第24話
ジェイシス帝国軍の撤退は、実に見事なものだった。
主将のアーレン・スタンフォードが隻眼となる重傷を負い、生命線たる臨時兵站を完全に灰燼に帰されながらも、帝国軍は恐るべき規律を保っていた。
ライラ軍に付け入る隙を一切与えぬよう、後方に強固な殿の部隊を配置し、油断なく、整然と荒野を退却していったのだ。
結局、ライラ軍はそれ以上の追撃を行うことはできず、戦いはジェイシス軍が自ら引くという形で幕を閉じた。
そして──ライラ国軍は、再び首都へと凱旋した。
二度にわたり、帝国の圧倒的な大軍を退けた国軍。その奇跡的な勝利の報に、街の人々は狂喜乱舞した。
通りは色鮮やかな旗で埋め尽くされ、上空からは降るような花吹雪が舞い散る。割れんばかりの大歓声が、凱旋する兵たちを包み込んでいた。
だが、その熱狂の中心にいるはずの首脳陣の表情は、一様に硬かった。
総大将であるラザールと、その傍らに従うシナは、民衆の前に姿を現すことなく、急遽用意させた黒塗りの馬車の中に身を隠しての帰還となった。
馬上のレティシアも、クライブも、前回の勝利のときのような晴れ晴れとした表情はどこにもなかった。
歓声が大きければ大きいほど、彼らの横顔には深く、重い影が落とされていた。
それでも、生きている者は、目の前の現実的な戦後処理をこなさなければならない。
国軍事務所の周辺は、勝利の熱狂から一転して、足の踏み場もないほどの混沌に包まれていた。
バザルをはじめとする後方支援の面々は、戦場に残された死体を焼き、武器防具を貪欲に拾い集め、荷車に山積みにして持ち帰ってきた。
国軍事務所の窓口は、兵たちへの報酬の支払いや、持ち込まれた戦利品の査定、損害の集計作業でてんやわんやの大パンク状態に陥っている。
さらにそこへ、この機を逃すまいと鼻を利かせた三大商人たちが、「今なら上質な食料を安く卸しますぞ!」と商魂逞しく押し寄せてきたため、事務所の役人たちは怒号を飛び交わせ、文字通りの大混乱を極めていた。
そんな外の喧騒から隔絶された、国軍事務所の最奥にあるラザールの私室にレティシアとクライブの二人だけが呼び出されていた。
「二人とも、よく無事で戻ってくれた。今回の防衛戦におけるお前たちの尽力に、心から感謝する」
ベッドの背もたれに身を預けたラザールは、掠れた声で二人をねぎらった。
その顔色は未だに青白く、力を絞り出した代償の重さを物語っている。
ラザールは手元にある二通の羊皮紙をトントンと指先で叩いた。
「二人が提出してくれた報告書は、今、読ませてもらったよ」
レティシアは、痛々しいラズの姿を見て、思わず顔を曇らせて身を乗り出した。
「大将、そんな顔色で大丈夫かい? 無理しすぎなんだよ。戦に勝っても、大将がくたばっちまったら元も子もないだろ」
「私は大丈夫だ、レティシア。……それよりも、お前の方こそ酷いなりだな。大丈夫か」
ラザールに指摘され、レティシアは自身の赤黒く染まった包帯をバシバシと叩いて笑った。
「あはは、あたしのはただの擦り傷だよ! ……それよりさ、大将。あたしの報告書、何か問題でもあったかい?」
ラザールは深くため息をつき、手元の羊皮紙を見つめた。
「問題は大ありだ。報告書が雑すぎる。これでは、お前の部隊の損害が何人で、治療にどれほどの物資が必要なのか分からん。 ……預けた事務官は、一体どうしたんだ?」
そう問われると、レティシアは気まずそうに頭を掻いた。
「いやぁ……それがさ。うちの連中はとにかく荒くれ者が多くてさ。机に向かってカリカリやってた事務官をちょいとからかったり、大声で脅したりするもんだからさ……三日もせずに逃げちまったんだよね」
「……なるほど。荒くれ者を統制するのも大将の役目だ、レティシア。至急、事務作業ができる環境の対策を考えるよう、言い渡しておく」
「う、うっす……なんとかするよ……」
冷徹な正論に、さしもの鬼姫も縮こまるしかなかった。
ひとしきりレティシアへの説教が終わると、私室の空気は、にわかに凍りついたような静寂へと沈んだ。
ラザールの視線が、隣でずっと俯いたまま口を閉ざしているクライブへと移る。
クライブの提出した報告書は、レティシアのものとは対照的に、精密かつ完璧に整えられていた。──ただし、そこには最悪の事実が記載されている。
「……クライブ」
率直な、しかし全てを見抜いた声が響く。
「ヴェルナーとアイザックを……逃がしたのか?」
その問いに、クライブの肩がびくりと跳ねた。彼は顔を上げられず、拳を固く握りしめながら、身を引き裂かれるような苦渋の声を絞り出した。
「……俺は、あいつらを殺せない」
沈黙を守っていたクライブの口から出た、あまりにも脆い告白。
その瞬間、ラズの背後に直立不動で控えていたシナの瞳に、凄まじい業火が灯った。
彼女は一歩前に踏み出すと、部屋の空気を切り裂くほどの怒号をクライブに叩きつけた。
「貴様の主は、誰か──っ!!」
部屋中の調度が震えるほどの圧。シナはクライブを睨みつけ、容赦のない言葉を浴びせる。
「ラズは、その命を削ってまでライラの覇道を進めておられる! それに対して貴様は、私情で敵を逃がしたというのか!? クライブ、貴様が持ち合わせている忠節とは、その程度のものか!」
シナの絶対的な狂信を前に、クライブは言い返す言葉もなく、ただ奥歯を噛み締めて床を睨みつけるしかなかった。
自分が不忠者であることは分かっている。それでも、家族の首を撥ねることはできなかった。
ラザールは、二人の激しいやり取りを、感情の読めない冷徹な目で見つめながら、静かに思案していた。やがて、小さく息を吐き、呪いのような事実をクライブに突きつける。
「クライブ。お前が切らなければ、次はシナが彼らを切るだろう。 ……それでも、いいか?」
「っ……!」
クライブは息を呑み、言葉に詰まった。
身内の命を自分の手で終わらせるか。それとも、この目の前にいる銀髪の化け物に、無残に細切れにされるのを見届けるか。ラザールが提示したのは、どちらを選んでも地獄にしかならない究極の選択だった。
重苦しい沈黙が私室を支配する中、ラザールはそれ以上クライブを追及せず、おもむろに話の方向を変えた。
「……いずれにせよだ。ジェイシス帝国は、そう遠くないうちに、もう一度必ず攻めてくる」
「えっ?」
レティシアが顔を上げる。
「あいつら、二度も負けたくせにまだノコノコやってくるってのかい?」
「そうだ」
ラザールはクライブを見据えながら続ける。
「クライブ、考える時間を与えよう」
クライブは「どういうことだ?」という顔をあいたが、ラザールは気にせず続ける。
「今回の戦いで、我々は奴らの兵站を焼いて撤退させた。だが、軍の主力自体には大きな損害を与えられていない。彼らは一度帝都に戻り、体制を整え直すだけだ。だが、我が軍には、これ以上兵を増やす時間的な余裕が全くない。……つまり、次は勝てない」
ラザールの淡々とした、しかし冷静に分析した言葉に、レティシアは椅子を蹴立てんばかりに驚いて叫んだ。
「大将! 勝てないってどういうことだ?! あたしらは次の戦いで、全員死ぬっていうのかよ!」
「このままだと、そうなるね」
ラザールは事もなげに言った。正面からぶつかれば、数の暴力に押し潰されて全滅する。それが冷酷な現実だった。
その時、ずっと俯いていたクライブが、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、ラズの意図を正確に捉えた鋭い光が宿っていた。
「……サーケイスか。そうだろう? ラザール」
クライブのその言葉を聞いた瞬間、ラズの青白い顔に、ぞっとするほど不敵な「魔王」の笑みが浮かんだ。
「そうだ。よく分かったな。今度は、サーケイス王国に援軍を出してもらう。……クライブ、お前にそれが出来るか?」
クライブは、かつて自分が赴いた大国の名を反芻し、ふっと自嘲気味に息を漏らした。
「普通に考えりゃ、無理だろうな。あそこはジェイシスとライラの小競り合いを高みの見物と決め込んでいる。 ……何か策略でもあるのか?」
ラザールはベッドから上体を起こし、二人の将を見据えて、世界を揺るがす謀略の第一歩を口にした。
「サーケイス王に、使者として伝えてほしいんだ。『ジェイシス帝国への侵攻に、付き合わないか?』とね」




