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忘神の国の吟遊詩人  作者: azyl
第1章 雌伏の英雄
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第5話

 ジェイシス領内の旅程は何事もなく穏やかに過ぎていった。

 整備された街道、点在する街、長閑な農村。遠く広がり風に波打つ麦畑。

 帝国の豊かさを示すような風景が馬車の窓の外をゆっくりと流れていく。


「クライブ。クライブ! 起きろ!」

「……んあ? もう今日の宿に着いたか?」

「落ちそうだったから起こしただけ。しっかりしてくれよ?」


 馬上で舟を漕いでいたクライブが、ガルシアの声でのっそりと顔を上げた。


「昨晩の酒が残ってるんだ。大目に見てくれ」

「出発前に飲み過ぎるから。兄上も兄上だ。久しぶりだからといって飲ませ過ぎだ」

「良い酒だったんだよ」


 シナーテが馬車の窓から二人のやり取りを眺め、小さく笑った。


 ◇ ◇ ◇


「おいおい、こいつは関所というより、どデかい市場だな」


 一行の先頭を行くクライブが感心したように辺りをキョロキョロと見回す。

 堅牢な石造りの門がそびえるジェイシスの関所とは対照的に、ライラの国境検問所周辺には、色とりどり、大小様々な布テントがひしめき合うように立ち並んでいた。


 小さな自治領が集まってできた商業国家、ライラ。

 その逞しい商人たちの気質は、国の玄関口から剥き出しだった。


「サーケイスの銀細工だよ!  旅の土産物にどうだい!」

「ジェイシスの上等な麦、買うよ! この乾物と交換でもいいよ!」

「旅の前にうちの美味いエールを飲んでいきな!」


 国境を越えようとする旅人や商隊を逃すまいと、天幕のあちこちから物売りたちの野太い声が飛び交う。

 「人が集まる場所ならどこへでも店を出す」と言わんばかりの熱気と強かさが、そこには満ち満ちていた。


 形式や権威を重んじるジェイシスの貴族社会から見れば「品がない」と一蹴されそうな光景だが、同時に、凄まじい生活力と経済の躍動を感じさせる。


「これがライラか。騒がしい国だな、こりゃ。だが、いいねぇ。こういうの好きだぜぇ?」


 クライブはライラの活気を上機嫌で眺めていた。


 暫くすると役人らしき人物が馬車へと近づいてきた。

やや尊大な態度で「通行証の提示を」との求めに対し、ガルシアは懐から正式な『駐在大使の割符』を差し出した。


「――っ! これは……ジェイシス帝国の新しい大使閣下であらせられますか!?」


 役人の態度は一変し、周囲のテントの喧騒が消し飛ぶほどの勢いで、最敬礼の姿勢をとる。


「し、失礼いたしました! お通り頂いて結構です!  おい、何をしている、駐在大使閣下のお通りだ! 道を空けろ!」


 慌てふためく役人たちの先導を受け、バンドール家の一行は、押し寄せる物売りの人波を割りながら、ライラ領内へ足を踏み入れた。


 ◇ ◇ ◇


 関所を抜け、数刻を経て到着したのはレンガ造りの建物が並ぶ大きな宿場町だった。


 関所周辺の喧騒が嘘のように、町の中は程よく落ち着いていた。

 それでもジェイシスの整然とした街並みとは違い、路地の至る所に露店が顔を出し、陽気な笑い声が漏れてくる。

 石畳の上を行き交う人々の顔つきも、通り過ぎる着飾った女も、どこか垢抜けて自由な雰囲気があった。

 クライブはいつもより少し胸を張り、ニヤニヤしながら通りを進む。


「こっちの方が性に合うな。実にいい街だ」


 クライブが馬上から気ままに辺りを見回していると、ふと視線を感じた。


 雑踏の中、誰かがこちらを見ている、ような気配を感じたのだ。

 しかし素早く周囲を見渡すが、怪しい人影はない。

 物売りの老婆、子供を抱えた女、荷を担いだ商人。どこにでもいる普通の人々だ。


 クライブは小さく首を振り、「気のせいか?」と呟いたが剣の柄から手を離すことはなかった。


 程なくして、街の中心部から少し外れたところにある、なかなか立派な宿に到着した。


 「駐在大使閣下のお泊まりになるとは。光栄でございます。ごゆっくりおくつろぎ下さい……」と恐縮する宿の主人と社交辞令を交わし、ガルシアが穏やかに笑って見せる。

 ガルシア、シナーテ、クライブにはそれぞれ個室が、護衛の騎士たちや小姓には大部屋がいくつかあてがわれた。


 クライブは個室に荷を放り込むと、早速宿の食堂で夕食を平らげ、食後は町へと繰り出した。


 賑やかな酒場を覗き、露店が並ぶ路地を歩く。

 建物の影から声をかけてくる娼婦に軽口を返して受け流してはいるが、その目は笑っていなかった。


 ――やはり、誰かがつけていやがる。


 巧妙に気配を隠しているが、確かに感じる不穏な気配を巻くように、クライブは夜の町をあえて遠回りして歩き回った。

 ただ、帰り道にもう一度だけ振り返ったが、そこには夜風が吹き抜けるばかりで誰もいなかった。


 宿に戻ったクライブは、いつ敵が来ても動けるよう、旅装束を解かぬままベッドに横たわる。

 しかし、連日の長旅の疲れには勝てず、いつしか深い眠りへと落ちてしまったのだった。


 ◇ ◇ ◇


 月は雲に隠れ、街の喧騒も灯りもすっかり鎮まり、辺り一面が夜の闇に覆われていた。


 深夜になり、クライブは喉の奥に何かが引っかかるような、不快な感覚と自分の咳で目を覚ました。

 目を凝らすと、扉の隙間から白い煙が細く流れ込んでいるのが見えた。

 跳ね起きて窓に駆け寄り外を見た瞬間、クライブの目が見開かれた。


 宿の一階が、激しく燃えていた。

 辺りを赤く染め上げながら、黒い煙と共に炎が壁を舐め上げていく。


「火事だァーー!!」

「火の勢いが凄い! 水だっ! 水を持ってこいっ!」


 あちこちから叫び声や悲鳴が上がった。

 クライブは愛用の剣と外套を引っ掴み、慌てて主の部屋へ向かった。


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