第8話
山奥の険しい獣道を越え、結界の如き隘路を抜けると、古くから秘匿され続けた隠れ里が姿を現す。
まだ道に慣れないクライブは、実は迷いながら何とかここまでたどり着いていた。
警戒中の里の者が姿を現したのを見てホッと胸をなでおろし、後ろに続く一団へと声をかける。
「ほら、着いたぜ。みんな、よく頑張ったな」
いくつかの街を周り、密かに買い付けて連れてきた十数名の奴隷たちだった。
皆、長旅への不安とこれまでの過酷な境遇から、泥のように疲れ果て、怯えたように身を寄せ合っている。
「……あの、私たちは、ここで一体何をさせられるのですか?」
一人の奴隷が、恐る恐る震える声で問いかけた。
クライブは無精ひげの生えた口元を緩め、ニカッと不敵に、しかしどこか優しく笑ってみせた。
「何って、普通の暮らしさ。ここはとんでもない山奥だが、暮らすにも働くにも良いところだ。飯もうまい。お偉い貴族さまに殴られることもなけりゃ、奴隷としてまた売られることもない。信じられねぇと思うけどよ、まぁ今日はとりあえず腹一杯食って寝な」
おびえる奴隷たちを引き連れ、里の者たちへと引き合わせていく。
かつてジェイシスの腐敗した権力によって、大切な町娘を救えなかった苦い過去を持つクライブにとって、不遇な環境にある者を助ける仕事は大きな充実感をもたらしていた。それは同時に、自らの魂を救う行為でもあった。
「よく戻った、クライブ。無事で何よりだ。首尾よく奴隷を買い付けられたそうだな」
里で一番立派な屋敷で、クライブはラザールに迎えられた。
まだ二十にも届かない、少し幼さが残る容姿。
しかし、その双眸に宿る冷徹な光と圧倒的な威厳は、誰もが恐れる血塗られた魔王にして、建国の英雄ロートシルト帝そのものだった。
「あぁ、それぞれ担当の者に預けたよ。今はまだおどおどしてるが、そのうち慣れるだろうさ」
クライブは照れ隠しをするように斜に構え、いつもの皮肉げな笑みを浮かべた。
だが、その胸の奥は、自分でも不思議なくらいに主君に認められた喜びで満たされていた。
「それから、これは街の酒場で仕入れた情報なんだけどよ……」
クライブは一転して声を潜め、真剣な面持ちで本題を切り出した。
「ジェイシス帝国による、ライラ自治共和国への侵攻が始まるだろうってな。かなり噂が広がってるようだぜ」
「ジェイシスが?」
「なんでも『ライラ領内で、バンドール男爵家の次男が賊に襲われ、行方不明になった件』が発端だそうだ」
行方不明になったはずの哀れな犠牲者本人が、山奥の隠れ里でその事件について語り合っている。クライブの言葉に、ラザールはふっと冷たい笑みを漏らした。
「ジェイシスはライラに猛抗議したそうだが、ライラ側は未だに犯人を捕らえられず、もちろん行方不明の次男も見つからない。謝罪の姿勢も見せない。だから報復として軍を動かす、ということらしい。……放っておくのかい? 当事者としてよ」
「……そうだな」
ラザールは冷徹に思考の海へと沈んだ。
(ガフノレスが私に機会を与えるような悪手を打つはずがない。となると、目先の利権に目が眩んだ愚かな貴族どもを、奴が抑えきれなかったか……)
そのラザールの推測は、まさにジェイシス帝国の心臓部で起きている現実そのものであった。
◇ ◇ ◇
ジェイシス帝国の帝宮内にある、豪華絢爛な大会議室。
立派な机が部屋の奥から連なり、最奥には皇帝と宰相が鎮座している。その両脇に居並ぶ貴族たちが、一斉に大声を張り上げていた。
「ザザム閣下! ライラに責任を取らせるべきだ!」
「追及の手が緩すぎますぞ!」
「そうだ! バンドール家の若者が行方不明になってから、はや数ヶ月! このまま沈黙を守っていては、我が帝国の威厳が地に落ちる!」
事件発生から数ヶ月。
抗議文を送るばかりで未だそれ以上の動きを見せないガフノレスに向かって、貴族たちが口々に怒号を浴びせていた。
ガフノレスは、彼らの醜い叫びを、冷ややかな瞳で見下していた。
(ライラの利権を欲しがるあまり、目の前の大義名分に飛びついたか……権威の衣を着た、無能な虫けらどもめ)
ガフノレスは騒ぎ立てる貴族たちを静かに何度も嗜めようとしたが、一度膨れ上がった彼らの強欲はもう止まらない。
貴族たちがこれほどまでに増長しているのには、二つの明確な理由があった。
一つは、行方不明となったガルシアの兄・ヴェルナーが、今や帝国騎士団の中で絶大な人気を誇る美丈夫であること。
若く凛々しい騎士が実弟の仇を討つ(あるいは救い出す)という美談に、貴族のみならず国中の民衆が酔いしれ、ジェイシスの世論を完全に出兵へと傾かせていた。
そしてもう一つは、ライラが軍事的にあまりに脆弱であるという事実だ。
ライラ自治共和国は国軍を持たない。実質的な支配者である三名の大商人が、それぞれ私兵として剣奴を養い、傭兵を雇っているだけだ。
それらをすべてかき集めたところで、総兵力は六千人を少し上回る程度だった。
「傭兵や奴隷兵をかき集めたところで、所詮は烏合の衆! 我が帝国騎士団の敵ではありません! 一揉みで潰せましょうぞ!」
貴族たちの傲慢な声が豪華な室内に響く。
ガフノレスは、これ以上彼らを抑えることは政治的な悪手であり、むしろこの無能な者たちを淘汰する好機だと捉えることにした。
愚者どもを使い捨てにし、いまだ居場所が判明しないラザールの出方を窺う機会にしようというのだ。
彼は冷酷に、しかし厳かに告げた。
「……よかろう。ならば騎士団から四千、戦士団から八千。総勢一万二千での出兵を許可する。ただし──」
ガフノレスの陰湿な目が、蛇のように細められる。
「もし、敵に倍する兵力でありながら後れを取るようなことがあれば、出兵を唱えた者たち全員に、その首を以て責任を取ってもらう。……異論はあるまいな?」
ガフノレスが放った冷徹な脅迫。
しかし、目の前の甘い蜜に目が眩んだ名ばかりの貴族たちは、その言葉の本当の恐ろしさに気づきもしない。
「おおお! ついに決断なされたか!」
「我が帝国の威光を示す時が来た! 小賢しい金の亡者どもに今こそ鉄槌を!」
彼らはただ、手に入るであろう富と名声を夢見て、歓喜の声を上げるのだった。
こうして、愚者たちによるライラ侵攻の準備が始まった。
◇ ◇ ◇
「一万二千の無能と、六千の烏合の衆か。ふふ、面白い」
隠れ里の奥。
クライブからの報告、そして独自に放っていた密偵からもたらされる同様の報告を聞いたラザールは、低く笑った。
その笑みは、狂おしいほどの魔王の覇気に満ちていた。
(クライブがどの程度使えるか。試すには丁度いい。どうせ此度の出兵は脅し程度のものだろうからな。派手に表舞台へ躍り出るとしよう)
ラザールは、背後に控えていたシナを近くへ引き寄せ、そしてクライブを正面から見据えて傲然と言い放った。
「ジェイシスがライラに侵攻するならば、戦場は混沌に染まる。シナ、クライブ。この機に乗じて、我々は歴史の表舞台に立つ。我が軍の初陣だ」
シナが無表情のまま、深く頭を垂れる。
「私のすべてを貴方のために」
クライブもまた、ぞくりと背筋に走る興奮を隠せなかった。ヘラヘラとした仮面の下にある、騎士の牙が疼く。
「へへっ……ついに、時が来たか。しかも相手がジェイシス帝国騎士団とはね。存分に働くぜぇ」
その日を境に、里の空気は一変した。
里の住人は一斉にラザールの旅支度を始めた。
用意された馬車に軍資金や選りすぐられた武器、防具が積み込まれていく。
里の周辺は馬車が使えないため、里の入り口付近にある監視員の隠れ家まで、すべて人力で運ばれた。
「クライブ! 何度も言わせないで。力任せに剣を振り回しても意味が無い。盾を有効に使いなさい」
「う、ぐぅっ……! まだだ、もう一本いくぞ!」
里の片隅では、クライブの死に物狂いの猛稽古が昼夜を問わず繰り返されていた。
クライブはかつてアイザックから叩き込まれた剣技を必死に繰り出すが、シナはそれを難なく躱していく。
未熟なクライブを厳しく叱咤しながら、シナは百年に及ぶ自らの戦闘経験を、クライブの身体に力ずくで教え込ませていった。
そしてラザールは、隠れ里の長を呼び出し、淡々と命令を下す。
「ライラで事を起こすに際し、少々人手が必要だ。命を賭せる志願兵を募れ。我らの国の礎となる兵たちをな」
「畏まりました、ロートシルト様。我が一族の命、すべて貴方様に捧げます!」
平伏する里長と志願兵。
牙を研ぐシナとクライブ。
動き出すジェイシス帝国一万二千の軍勢。
僅かな手勢を率い、再び表舞台へ舞い戻ろうとするラザール。
すべての歯車が動き出し、ついに戦乱の世が始まる。




