第6話
「ガルシア、起きろ! 火事だ! 早く逃げ――!?」
クライブは主の部屋へ転がり込んだ。
すでに廊下には黒煙が立ち込め、一階からはバチバチと木が爆ぜる不気味な音が響いてきている。
一刻の猶予もない。
しかし、部屋に踏み込んだクライブは、その異様な光景に思わず言葉を失った。
そこには、取り乱す様子など微塵もない二人の姿があった。
ガルシアもシナーテも、すでに完璧に旅装束を整え、いつでも動ける状態で佇んでいる。
ベッドのシーツには皺一つなく、まるで最初から火事が起きること、そしてクライブが飛び込んでくることすら予期していたかのように落ち着いていた。
「遅い!」
「クライブ、無事だね?」
「お前ら、なんでそんなに落ち着いて……」
背後で唐突に扉が閉まる音が響いた。
クライブは思わず振り返る。
が、今はそれどころではない。
「早く逃げるぞ!」
混乱するクライブをよそに、ガルシアは窓の外の赤い炎を静かに見つめていた。
クライブは痺れを切らし二人を連れ出そうと扉を開けようとしたが、何かが邪魔をして開かない。
「開かないのだろう?」
「ジェイシスからコソコソつけてきてた奴らね。やっぱりザザムの指示かしら。」
「いや、奴は愚か者ではないよ。何かの手違いか、部下が先走ったか……」
気づいていたのか。
いや、それよりザザム?ザザムって宰相のことか?クライブは状況が飲み込めず、だがどうにか二人を連れ出そうと必死だった。
「窓を突き破って飛び降りるしかない」
「いや、止めた方がいいだろうね。火から逃げ出してくる獲物ほど狩りやすいものはない」
ガルシアはそう言うと唇を吊り上げ、いつもの少年らしからぬ、どこか冷徹な笑みを浮かべた。
「慌てる必要はないよ。まず下に降りようか」
そう言うと、ガルシアは右手をシナーテ、クライブに翳し、何かを呟いた。
その瞬間、クライブはひんやりとした何かに包み込まれる感覚を覚えた。
(なんだ、これは?)
それからガルシアはテーブルの上に置かれていた、拳ほどの大きさの鉄球を掴み上げ、再び何か呟く。
(何だ? なんて言ってる?)
よく聞こえない。だが、言葉ではないように思えた。
呟き終わるや否や、ガルシアは鉄球をそのまま床に落とす。
すると鉄球は嫌な音を立てながら床に沈み、そのまま突き抜けて一階へ落ちていった。
さらにガルシアは床に出来た穴に手をかざし、三度何か呟き始めた。
――メキメキ
穴が広がっていく。ゆっくりと、だが力強く。
何かに押し広げられるように穴は広がり続け、やがて人がすんなり降りられる程の大きさに達した。
穴から黒い煙がモヤモヤと立ち上がる。
「降りたらすぐに窓を突き破って裏庭に出る。下はもう火が廻っているが、少しの間は大丈夫だ。ただ煙はどうしようもない。吸い込まないように注意を。シナーテ、先行して」
「……ガルシア。何をしたんだ?」
「説明はあと。急ぐぞ」
まずシナーテ、ついでガルシア、クライブと次々に穴へ飛び込んだ。
辺り一面火の海だったが不思議と熱さは感じない。
出来るだけ目を開けず、息を止め窓板を打ち破り三人は屋敷から無事に脱出した。
◇ ◇ ◇
ガルシアは腰に手を当て考え込む。
燃え盛る炎、逃げ惑う人々、追手の対応。頭の中で幾つもの選択肢を並べ、不要なものを切り捨てていく。
結論に至るまで、それほど時間はかからなかった。
「クライブ。厩舎から馬を三頭連れてきて」
「あ、あぁ。分かった。建物から少し離れろ。すぐに戻る」
走り去るクライブを見送ると、ガルシアはおもむろに両手を上げ、また呪文のようなものを呟くと、少し疲れた様子で大きく息を吐く。
それから裏庭の大きな木に向かって話し始めた。
「どうする? このまま一戦交えるかい?」
一瞬の間をおいて、木の上からぬるっと長身の男が現れた。
長い手をだらりと下げ、首を突きだしニタニタと気味の悪い表情を浮かべている。
「まさか一階から出てくるとはね。扉、開かなかっただろう? どうやって降りた?」
「自分から的になる必要などないからね。床に穴を開けて下に降りたのさ」
「へぇー……」
男はそう言うと首を少し傾けた。
木の上、そして奥の茂みから四人の刺客が現れ一斉に石弓を構える。
が、次の瞬間、空から一筋の閃光が刺客の頭に突き刺さり、突き抜けて地面へと流れた。
刺客はまるで壊れた人形のようにバタバタと倒れた。
「はぁーぁ? 何だそりゃ」
「シナ、殺すな」
言うやいなや、シナーテは素早く剣を抜き放ち、滑るように間合いを詰めると、右肩を貫く一撃を放つ。
男はそれを両手の短剣で反らし、身体をのけぞらせて何とか凌いだ。
「へぇ。これを躱すんだ。お前、名は?」
「ふっ……ぐっ、あ……ぁああ」
そのままシナーテの剣を押し返し、苦し紛れに短剣を振り回す。
シナーテは一歩引いてそれを軽く躱したあと、男の顔面を切り裂いた。
左の頬から目の間を通り右の額まで。ぱっくりと割れ、血が流れ出すと男の右目の視界を奪った。
「くそっ、この化け物め……」
「その傷をガフノレスに見せるといいよ。また会おうと伝えてくれ」
「必ず殺す。殺してやる……」
ガルシアを一瞥し、男は逃げ去った。
クライブが馬を引き連れて来たのはその直後だった。
地面に転がる刺客を見て二人を心配するが、シナーテが撃退したのだろう。剣を拭って鞘に収める姿を見て安堵する。
「さて、この混乱に乗じて姿を晦まそうと思う。丁度良い場所はあるが、少し遠い。手元に旅銀はあるか?」
「待て待て、姿を晦ますってどういう事だよ。ライラの首都に行くんだろう?」
「いや、駐在大使は辞めだ。暫く潜んで機を待つ」
「何言ってんだ、お前……機って何だよ」
クライブは火事に気づいてからこれまでずっと混乱の最中にあった。
用意周到な二人、開かない扉、床に穴を開ける謎の力。
そこへ今度は主が大使にならず逃げて隠れると言い出したのだ。まったく意味が分からない。
「クライブ、今は分からない事が多いだろうけど、潜伏先まで黙って付いてきてくれないか。そこで全て話すから」
「駐在大使はばっくれるんだな? じゃあ家はどうする。捨てるつもりか?」
そうなるね、と言ったガルシアの顔に迷いは感じられなかった。
そもそも、ガルシアが本当に「ガルシア」なのか、クライブにはもう分からない。
分からない事だらけだが、だからといって放っおけるか?俺だけジェイシスに帰れるか?
(それに……正直に言えば、シナーテ嬢のあの強さを見た時から、何かおかしいと引っかかりはしてたんだ……)
何か大きなものに巻き込まれている。クライブにはそんな予感がずっとあった。
放ってはおけない。
というより、もう引き返せない気がしていた。
三人はそれぞれ馬に跨り、ガルシアの言う「潜伏先」へと向かった。
◇ ◇ ◇
ジェイシス帝国の皇宮。
その奥に宰相 ガフノレス・ザザムの執務室がある。
格調高く、仰々しく、豪華な装飾を好む皇宮にあって、この部屋だけが質素で機能性を重視した拵えとなっている。
無駄な飾りはなく、大量の書籍や資料を収納できる棚、その棚から目的の物を探しやすくするために年代や分類が彫り込まれた鉄の板が貼り付けられていた。
窓はなく、明かりを灯す燭台が多く置かれている。
陰気な老人は一日の殆どを、この世の中から隔離されたような部屋で過ごす。
「ひっ……お、お許しを……」
「あれほど余計な事をするなと言うたのに……あれが貴様なぞの手に負えるものと思うたか!」
ガフノレスは短鞭でチャフを激しく打ち付けた。
しかし鞭打たれるチャフは手足を床に付けたまま態勢を崩さない。いや、崩せない。
魔法で動きを封じられているからだ。
今では裏通りの占い師がほんの僅かに使えるだけで、すっかり廃れてしまった魔法。
神の力の一部分を借りて奇跡を成す法。
ガフノレスはその魔法を使うことが出来る数少ない人物であった。
師であるラザール・ロートシルトからいくつか伝授された魔法。その僅かな魔法ですら、人は成す術がない。
チャフがガフノレスに従うのは身分や名声、金のためではない。
恐ろしいのだ。
そして従うことで自分の享楽になる仕事が出来るからに他ならない。
「ラザールを見失った。手の内から逃げたあれが次どこに現れるか、想像もつかん。」
ガフノレスは息を切らし、彼には大き過ぎる執務用の椅子に深く腰掛ける。
再び大陸統一を目指すなら、どうにかして兵を集めるしかないだろう。
だが、現状で兵を集めたところで支配可能な土地も大義もない。
機会を与えぬよう、世を動かぬよう勤め、居場所を探るのが先決か?
……いや、まずはライラだ。あの小国を揺さぶり、引きずり出すか?
陰鬱な老人はその醜く歪んだ顔に深い皺を寄せながら深く思案に沈んでいった。




