
「意外と遅かったわね」
猟師の衣服を纏ってはいるが、その足運び、突き出された槍の穂先の鋭さは、手練れた傭兵を思わせる。
「外界の者が何の用だ。ここは貴様らのような者が足を踏み入れていい場所ではない」
先頭に立つ浅黒い肌の大男が、冷酷な眼差しで言い放つ。
クライブが咄嗟に剣の柄に手をかけようとしたが、その手より早く、馬上のガルシアが小さく息を吐いた。
「村の入り口付近の警戒が疎かだな。今も里長はモルゲン家の者か? 案内を頼む」
子供の身体から発せられたとは思えない、威厳と落ち着きに満ちた声。
いつものガルシアではなかった。
大男は一瞬だけ目を見開いたが、すぐに冷笑を浮かべた。
「……ふん。時々やってくる、伝承を騙る詐欺師の類か。あるいは何処かの国の密偵か……いいだろう。我が一族に伝わる『御方』のお言葉通り、里長との面会を望む者を拒みはしない。だが、不届者であれば生きてここを出られんと思え」
◇ ◇ ◇
案内されたのは、村の最奥。
荒々しい岩肌をくり抜くようにして建てられた、巨大な石造りの建物だった。
何のための建物なのか。窓はなく、重厚な鉄の扉には、幾何学的な模様が刻まれている。
槍で押し出されるように建物の前に連れて行かれた一行に、いつの間にか現れた老人が声をかける。
「さあ、開けてみせよ」
ガルシアは老人を一瞥すると、鉄の扉の前に歩き出す。当然のようにシナーテがその隣を歩む。
そしてガルシアは何の躊躇もなく鉄の扉に手をかざし、朗々と言葉と綴る。
『掌の永遠を捨て、大いなる休息を与える糧とならん……』
続けて聞きなれない不思議な響きの言葉が続く。
クライブは固唾を呑んでその後ろ姿を見つめていた。
口をつぐんだガルシアが扉に手を触れた。
その瞬間、誰の手も拒み続けてきた巨石の扉が、ゴゴゴゴ……と地鳴りのような音を立てて、左右へと割れた。
周囲の空気が、凍りついたように静まり返る。
大男の手から槍が滑り落ちる。
老人は崩れるように膝をついた。
ガルシアは振り返り、静かに、しかし絶対的な威厳を伴って告げた。
「日々の精勤、大義である。これより再び我に仕えよ」
老人を先頭に、包囲していた村人たちが一斉に武器を投げ出し、床に額を擦りつけるようにして平伏した。
「おお……おおお……! お待ちしておりました、ロートシルト様! 我が一族、この日のために血を繋いでまいりました!」
「キャシアス様も、伝承通りの美しきお姿でのご帰還……歓喜の極みにございます……!」
すすり泣く村人たちの中心で、クライブは全身に強烈な鳥肌が立つのを感じていた。
(ロートシルト? その姓を名乗るものは他にいねぇ。いるわけがねぇ。ラザール・ロートシルト……。まさか、そんなわけがないだろ)
この大陸に生まれたものなら誰もが知っている「血塗られた魔王」の物語。
多くの者はおとぎ話と言うだろう。
だが、知識ある者、特にジェイシスの騎士階級に身を置く者にとって、その名は魔王などではなく、大陸を一つにまとめ上げた「絶対的な始祖・正統なる皇帝」の名だ。
現在の、宮廷の腐敗を垂れ流す紛い物の貴族、皇帝とは違う、神話の領域に身を置く真の皇帝。覇王。
ロートシルトとはそのただ一人を表す。
(ありえない。本当に蘇るなんて……)
そう思いながら、クライブは頭の中でこれまでの出来事を反芻する。
ガルシアの雰囲気が急に変わった事。
シナーテの信じられない人間離れした強さ。
今にして思えば剣に触れることなく敵を斬り裂く『白銀の戦姫』の詩に似すぎてないか?
いや待て、その前にそもそもガルシアはどうやってシナーテと知り合ったんだ?
さらに火事の時に開けた床の穴。
そして誰も知らない隠れ里に迷わず進み、鉄の扉を開けた。
これまで頭の中でバラバラに散らばっていた違和感が、一気に繋がり始めていた。
クライブは改めてガルシアを見つめる。
目の前にいるのは、紛れもない「本物」だ。
どんなに否定しようとしても、心が、血が、そう叫んでいた。
◇ ◇ ◇
開かれた建物の中へ入ると、クライブはしばらく言葉を失い、頭を抱えていた。
そこには、ラザールがこれまで数百年かけて大陸中から吸い上げ、隠匿していた莫大な金塊や宝石が山をなしていたからだ。
一国の国家予算を軽く凌駕する、眠れる巨万の富。
ガルシアは山積みの金貨の上に腰掛け、退屈そうにクライブを見下ろした。
「まだ混乱しているか、クライブ」
「……当たり前だろ。俺が大使館から連れ出した坊ちゃんが、ラザール・ロートシルトその人で、そっちの可愛いお嬢ちゃんが『白銀の戦姫』シナ・キャシアス本人だって? おとぎ話の英雄が揃って生きてましたなんて、誰が信じるんだよ……」
「ガフノレスも生きているじゃないか」
クライブは溜息を吐き、だがすぐに鋭い軍人の目つきになってラザールを睨んだ。
「あんたの正体は信じざるを得ん。だが、目的は何だ。この莫大な財産を掘り起こして、また大陸の統一でもする気か?」
「ああ。再び大陸統一を目指す。だが、それは手段に過ぎない」
ラザールは淡々と、しかし地を揺らすような重みのある声で言った。
「真の目的は、神殺しだ。この世界から神を消し去る」
「――なっ!?」
クライブは絶句し、思わず一歩後退りした。
「神を、殺す……!? 冗談だろ、この世界も、人も神が作ったんだぞ。創造主を殺すなんて、そんなとんでもねえ罰当たり――」
「神は何も作ってなどいない」
ガルシアは冷酷に、クライブの言葉を切り捨てた。
「勘違いするな。神が人を作ったのではない。人が、その弱さゆえに捧げた祈りと信仰が、あの不条理な『神』を形作ったのだ。そして我々愚かな人間は、神の名の下に人間同士戦い、血を流し、その悲劇に絶望してまた祈る。繰り返される狂信的祈りこそが神の礎だ。この不条理な連鎖を終わらせるには、大陸を一つにし、神への信仰を絶つしかない」
「……っ、だが、神を消しちまったら、民はどうなるんだよ!」
クライブは必死に反論した。常識的な人間として、信仰を失った世界の空虚さが恐ろしかったのだ。
「病に倒れた時、飢えに苦しむ時、人は何に頼ればいい? 心の拠り所を奪われた民は、絶望して生きていけなくなるぞ!」
「だから、より良い環境を与える」
ラザールはクライブを見つめ、いかにも「慈悲深い聖君」のような、完璧に計算された美しい、慈愛に満ちた微笑みを浮かべてみせた。
「民が神を求めるのは、現実が苦しく、不条理に満ちているからだ。ならば、神に祈る必要のない世界を作ればいい。飢えのない住みよい環境、病を克服する高度な術、健康な身体、そして心を潤す娯楽……それらを分け隔てなく、すべての人々が得られる世界。生活が十分に満ち足りれば、人はわざわざ目に見えぬ神になど縋り付かなくなる。私は、神に代わる『豊かな現実』を民に与えたいのだよ」
「……神を、不要にするほどの、世界……」
クライブは激しい衝撃に打たれ、呆然と立ち尽くした。
神への憎しみから世界を滅ぼすのではない。
人間が神に頼らず、自立して幸せに生きられる「理想郷」を作るために、この男は数百年もの間、牙を研ぎ続けていたというのか。
綺麗事ではない。圧倒的な財力と、神をも恐れぬ不敵な知略に裏打ちされた、壮大な人類の救済計画。
(とんでもねえ……。俺は、本物の覇王の神輿を担いじまったんだ……)
クライブの胸中で、畏怖はいつしか狂おしいほどの熱い興奮へと変質していった。
この男の作る世界を見てみたい。この男の旗の下で戦いたい。
騎士としての、男としての血が激しく脈打っていた。
クライブが心酔の眼差しを向ける。
しかし、ラザールの瞳の奥から、今しがた見せた「慈愛」の光が完全に消え失せていた。
その心が、疾うの昔に死に絶えている怪物のそれであることに、クライブは気づけない。
(――そうだ。衣食住を満たし、娯楽を与え、誰も祈らなくなれば、神は力を失って干からびる。そうして世界から神を完全に消し去った時、ようやく――私は真の安らぎを得る)
ガルシアの本音は、救世などという高尚なものではなかった。
何度も何度も、記憶を保持したまま不条理な転生を強制される地獄。神の掌の上で弄ばれる輪廻から抜け出し、完全な「無」として眠りにつきたい。そのためには、自分を縛る神そのものを破壊するしかなかった。
ただ、死にたい。その極限の虚無だけが、彼を動かす原動力だった。
◇ ◇ ◇
「御方様。こちらが我が里で代々鍛え上げてまいりました、至高の鋼にございます」
里の鍛冶職人が恭しく数々の武器を捧げて持ってきた。
幾重にも折り畳まれ、鍛えられたその刃には、まるで黒い墨を流したような、あるいは大蛇の鱗のような美しい波紋が浮かび上がっている。
この里の秘術の結晶だった。
シナはその中から、細身の長剣を一本手に取り、ひとしきり重さや重心を確認したあと、愛おしそうに頬を寄せた。
「これ、いいわね。模様も綺麗。握りが少し太いけど」
「直して君が振るうといい」
ラザールに促され、クライブも一本の長剣を受け取った。驚くほど軽い。
しかし、試しに手持ちの軍剣と打ち合わせると、愛用の一級品だったはずの軍剣がパキッと軽い音を立ててのあっさり刃毀れした。
「……ハッ、嘘だろ、おい」
クライブが戦慄する中、職人たちはこぞって自分の作品を献上する。
剣、槍、戦斧。武器のみならず、盾や鎧の類も全て見たこともない輝きを放っている。
その中に一際威容を放つ木箱があった。
それは厳重に密閉され、中には、不気味な黒い粉が詰まっていた。
里長が恭しく頭を下げたまま説明する。
「御方様より賜った製法通り、『黒薬』の精錬も続けてまいりました。これを筒に詰め、導火線を仕込んだ『破筒』も、すぐに実戦投入可能でございます」
クライブは軍人として、その黒い粉の「爆発」の仕組みを聞いただけで、体毛が逆立つほどの衝撃を受けた。
もしこれを馬の足元で炸裂させれば、ジェイシスが誇る無敵の騎馬隊すら、一瞬でパニックに陥り自滅する。
(戦術の常識を根底からひっくり返す悪魔の兵器だ。財力、鉄より硬い金属、爆発する黒い粉……本当に世界がひっくり返るぞ)
◇ ◇ ◇
ラザールは献上品を受け取り、里長からここ数十年の暮らしっぷりを聞く。
里長は誇らしげな顔で話していたが、最後に一転、苦渋の表情を浮かべてラザールに深く頭を下げた。
「ですが、御方様……我が里は教えを守り、外界と血を交わさずに純血を守り続けてまいりました。しかしそれゆえに血が濃くなりすぎ、近年は生まれながらに身体が動かぬ者や、虚弱な子供が増え、先細りしております。このままでは……」
それは、閉ざされた理想郷が抱える、生々しい滅びの現実だった。
クライブが同情の目を向けたが、ラザールはただ冷酷に、鼻で笑った。
「当たり前だ。狭い檻の中で同じ家畜を掛け合わせ続ければどうなるか、それは自明の理だろう。頑なに純血を守れなどと言った覚えはない」
「は、ははっ……申し訳ございません!」
突き放すような冷たい物言いに、里長は平伏する。
ラザールは少し思案し、得意の「慈悲深い主」の笑顔を張り付けた。
「里を守るための方策について、説明の仕方が悪かったようだな。クライブ、これからの奴隷を買い取ってきてくれ。……そう。かつてのシナのように、不当に虐げられている哀れな者たちがいい。彼らを救い出し、この里へ連れてくるのだ」
「 奴隷を……。なるほど。奴隷を救いつつ、里も救う。名案じゃないか!」
クライブがホッとしたように息を吐く。
が、ラザールにとって、奴隷の買い付けは慈善事業ではない。周囲の人間を体よく動かすための美しい隠れ蓑に過ぎなかった。
(危うくこの里が潰えるところだったが……丁度いい。奴隷を使って里を延命させ、ついでに奴隷に甘い汁を与え得ることで神を忘れられるのか「社会実験」といこう)
クライブは翌日旅立った。
里へ来たときとは違い、驚くほど脚が軽かった。心が軽かった。
「ずっと感じていた窮屈さがない。自分が本当にすべき事が分かったような……力を振るう自由を得たような。なんだこりゃ。優れた指導者に従うのはこれほど気分がいいことなのか」
新調した波紋の美しい剣を佩き、意気揚々と旅路を急ぐ。
ライラにはもう戻れない。
ジェイシスの現体制も紛い物だ。
なら、俺のこの新しい剣は、あの底知れない本物の皇帝に捧げる。
クライブにはいつの日か、この旗の下にジェイシスの誇り高き騎士たちが大挙して集う足音が確かに聞こえていた。
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