第23話
乾いた戦場に、突如として不気味な黒煙が立ち上った。
それに遅れて、ジェイシス帝国軍の陣営から、全軍撤退を告げる鈍い銅鑼の音が幾重にも鳴り響く。
激しい一騎打ちを続けていたレティシアは、満身創痍の身体で肩を激しく上下させ、一瞬、その動きを止めた。
「おたくの陣営、なんだか慌ただしいけど……ありゃなんだい?」
三つ刃の戦斧を構えたまま、レティシアは不敵な笑みを浮かべ、顎で遠くの黒煙を指した。
対するウォーレンもまた、激しい息の乱れを隠すことなく動きを止めた。彼は視線を落とし、己の愛用する双剣を確認する。
その刃はレティシアの剛腕を真っ向から受け流し続けたことで、無残なほどに刃こぼれしていた。
もう二、三合も交えれば、確実に根元からへし折れるだろう。
ウォーレンは、安堵とも悔しさともつかぬ息を吐き出した。
「撤退命令だ。本陣でなにかあったようだな」
「はっ。うちの大将が、旨い事やったらしいね」
「ロートシルトが……そうか。最初からこちらが本命ではなかったわけか」
ウォーレンは自嘲気味につぶやくと、これ以上の戦闘は無意味と判断し、ゆっくりと二本の剣を鞘に納めた。
それを見たレティシアも、巨大な戦斧を地面へと下ろす。
「大将に会えなくて、残念だったなぁ?」
「そうだな。だが、貴殿との闘いは、実に胸が躍った」
ウォーレンの誠実な言葉に、レティシアは豪快に笑い飛ばした。
「あはは! 気に入ったよ。次はもっと楽しませてやるから、首を洗って待ってな!」
ウォーレンは小さく微笑むと、踵を返し、固唾を呑んで見守っていた己の部隊へ向かって大声で指令を下した。
「全軍、速やかに撤退!」
その声に応じるように、ジェイシス兵たちは一斉に武器を収めた。誰一人として、不服を唱えたり戦いを続けようとしたりする者はいなかった。
乱戦の中で繰り広げられたレティシアとウォーレンの死闘は、居合わせたすべての兵が、この戦域の結末として文句なしに納得できるほどに圧倒的なものだったのだ。
レティシアは、ウォーレンの背中が軍勢の中に消え、完全に撤退を始めるまで、戦斧を地に打ち立てたまま微動だにせず不動の姿勢を保ち続けていた。それが彼女の意地だった。
だが、敵の姿が見えなくなり、張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れた瞬間──。
「──っ、がはっ……!」
レティシアは激しく咳き込み、戦斧を支えにしてドサリと片膝をついた。
「いや、ほんと……何もんだよ、あの二刀流は……。騎士にもあんなヤツがいるのかね……」
内臓を揺さぶられたような衝撃に耐えながら、不敵に笑う。致命傷になるような深い傷こそない。
しかし、切り裂かれた無数の生傷から流れた血で、彼女の身体は赤黒く染まっていた。
「鬼姫!」
「無理し過ぎだ! おい、すぐに治療班を呼べ!」
副官と周りの兵たちが、慌てて彼女の元へと駆け寄っていった。
一方、十分な距離をとって撤退するウォーレンもまた、ふと足を止めて天を仰ぎ、呟いていた。
「信じられん強さだった。力と、あの勝利への執念だけならば、スタンフォード卿をも上回るかもしれん……」
ふと視線を向けると、遠方にヴェルナー率いる重装騎士団が整然と後退していくのが見えた。
(もし、彼が敵の騎馬隊をあの場所で抑えていなければ……自分たちは背後から挟み撃ちにされ、全滅していたのではないか?)
そう気づいた瞬間、ウォーレンの背筋に、冷たい戦慄が走るのだった。
◇ ◇ ◇
同じ頃、荒野の別区では、電撃戦を終えたラズとシナの突撃隊が、クライブの遊撃騎馬隊との合流を果たしていた。
ジェイシス軍が完全に撤退していくのを確認すると、シナは奪った馬を止め、すぐさまラザールの姿を探した。
数十騎の突撃隊に囲まれながら、やや速度を落として近づいてくるラザール。
その姿は、今にも落馬しそうなほどに力なく、馬の首にしがみつくようにして倒れ込んでいた。魔法の代償は、彼の身体を確実に蝕んでいた。
「ラズ!」
シナは自身の馬からラザールの馬へと飛び移ると、後ろからその細い身体を優しく抱きかかえるようにして手綱を奪い、巧みに馬を御した。
「……シナ。私は大丈夫だ。少し、目眩がするだけだ……本陣へ、戻るぞ……」
ラザールは青白い顔で、掠れた声を絞り出す。
シナは無言で深く頷き、彼を労るようにしっかりと腕に力を込めた。
クライブは、そんな二人を少し離れた場所から、何とも言えない複雑な表情で見つめていた。
まさか、この地で実の兄であるヴェルナーや、厳格だった父親のアイザックと、敵味方に分かれて剣を交えることになるとは思ってもみなかった。
ラズの理想に共鳴し、ライラに味方したことを後悔はしていない。それは自分で決めた道だ。だが──。
(だが、彼らと本気で殺し合うことが、俺の本意なのか? 俺は、次に彼らと対峙したとき……本当に、あの二人に本気で剣を向けられるのだろうか)
脳裏に焼き付いて離れないのは、去り際のヴェルナーの、絶望に満ちた驚愕の顔だった。
「……チッ。俺たちも、本陣へ戻るぞ」
クライブは小さく吐き捨てると、部下たちに指示を出した。その横顔は、勝利の喜びに沸く兵たちとは対照的に、酷く暗く沈んでいた。
◇ ◇ ◇
ジェイシス帝国軍の本陣。
先ほどまでの熱戦が嘘のように、陣営内には重苦しい敗戦の空気が流れていた。
「スタンフォード卿!」
「騎士団長!」
本陣に帰還したウォーレンとヴェルナーは、天幕の前で負傷兵の治療を受けている主将、アーレン・スタンフォードの姿を見て、色をなして駆け寄った。
アーレンの脇腹からは血が滲み、何よりその右顔面は痛々しいほどに幾重もの包帯で覆われていた。包帯の右目のあたりがじわじわと赤黒く染まっていく様が、傷の深さを物語っている。
「おぅ。二人とも、無事に戻ったか」
傷を負ったアーレンは、しかし苦痛など微塵も感じていないかのように、どこか満足げな笑みを浮かべて二人を迎えた。
「そのお姿……一体、誰にそこまでの傷を!?」
ヴェルナーが悲痛な声を上げる。アーレンは痛む顔を軽くさすりながら、遠い目をして言った。
「白銀の戦姫から、じきじきに手ほどきを受けてな。いやはや、伝承とは分からぬものだ。お伽話の類かと思っていたが、事実はその上を軽く超えてくる。この年になって、遥か高見から教えを受けるなど……武人として、光栄の極みだよ」
ウォーレンは、アーレンの命に別条がないことに胸をなでおろした。だが同時に、ライラ軍に潜む強者がレティシアだけではなく、総大将の目を奪うほどの『化け物』がもう一人いるという事実に、底知れぬ恐怖を抱いていた。
しかし、ヴェルナーだけは、別の恐ろしい思考に囚われ、拳を血が滲むほどに固く握りしめていた。
「さて、戦況だが……」
アーレンは表情を引き締め、二人を見据えた。
「ここから見る限り、前線は拮抗しておった。このまま腰を据えて戦えば、数に勝る我が軍の勝利となったろう。……しかし、すまん。わしの不覚で、物資をほとんど失った。これでは、一万八千の大軍を維持できん」
「なんと! 一体、どのような方法であれほどの物資を短時間で……!?」
ウォーレンが驚愕する。アーレンは言葉を選びながら、静かに答えた。
「わしにも分からん。ただ……黒髪の青年が馬上から作り出した、巨大な火の玉が物資を覆っていた。水も通じぬ、超常の何か、であろうな」
「っ……!」
黒髪の青年。その言葉を聞いた瞬間、ヴェルナーはガチガチと奥歯を鳴らし、深く俯いた。
「口惜しいが、全軍撤退だ」
アーレンは厳かに命じた。
「本陣に残る食料は一日分ほど。後方より速やかに撤退し、途中の農村で食料を補充しながら帝都に帰還する」
「「はっ!」」
主だった騎士たちが一斉に天幕から飛び出し、撤退の準備へと動き出す。
しかし、ヴェルナーだけは、頭を下げたままその場から動こうとはしなかった。
「……スタンフォード卿。お耳に入れたいお話がございます」
ヴェルナーの尋常ならざる様子に、アーレンは残された左目で彼をじっと見つめた。
「聞こう。しかし、少々傷が痛むでな。わしの天幕へ移動するか」
「……お心遣い、感謝いたします」
二人はアーレンの私的な天幕へと移動した。軍医に包帯を替えさせた後、アーレンはすべての従者を天幕の外へと下がらせた。
静寂が満ちる天幕の中で、アーレンが静かに話を促す。
「ヴェルナー。何があった」
「……我が家に仕える従士、クライブに会いました。その者は、我が弟ガルシアと共にライラへ向かい、消息不明となっていた者です」
「ほう。だが、ただの生存報告ではあるまい?」
ヴェルナーは、震える息を吸い込み、血を吐き出すような覚悟で言葉を絞り出した。
「……はい。彼が言うには……。ロートシルトの正体こそが……我が弟、ガルシアであると。さらに……スタンフォード卿にその傷を負わせたという銀髪の少女。あれは、ガルシアの許嫁であったシナーテ嬢の成れの果てかと推測されます」
「なるほど……」
アーレンは驚く風でもなく、ただその報告を頭の中で反芻するように一拍の沈黙を置いた。そして、深く、重いため息をついた。
「ヴェルナー。お前はライラの駐在大使に任命された際、ザザム宰相への謁見はしているな?」
「はい。……それが、何か?」
「つまりだ」アーレンの眼光が冷酷に光った。
「ザザム卿は、ロートシルトの正体がガルシアだと最初から知りつつ、お前たちバンドール家を此度の遠征に踏み切らせたわけだ。……食えぬ老人だ。自分の駒であっても、師の血筋であろうと、御せぬならば、他人の手を使ってでも根絶やしにする腹か」
ヴェルナーは何も言えなかった。ただ、帝国の闇の深さと、自分たちが仕組まれた残酷な運命に歯を食いしばり、床を睨みつけることしかできない。
「ヴェルナーよ」
アーレンは、そっとヴェルナーの肩に手を置いた。
「此度の戦果報告、わしからはただ『白銀の戦姫』なる化け物が現れたとだけ伝えることとする。ロートシルトの正体を上に報告するかどうかは……其方に任せる。好きにするが良い」
「っ!? しかし! しかし卿、我が弟が、ジェイシス帝国に明確に剣を向けているのです! 報告せねば、我が家は……!」
驚いて顔を上げたヴェルナーに対し、アーレンは静かに首を振った。
「そうだな。では、その責任感を持って、バンドール家を自ら取り潰すか? ザザム卿の掌の上で踊らされた挙句、すべての泥を自分から請け負うというのか?」
「……っ、それは……」
「帝都に戻るまで、まだ時間はある」
アーレンは優しく、しかし重く告げた。
「ゆっくりと考えるのだな。お前が、家を、そして弟をどうすべきか」
ヴェルナーは深く一礼し、アーレンの天幕を後にした。
自身の持ち場へと戻る彼の足取りは、これから背負わねばならない運命の重さに耐えるように、あまりにも、あまりにも重かった。




