第10話
「何者だッ!?」
静寂を叩き割るような怒号が、会議室に響き渡った。
声を荒らげたのは、三大商人のうちの一人、肥満の大男だった。その顔は恐怖と怒りで歪んでいる。
壁際に控えていた三人の護衛たちが、一斉に獲物を引き抜いた。
鋭い金属音が密室に反響する。
しかし、乱入してきた黒髪の青年──ラザールは、突きつけられた白刃を前にしても、眉一つ動かさなかった。
それどころか、退屈な観劇でも終えたかのような軽い足取りで、部屋の中央へと歩みを進める。
「警備兵は何をしている!」
「おい、そこの男! 動くなと言っている!」
護衛の二人がラザールの行く手を阻もうと一歩踏み出した、その瞬間だった。
ラザールの背後に控えていた銀髪の少女──シナの蒼い瞳が、すっと細められた。
それから少女は武器すら抜かず、ただ主の影に寄り添うように前に出た。ただ、それだけだった。
だが、それだけで部屋の空気が凍りついた。
(──な、んだ、これ……ッ!?)
護衛の男たちの身体が、目に見えて硬直した。
蛇に睨まれた蛙なんて生易しいものではない。
首筋に冷たい刃を直に押し当てられているかのような、圧倒的な「死」の気配が室内に充満していた。
一流の腕を持つ護衛だからこそ分かってしまう実力差。動けば、瞬きする間に自分の首が床に転がることになる。そう本能が叫ぶのだ。
抜いた剣先が、カチャカチャと情けなく震え始める。
ラザールはそんな護衛たちの間を平然と通り抜け、空いていた上座の椅子を引き、我が物顔で腰掛けた。
クライブがその斜め後ろに立ち、やれやれと肩をすくめてみせる。
「お初にお目にかかる。私はラザール・ロートシルト。かつてジェイシス帝国を築き、伝承にある通りに蘇った者だ」
静かな、しかし部屋の隅々にまでよく通る声だった。
一瞬の静寂の後、最初に声を上げたのは、三大商人の最長老である痩せた老人だった。
「ロートシルト、だと……? 馬鹿馬鹿しい。百年以上前に死んだ建国の英雄が生き返ったというのか。タチの悪い詐欺師か、さもなくば狂人め」
老商人は鼻で笑い飛ばそうとしたが、その声はわずかに震えていた。
ラザールは、机の上に肘を突き、組んだ指に顎を乗せて、冷ややかに商人たちを見下ろした。
「詐欺師か。結構。では商人諸君、お前たちが大金を投じて築いたこの首都で、最も厳重なはずの商館の警備を、誰一人傷つけず、物音一つ立てずに堂々正面から突破してここに座っているこの現実を一体どう説明する?」
その一言に、商人たちは息をのんだ。
「……なに?」
「まさか、外の者たちは……」
確かに、侵入者だというのに部屋の外は物音一つない。
「安心しな。気絶させただけだ」
クライブが、腰の大剣の柄をポンポンと叩きながら、意地の悪い笑みを浮かべる。
「まぁ、ちょっとばかし手際が良すぎたかもしれないがね。あんたらの自慢の防衛網、ザルにも程があるぜ?」
商人たちの顔から、一気に血の気が引いていった。
彼らが何よりも信奉する金、その金で買った確実なはずの安全が、目の前の、たった三人の若者たちによって完全に無力化されている。
その事実こそが、ただの詐欺師でも狂人でもないという何よりの証明だった。
「困っているのだろう?」
ラザールは、追撃の手を緩めない。
その声は、まるで彼らの心臓を直接掴むかのように、深く、重く響いた。
「ジェイシス帝国の兵一万二千がすぐそこまで迫っている。だというのに、お前たちは狭い部屋で算盤を弾くことに夢中。誰一人として兵を率いる覚悟すらない……ならば、その命とこの国、私に売る気はないかね」
「売る、だと……!?」
気鋭の若き商人が、机を叩いて立ち上がった。
「ふざけるな! 狂人に命や国を売り渡せるわけがあるまい!」
「お前たちが今まさに失いかけているものを売れないとでも──」
ラザールは立ち上がった男を視線だけで黙らせた。
その黒い瞳の奥に宿る、底知れない威厳。
若いとはいえ、三大商人と呼ばれ、国を牛耳る一角ほどの商人だ。一瞥で気圧されるような男ではない。
それなのに若き商人は、まるで巨大な獣に睨まれたかのように、言葉を失って椅子に崩れ落ちた。
「騒がし。これは取引だ。お前たちが抱えるすべての私兵、傭兵。その指揮権を私に委譲しろ。つまり──この国の全兵権を私に差し出すのだ」
「正気か!? 六千もの兵の指揮権を、どこの馬骨とも知れんお前に──」
「それだけではない」
ラザールの言葉が、商人の反論を冷酷に遮る。
「遠征のための軍馬を千、それからお前たちが輸送用に飼い慣らしている巨鳥『グー』を、すべて私に差し出せ」
「グーだと!?」
これには、これまで静観していた老商人までもが色をなした。
グー。それは馬よりも一回り小さく、太い脚と強靭な爪を持つ巨大な鳥だ。
本来気性の荒い動物だが、卵から孵化させ人の手で育てると従順、かつ、馬の走れない険しい崖道や悪路を平然と駆け抜ける貴重な輸送手段になる。
ライラが大陸中の流通を支配できているのは、このグーによる高速輸送網によるところが大きい。
「馬鹿を言うな! あれを戦に駆り出すなど、どれほどの損失になるか分かっているのか!」
「ジェイシス帝国にすべてを奪われ、首に縄をかけられるよりも大きな損失か?」
ラザールは冷たく言い放った。
「選べ、商人諸君。全財産を奪われて無惨に死ぬか、あるいは私の手駒となって生き残るか……見返りに、ジェイシス帝国の兵一万二千は私が尽く追い返してやろう。さらに、これより先、この私が『ライラ国軍』を編成し、この国を守ってやろう。お前たちはこれまで通り存分に稼ぐといい」
悪魔の契約だった。
彼らにはもう、他に選べる選択肢など残されていないのだ。ジェイシスの軍勢はすぐそこに迫っており、目の前には、自分たちの命をいつでも奪える怪物が座っているのだから。
長く息苦しい沈黙。
やがて、老商人が震える手で、机の中央に置かれた立派な木箱から一つの割符を取り出し、ラザールに差し出した。
「……それが、ライラが雇う傭兵組合を動かすための割符だ。私兵は追って引き渡す。グーは必要数を揃えよう」
「賢明な判断だ」
ラザールはそれを手に取り、立ち上がった。
用は済んだ。シナとクライブを伴い、扉へと向かう。
その時、壁際でずっと黙っていた金髪の女護衛が、背負っていた戦斧の柄を鳴らし、一歩前に出た。
「おーおー、大層な大口を叩くじゃねぇか、おとぎ話の主人公」
レティシアの不敵な笑みに、クライブがわずかに目を見開く。
「おい、お前……状況わかってんのか?」
「あ? ヒゲちょこは黙ってろよ。あたしはそこの坊主に言ってんのさ」
珍しくクライブが口先で敗れる。
「一万二千を、たった六千で追い返すんだろ? 面白そうじゃねぇか。あたしも混ぜろよ。このじぃさんたちの退屈な護衛に飽き飽きしてたところなんだわ。たっぷり楽しませてくれるんだよな?」
ラザールは足を止め、振り返ってレティシアを品定めするように見つめる。
その傲岸不遜な態度を気にする様子はない。
(シナの威圧からもう抜け出したのか?)
それからシナに視線を向けると、彼女は何も言わず小さく頷いた。
「腕に自信があるなら、ついてくるといい。お前の居場所を用意してやる」
「へっ、気に入ったよ」
レティシアは満足げに笑った。
◇ ◇ ◇
商館を出て、昼下がりのざわめく街道を歩きながら、クライブが頭を掻きむしった。
「おいおいおい、マジで兵権をひったくっちまったよ。あのごうつく張りどもを完全に黙らせやがった。すげぇよ」
「がはは。なかなか面白い見世物だったよ。狸おやじ共の顔、吹き出すところだったぜ」
「当然だ。あの商人たちは頭の回転が速い。条件を突きつければ正しく選び取るだろう。もっとも、今頃は負けた場合に私の首を差し出し停戦する方法を考えているだろうがね」
「それはそうだろうけどよ……」
クライブは、ラザールが手にした割符を見つめる。
「で、本当にあのデカい鳥ども──グーをどうする気だ? まさか、ただの移動手段にするわけじゃねぇだろ?」
ラザールは前を見据えたまま、薄く笑った。
「あれに乗るのはクライブ、おまえだ」
「……はぁ?」
「クライブ、お前はバザルと合流し、『破筒』を用意するよう伝えろ。それからバザル配下が戻り次第、共にグーの騎乗訓練を始めろ。追って兵を送るので、その者たちにも騎乗させろ。時間が無いぞ」
ラザールの意図を察したのか、クライブの顔から軽薄な笑みが消え、戦慄が走った。
あの轟音をもたらす黒い粉。それを、悪路を苦にせず爆走する巨鳥に積んで戦場を駆け抜けさせる──。
「……ハッ、とんでもねぇ化け物軍隊が出来上がりそうだな。ジェイシスの奴らの泣き面を見るのが今から楽しみだぜ」
続いてラザールはレティシアに声をかける。
「女、名は?」
「あたしはレティシア。レティシア・レノだ」
「家名があるのか。お前は私と共に来い。兵の掌握へ向かう」
「あぁ、組合に行くんだろう? 案内するよ」
シナがラザールに駆け寄り、腕にしがみつくようして顔を見上げる。
「もちろん君もだ、シナ」
銀髪の少女が、嬉しそうに微笑んだ。
ライラが抱える六千の兵と千頭の軍馬、巨鳥グー、そして隠れ里で密かに作成された『黒薬』。
ラザールの頭の中では、既にしっかりとした勝利への道筋が整っていた。
ジェイシス帝国一万二千を迎え撃つは、未だかつてないほど歪で、頼りない烏合の軍勢。
その『ライラ国軍』が、今ここに産声を上げようとしていた。




