第2話
「ガルシア様はまだお休み中でございます」
「いいのよ。それより少ししたら朝食を用意なさい。お茶は必要ないわ」
小姓の言う通りガルシアはまだ眠っているのだろう。
薄暗い部屋を進み、ベッドに腰をかけたシナーテは彼の髪を撫でた。
「ん……おはよう」
「おはようございます、ガルシア様。起こしてしまいましたわね」
「言葉が固いな。どうした?」
「今の私はもうすっかりガルシア様のお嫁さんなのよ。朝目覚めると湯浴みをして、香を炊いた部屋でドレスを着せられるわ。午前中にお母様とお茶をして、昼食の後は踊りの稽古。午後のお茶をテラスで頂いて、散歩をするの。夜は毎晩のようにお披露目されるわ。貴方の妻としてね。そこでにっこり笑いながらどうでも良い話を聞いて、皆の前で踊るの。そして月がまだ低いうちにベッドへ押し込められる。もう息が詰まりそう。剣を握ることもないのよ。腕がなまるわ」
そう一気にまくし立てた彼女の顔は言葉とは裏腹に満足そうであった。
ガルシアの妻となる、それを実感する度に何ものにも変えがたい喜びを味わうことが出来たのだ。
「もう少し我慢してくれ。大使としてライラに行けば少しは変えられるだろう。それから二人だけの時は昔のままで。君はガルシアの妻であり、私の妻となるのだからね。」
「えぇ。私は今まで通り、貴方のシナだわ」
甘えるように身体を摺り寄せガルシアに口付けをする。
肌寒い部屋で彼女の温もりを感じながら、まだ夢の続きを見るように、カーテンの隙間から差し込む朝日を受け輝く彼女の銀髪を優しく撫でた。
シナを連れ、戻ってからもう二ヶ月。ライラへの赴任はすぐそこに迫っている。
(シナはまだ精神的に安定していないかもしれんな。扱いに注意せねば……)
赴任までに片付けなくてはならない難題をどう切り抜けるか。ガルシアの関心はもっぱらそこであった。
「ガルシア様はまだお休み中で、今は……」
「あー、いいんだ。お前は下がってろ。ん? 飯か? 俺が運んでやるよ。ガルシアー、何時まで寝て……っと?!」
お邪魔しましたかね?と唇を歪めて皮肉に笑うクライブに、シナーテが噛み付くのは当然であった。
「主の部屋へ断りも無く入り込むとは何事かっ!」
「シナーテ、気にするな。それよりお茶を入れてくれないか。クライブ、おはよう。立派な大使になるためのお勉強会は午後からではなかったかな?」
「あぁ。詰まらん親父の小言から逃げてきたんだ。たまには剣の稽古でもどうかと思ってな。ベッドから出たくない気持ちは良く判るんだが、身体を動かさないと腐ってしまうぞ。いや、もう疲れたか?」
またあの皮肉な笑いだ。
シナの厳しい目を気にすることもなく「奥方に立てて頂く茶とは俺は運が良い」などと悪態をついた。
「汗を流すのは良いけれど、僕ではもう力不足だよ。
でも、ちょうどシナーテも同じことを言っていたんだ。
彼女、こう見えてかなりの使い手でね。もちろん皆には内緒だけれど」
「奥方様が? ほぅ。ではお手合わせお願い出来ますか?」
「ガルシア様……いいの?」
「あぁ、少し身体を動かしたほうが良いだろう。義兄は強いからね。稽古をつけてもらうとしよう」
「……そう。判ったわ」
「大丈夫ですよ。怪我をさせたりはしません。少し汗をかくだけです。では早速準備に取り掛かるとしよう。後でな、ガルシア」
お茶を一気に飲み干し立ち去ったクライブをあっけにとられて見送っていたシナーテだったが、我に帰り少し不安な表情を浮かべた。
「シナ。彼を見てほしいんだ。知っているだろうが、ライラにも、その前に宮殿へも彼と共に行く」
「……はい」
ガルシアの意図は理解できる。剣を、自分以外の剣を探しているのだ。
護衛だけならば自分一人で十分なのになぜ?彼女の不安は晴れることがなかった。
◇ ◇ ◇
バンドール家には小さいながら立派な稽古用の施設があった。
先々代から外交官としての職務を受け、武家として活躍する家柄ではなかったが、子供たちの教育のためにとクライブの父アイザックの提案で建てられたものだ。
幼いガルシアは兄ヴェルナーとクライブがアイザックから受ける稽古を、時には師の厳しすぎる指導に怒りを覚えながら、時には二人の素晴らしい才能に尊敬の眼差しを向けずっと見てきた。
兄ヴェルナー同様、若くして帝国の騎士なったクライブは、家柄と素行の悪さが災いして軽視されてはいるが、武術大会でも素晴らしい成績を残している。
「この施設、もうずっと俺しか使ってねぇなぁ……」
ガルシアとシナーテが到着した頃にはすっかり準備を終えたクライブが退屈そうに無精ひげを弄んでいた。
「遅かったな。早速始めよう」
「少し待ってね。シナーテ、防具を持ってくるから好きな木刀選んでおいて」
「防具? そんな物必要ないわよ? それに木刀?」
「稽古だからね。怪我をしないように木刀と防具なんだよ」
「要らない。稽古にならないわ」
まぁ、そう言うだろうとは思っていたが、帝国の一般的な稽古の習慣に併せて欲しかった。仕方がない。
「分かったよ。ならせめて髪を上げて頭にこれを巻いて。木刀は我慢して」
それも気に食わないシナーテがブツブツと何か言ってるのをガルシアが嗜める。
まるで嫌がる子どもに手伝いをさせる親のようだ。
(あぁあ、なんで俺が奥方と稽古なんだ?かなりの使い手って剣舞かなんかの間違いなんじゃねぇの?)
シナーテの準備が終わるとガルシアが声をかける。
「お待たせ。互いに顔や急所への打ち込みはなし。可能な限り寸止めすること。いいね?」
「大丈夫だ。奥方に怪我させるような事はないよ」
「あら、紳士なのね。随分余裕があるみたい」
「余裕が無い男はモテませんからな。先手をどうぞ」
二人は互いに少し離れて向かい合う。
ガルシアが開始の掛け声をかけたが、本当に打ってこないクライブを確認したシナーテは無造作にクライブとの間合いを詰め始めた。
(構えもせずに? いや、だが何だ、この威圧感は)
ただゆっくりと歩くように前へ。
クライブを真正面に捉え、身体の芯が全くブレることなく近づく。
(来る――)
直感で木刀を横に払った瞬間、シナーテの姿が視界から消えた。
気づいた時には冷たい木刀の感触が喉元にあった。
「……っ」
「クライブ、大丈夫?シナーテは素早いから気を抜いちゃダメだよ。」
「あ……あぁ、そうだな。油断してしまったよ」
クライブは大きく息を吐いた。
とにかく、速い。気は抜ける相手ではない。
「奥方、次は俺から宜しいか?」
「どうぞ。今度は本気でね?」
クライブは慎重に距離を詰めながら、自分の間合いギリギリから上段に打ち込む。
シナーテはそれを払いもせず、ただ半歩横にずれた。
空を切った木刀の勢いで僅かに生まれた隙をついて、木刀が流れるように喉元へ突きつけられた。
三戦目。四戦目。
何度も挑んでも結果は変わらなかった。
打ち込むたびに剣を躱され、流され、気づけば全て首元に木刀が突きつけられていた。
速さだけではない。力でも技でもない。
宙を舞う羽が風に揺れるように、振り下ろす木刀をふわりと避ける。
そんな奇妙な感覚と激しい疲労が蓄積していく。
「……ここまでにしましょう。義兄さまはお疲れのようだわ」
クライブは膝に手をつき、肩で息をしていた。汗が顎の先から床に落ちる。
身体を動かしたことによる疲労だけではない。
彼女から伝わる恐ろしい程の威圧感がそうさたのだ。
対するシナーテには呼吸の乱れ一つ無かった。
頭に巻いた布を解くと豊かな銀髪が流れ落ち、稽古前と何一つ変わっていない姿を見せた。
「……化け物か」
思わず漏れた言葉にシナーテは何も答えなかった。ただ静かに木刀を収め、ガルシアの元へと歩いていく。
「クライブ、お疲れさま。お湯を用意させようか?」
「いや、大丈夫だ。少し休んでから戻るよ。しかし、参った。奥方さまは凄まじくお強いな」
ガルシアは「そうだね」と返すと、シナーテと共に稽古場を後にした。
(悔しいか? クライブ。今は牙を研ぎ、いずれ役に立ってくれよ……)
背後でまた木刀を振る音が響いていた。
◇ ◇ ◇
廊下を並んで歩きながら、ガルシアがシナーテに問いかけた。
「どうだった?」
「全くダメね。使い物にならないわ。そもそも実戦を経験したことがないんじゃないかしら」
「手厳しいな」
「だって、貴方の剣となるのでしょう? 筋は悪くない。けれど場数が足りなさすぎるのよ」
ガルシアは何も言わなかった。
庭に面した窓から差し込む光の中を、二人はしばらく黙って歩いた。




