賢き愚者
ゼーヴェルトを出たルノとメルトは現在、少し曇った空の下で開放的な道を進んでいた。
やがて小さかった庭の草が、紫色の果実の細かな模様まで見えてきた。
同時に、果実に手を伸ばす老齢の女性、クラナタールの妻アリナの姿も見えた。
「アリナさん。こんにちは」
「あら、ルノ君にメルトちゃん。今日も来てくださったんですね」
アリナは穏やかな笑みを浮かべるも、頬に手を当て眉を下げた。
「ただ……申し訳ないのだけどあの人、今日は体調が優れなくて……いつもみたいにお話は出来ないかもしれないわ」
「クラナタールさん、だいじょうぶなの」
ルノが不安そうにアリナを見上げると、アリナはその頭を撫でた。
「大丈夫。少し調子がよくないだけよ」
「ほんと?」
「本当」
アリナがルノを優しく見るのを横目に、メルトはクラナタールの部屋を見る。
閉め切られたカーテンの内側は見えない。
「……じゃあ、今日はお邪魔しない方がいいかな?」
メルトがそう言うと、アリナは首を横に振った。
「いいえ、せっかくここまで歩いてきたんです。お茶でも飲んでいってください。それに、本だけならば家に腐るほどありますよ」
アリナはお茶目にウィンクをしながら家の扉へと手招いた。
◆
家に招かれたルノたちは、慣れたように家のソファに座った。
ハーブの匂いが香る部屋で、ゆったりとした空気は眠気を誘う。
ルノがうとうとと船を漕ぎ始めると、メルトはルノの頭を膝上に乗せた。
そのままルノは寝息を立てて眠ってしまった。
「あら、こんなすぐに眠ってしまうなんて、とっても疲れていたのね……」
「……そうだね」
メルトはルノの寝顔を見ながら、ルノの目にかかる前髪を払う。
トレビオで散髪してから少し伸びたその前髪がパンドラへの道中よりも伸びたように感じ、ルノと過ごした時間が積み重なっているかのように思えた。
「……ねぇ、クラナタールの事なんだけどさ、たった数日なのに会った時よりやつれてない?」
メルトが顔を上げて、椅子に座ったアリナに問いかけた。アリナは果実の皮を剥きながらメルトに耳を傾ける。
「……メルトちゃんは分かっているんですね」
アリナが果実とナイフを机に置くと、コトンと静かな音が部屋に響いた。
紫色の果実からは想像もつかないほどに真っ赤な中身が見えた。
「まーね。老いた人間……というよりは、病気っぽいけど」
「病気……確かに見方を変えれば、病と言えるのかもしれませんね」
アリナは膝に手を重ね、本棚を遠くにある物のように目を細めて見つめた。
しかし、そのまま静かに見つめるだけだ。
「語るつもりはないみたいだけど、察して欲しいって感じ?」
「……そうかもしれないですね。私では、あの人の心を晴らすことが出来ませんでした」
「でも数日間あの人と話す姿を見て、純粋で、あの人の話を楽しそうに聞いてくれるルノ君のような子ならば、あの人の後悔を受け止められるかもと、不甲斐ないですが思ってしまったんです」
「それが、察して欲しいということなのかもしれません」
メルトはアリナの告白を聞きながら、ルノの温かな手を撫でた。
「……確かに、ルノくんならなんとかできるかもね」
メルトがそう小さく呟くと、部屋の扉がゆっくりと音を立てながら開いた。
そこに立っていたのは、少しやつれた様子のクラナタールだった。
目元のシワは深く、肌はやけに青白い。細い腕で壁に触れながら、ゆっくりと足を運んでいる。
「あなた……! どうしたんですか……!」
「……なに、来客の気配に家主が横になっている訳にはいかないだろう」
クラナタールは時間をかけて普段のロッキングチェアに腰を下ろし、そのまま深く息を吐いた。
「……とは言っても、私に出来ることはあまりない。そのうえ、その出来ることすらルノ君が寝ているのならば意味が無い」
眠っているルノを見つめながら、クラナタールは背もたれに体重を預けた。
「あなた、あまり無理なさらないで横になっては……」
「座っていれば大丈夫だ……心配するな。自分の事は分かっているよ」
クラナタールは微笑むが、すぐに咳き込んでしまった。
メルトがそんなクラナタールの様子を真っ直ぐに見ていると、ルノが目を擦りながら起き上がった。
「あれ、ルノくん起きるの? 全然寝てないけど……どうしたの?」
「……クラナタールさんの声がしたから」
「聞かなきゃいけないことがあって……」
ルノはそう言うと、ぼやけた目でクラナタールの顔を見た。
クラナタールは目を細めると、静かに髭を撫でた。
「……ふむ、そうか。なんでも聞くといい。ただ、私と君だけで話そうか」
「すまないが、二人とも、少しだけでいい。ルノ君と話をしたい」
クラナタールがアリナとメルトを見ると、アリナは特に何かを言うこともなく頷いた。
「そ、うちもいいよ」
メルトもあっさり了承すると、アリナに連れられ部屋を出ていった。
そうして一段と静かに、そして重い空気となった室内で、クラナタールはルノの瞳の奥を覗き込むように座り直した。
「……それで、聞きたいこととは何かな?」
クラナタールが問いかけると、ルノはメモを取りだし機械的に捲った。
禁書内でルノが感じたものは字として残ってはいない。しかし、実はルノがひとつ、禁書庫を出てからゼーヴェルトの外で書き記したメモがあった。
「クラナタールさんは禁書庫に入ったことがあるの?」
『あれ、君あの傲慢君と知り合い? へー! 傲慢君は今も塔を研究してるのかな?』
禁書自体の内容ではない、ナビの漏らした言葉だ。
ナビによれば、クラナタールは禁書を閲覧せずに帰った。ルノは、それがクラナタールの生きる目的に繋がる重要な要素なのではないかと考えたのだった。
ナビによって気まぐれに残された「生きる目的」への熱は、冷えきらずに燻っていた。
ルノの純粋な熱を真っ向から受け止めると、クラナタールは静かに唸った。
「……違和感の正体に確信が持てた。ルノ君、君はあそこに行ったのだね」
何もかもお見通しといったように、クラナタールは瞬いた。
「じゃあ、やっぱりあそこに書いてあった『クラナタール・リパース』って……」
クラナタールはすぐに頷いた。その表情に変化は見えず、その出来事に価値を感じていないといった様子だった。
ルノはそれを見て、日記のページの端をぎゅっと握った。
「……なんで、なんで何も見なかったの。知りたくなかったの。そんなの変だよ」
ルノは苦しそうに顔を歪める。
クラナタールはそれでも変わらない。
ただ、背もたれに深くよりかかりながら、ルノの目をただ見つめている。
「なるほど、君は矛盾にも合理的理由があると考えているね?」
クラナタールがふっと笑った。
乾いているようでいて、気持ちのこもった低く重たい言葉だった。
「その通りだ。矛盾は何もおかしくない。矛盾こそ人を人たらしめる」
「矛盾はおかしくない……?」
クラナタールはルノの日記に書かれたたくさんの文字を見つめながら、ロッキングチェアを揺らした。
「そう。おそらく君は賢すぎるあまりに、どんなものにも合理的な、自分の納得できる理由があると思い込んでいるのだろう」
「でもね。人というものはね……そう上手く出来ていないんだ……どんなに正しいと分かっていても、どんなに間違っていると分かっていても、それを心が受け入れる事が出来ないことが多々ある」
クラナタールは窓の外を見た。
ルノがこの家で度々見る動きだ。
天を貫くバベルの塔。クラナタールの目線はいつもそこへと向けられていた。
「……その最たる例が私なんだ。こう言ってはなんだが、私の愚かさを肯定するための屁理屈のようなものに感じるかもしれない」
「そんな空想の愚者である私だが、君が禁書庫で何に触れて何を見たのかは知らなくとも、これだけは言っておかなければならない」
「だからこそ、私は物語が好きなんだ。ってね」
ルノは熱のこもった言葉の全てを噛み締めていた。口で転がして、舌で撫ぜ、喉元を通り過ぎる熱さを脳裏に焼き付けた。
その言葉はゼーヴェルトでのルノ自身行動を振り返るための糸口となった。
「……ぼく、禁書庫に入っちゃった」
「そうだね」
「入っちゃダメだったのに、メルトさんが近づいちゃダメだって言ってたのに」
「うん」
ルノは声を震わせ、汗の滲む手をさらに強く握りしめる。手の甲にぽつぽつと水が垂れた。
そんなルノが思わずこぼした懺悔にも、クラナタールは優しく相槌を打つ。
「ぼくは、ぼくがおかしいのかもって思った」
「そんなことないさ」
「アーヴァンスさんも、吸血鬼狩りのボスも、全部いつか分かるって思ってた」
「誰かを理解するということは、とても難しいことだ」
吸った息よりも言葉が吐かれる。
腹の底の空気が尽きるまで、とめどなく吐き続けた。
それは、ルノが等身大の子供として過ごす珍しい時間だった。
◆
泣き疲れて再び眠ってしまったルノを見て、クラナタールは深く咳き込んだ。
「ごほっ……よく耐えたぞ。私の体」
口を押えた左手には赤黒い血がべったりと付着していた。
クラナタールが部屋の扉に右手をかざすと扉がひとりでに開いた。
同時に指先から綺麗な透明の体をした小さな鳥形を三羽生み出し、部屋の外へと飛ばした。
「…………あとはエピローグだ。これ以上の蛇足は必要ないだろう」
一人呟くと、クラナタールはまた、窓の外を見つめるのだった。




