第3話
小姓は慣れた手つきで礼装の襟を整えた。
ガルシアは黙って腕を広げ、その手に身を任せている。
最後に肩の皺を払うと、小姓は満足そうに頷いた。
「ガルシア様、準備が整いました」
「ありがとう。シナーテは?」
「只今お呼び致します」
礼装を纏ったガルシアは、いかにも帝国貴族らしく着飾られていた。
シナーテを迎えに訪れた彼が侍女に取り次ぐと、ほどなくして扉が開く。
淡い色のドレスを身に纏い、銀髪を緩やかに結い上げた彼女は、著名な踊り子の義妹の名に恥じぬしなやかな佇まいに柔らかな微笑みを纏っていた。
「君の髪によく似合うドレスだ」
「ありがとう、ガルシア様。貴方も素敵よ」
シナーテを伴い、ガルシアは屋敷の玄関へ向かった。
ジェイシス帝国を代表し、ライラ自治共和国駐在大使を正式に拝命するためだ。
玄関ホールには既に礼装を纏ったクライブが壁に背を預け欠伸をかみ殺していた。
「遅い。父上がしびれを切らしているぞ」
「すまない。でもこれから陛下に謁見だと言うのに随分と気が抜けた顔をしているじゃないか。大丈夫?」
「これが素の顔なんでね。仕方ない」
肩をすくめながら先を歩き始めるクライブを見て、シナーテは小さく溜息をついた。
この男の能天気さが、時折羨ましく思える。
(今の皇帝などどうでもいい。どうせ傀儡でしょ。それよりあいつの顔をまた見ることになるなんて。本当に憂鬱だわ。)
馬車の前で待っていたアイザックが、一行の姿を認めると無言で頭を下げる。
宮殿までの護衛を買って出たのだ。
その目は既に警戒の色を帯びていた。
町中とはいえ、武装していない貴族が乗る馬車である。数名の護衛が馬車の前後を騎馬で固める手筈となっていた。
馬車が石畳を渡る音が規則正しく響く中、ガルシアは窓の外を眺めながら黙っていた。
クライブが何か軽口を叩こうとして、ガルシアの横顔を見てやめた。
(なんだ。緊張してるのか? まあ無理もない。初めての謁見だしな)
一行が宮殿の謁見の間へと通されたのは、正午を少し過ぎた頃だった。
高い天井、左右に並ぶ柱、磨き上げられた石畳。
突き当たりの玉座には、白髪交じりの初老の男が座っている。
ジェイシス帝国第八代皇帝、カルロス・ジェイシス。
帝国の威光を背負うには些か頼りない丸みを帯びた肩が、礼装の重さに押しつぶされているように見えた。
(とても大国を統べるような人物ではないな。やはりこの国はあの老人が動かしているか)
ガルシアの視線は玉座の傍らに静かに立つ人物へと移った。
痩せこけた身体に曲がった背。
しかし陰気な目だけが鈍く輝き、この場の全てを見通すように静かに動いていた。
宰相ガフノレス・ザザム。
百五十年以上を生きた老人は、ガルシアと視線が合った瞬間、僅かに目を細めた。
驚きではない。確認だ。
その目はまるで、「目覚めてしまったか」そう言いたげな目だった。
(私が目覚める前に国から追い出したかったか? 一歩遅かったな。残念だが必要な者は頂いていくよ)
ガルシアは表情も、歩調も、呼吸さえも乱さず、ただ深く頭を垂れ、型通りの言葉を口にした。
「バンドール男爵家次男、ガルシア・バンドール。ライラ自治共和国への大使拝命の栄誉、謹んでお受け致します」
その背後でクライブが型通りに礼を取り、シナーテが静かに膝を折った。
「うむ。励めよ」
皇帝の言葉は短く、どこか台本を読み上げるような抑揚のなさだった。
「恐れ入りますが、陛下。本日、もう一点ご報告がございます。こちらはシナーテ・ウォルフ。以前盗賊に襲われ亡くなられた踊り子システィーナ・ウォルフの義妹にございます。私事ではありますが、此度、婚約の運びとなりましたことをご報告申し上げます」
「ほう。それはめでたい」
皇帝の視線がシナーテへと向く。
シナーテは微笑みを崩さぬまま、深く会釈した。
ザザムも目を細めシナーテに視線を向ける。
(また若返りおったか。ラザールと会わせぬようライラに向かわせるつもりだったのだが、裏目にでたな)
「シナーテとやら、面をあげよ」
シナーテが顔を上げると一瞬ザザムと目が合った。
「美しいな。お主と姉の舞を見てみたかった。何とも残念な事よ」
「身に余るお言葉、誠に恐縮に存じます。」
シナーテは再び視線を床に落とす。
(あの陰気な目。本当に気持ちが悪い)
その横顔には笑みが貼り付き、指先がドレスの裾を僅かに握っていた。
(相変わらずガフノレスが嫌いか。まぁ当然だな)
ガルシアは内心で呟き、すぐに忘れた。
◇ ◇ ◇
謁見は滞りなく終わった。
退出する際、ガルシアはもう一度だけザザムへと視線を向けた。
(時間は常に私に味方する。お前は残された僅かな時間でどう動く?)
老人は既に皇帝を何か話しているようで、こちらを見てはいなかった。
ガルシアは小さく口の端を上げ、謁見の間を後にした。
廊下に出たシナーテが、ガルシアのすぐ隣に寄り添うように歩きながら小声で愚痴を零す。
「……相変わらず、嫌な目をした老人ね」
「気にするな」
「気にしていないわ。ただ事実を言っただけよ」
クライブは二人のやり取りを聞きながら、何かを言いかけてやめた。
最近のガルシアには、これまでと違う何かがある。
奥方を迎えて変わったのだと思っていたが、今日の様子を見てもそれだけとは思えない。
上手く言葉にできないが、そんな気がした。
◇ ◇ ◇
謁見の間が静まり返った頃、ザザムは奥の執務室で何やら考え込んだ後、人払いをした。
「チャフ」
「へい。お呼びで」
壁際の影から、長身の男が滑り出た。
ニヤついた口元、如何にも残忍で狡猾な目。
恰好こそ帝国騎士であったが、その姿は暗殺者を連想させた。
「バンドールの次男がライラへ向けて出立する。見つからぬよう手勢を連れ監視せよ」
「監視ですか。いつもと違って地味な仕事ですね。」
「余計なことをするな。見ているだけでいい。何かあれば報告せよ。良いな?」
チャフは唇を歪めた。
(めんどくせぇな。邪魔ならやっちまえばいいのに)
「分かりましたよ。ただ見てるだけ、ね」
「不満か?チャフ・スライ」
ザザムはチャフに目を据えると右手をゆっくり向けた。
「と、とんでもねぇ。ご命令に従いやす。失礼します」
慌てて退出するチャフを気にする様子もなく、老人は深く椅子に腰掛け、思いを巡らせていた。
(目覚めてしまった以上、もう手に負えるものではない。大人しくライラで大使をやっていてくれればそれでいい。今の段階では動けまい。そう信じたいところだがな)
◇ ◇ ◇
謁見を終えた日の深夜。
バンドール家の屋敷は静まり返っていた。
廊下を歩くシナーテの足音だけが、石畳に小さく響く。
ガルシアの部屋の扉を叩くと、すぐに返事があった。
燭台の明かりだけが灯る部屋で、ガルシアは窓際に立っていた。夜風が薄いカーテンを揺らしている。
「眠れないの?」
「少し考え事をしていた」
シナーテはガルシアの傍らに並び、彼の背にそっと手を添えた。
窓の外には静かな夜が広がり、僅かな風の音だけが2人を包む。
「……また始めるのね」
「そうだね」
「大陸の統一なんて。二人で静かに暮らすのではいけないの?」
「どうしても成し遂げたいんだ。今度こそ失敗はしない。そのためには君の力が必要だ。手伝ってくれるだろう?」
「えぇ。私は貴方の剣。貴方は私の全てだもの」
シナーテは目を閉じ、ガルシアに寄り添った。
傍らにいられるよう、同じ道を征こう。
行く手を阻む者は全てこの手で消し去ろう。
この温もりをいつまでも感じていられるように。
いつまでもこの安らぎを失わぬように。
しばらくの間、二人は窓の外を眺めていた。
そこには、ただ静かな夜だけがあった。




