藤原雛は半空で身をひるがえし、素早く体勢を立て直した。
その胸元には、なおも先ほどの一撃の余震が残っている。
藤原雛は超量鎧甲――雷衣を身にまとっていた。
そのため、雷元素による攻撃を受けても、その大半の威力を相殺することができる。
鎧の表層には焦げ跡と灼きついた紋様が無数に走っていたが、それでもなお、防御構造は少しも損なわれてはいなかった。
彼女は素早く呼吸を整え、指先で腰の長刀にそっと触れる。
細められた眼差しはまっすぐ前方を射抜き、その思考は先ほど自らが感じ取った魔法の痕跡を高速で辿っていた。
あの吸収できなかった雷撃が、彼女に一瞬で異常の所在を悟らせた。
雷撃の縁には、ごく薄い風元素の気流が、かすかに渦巻いていたのである。
その気流は、まるで薄膜のように雷元素と「萬象奔雷」との共鳴を遮断していた。
そして、それを成し得るのは、桑德が手にする武器――超量武器・五重扇にほかならなかった。
五重扇は、単なる攻撃武器ではない。
それは魔法導引装置としての性質も併せ持っており、その最大の特異性は、異なる属性の魔法を同時に重ねて付与できる点にあった。
先ほどの雷撃にも、すでに第一重の魔法が加えられていた。
――「葉風」。
それ自体は四階風元素魔法にすぎず、本質的には気流を生み出すだけの術である。
だが、他の元素と組み合わされた時、それは驚異的な「干渉効果」を発揮するのだった。
藤原雛は悟った。
もはや、吸収による防御だけでは、この戦いには対処できない。
桑德の攻撃は、ただ激烈なだけではなかった。
そこには緻密な戦略と、幾重にも重なる変化が織り込まれていた。
彼女は両手で刀を握り、長刀「萬象奔雷」を胸前に掲げる。
雷光は刃に沿って流れ、その周囲には雷紋が波紋のように宙へ広がっていった。
それはまるで、風と雷が刀身の上でひとつの形を成しつつあるかのようだった。
だが、桑德は彼女にそれ以上考える猶予を与えなかった。
彼はふたたび手中の五重扇を振るう。
すると今度は、その扇の上に第三重の魔法光紋が浮かび上がった。
六階魔法・虚水。
それと同時に、彼の妖力が激しく脈打ち、火と雷が絡み合いながら一気に炸裂する。
炎雷五式・幻雷・月火。
「虚水」は、水元素を透明へと変え、感知も予測も困難にする魔法だった。
本来は潜行や待ち伏せのために使われる術にすぎない。
だが今、それは桑德の卓越した技量によって、幻雷と完璧に結びつけられていた。
幻雷は飛翔の最中に、火と雷の二属性のあいだを絶えず切り替えながら変化していく。
そして着弾した後には、体内と体表の双方に、灼熱の焼痕のような「月火痕」を残す。
さらに、「虚水」の透明性によって、雷撃が辿る軌道は完全に消え失せていた。
そのため、この一連の攻撃は、もはや常識では読み切れぬほど変幻自在なものとなっていた。
空一面は、青白い雷光と火紋によって、蜘蛛の巣のような殺陣へと変わる。
その中を、幻雷はまるで流星のような速さで、藤原雛へ向かって次々(つぎつぎ)と撃ち放たれていった。
これほどまでに変化に富み、なおかつ捉え難い攻撃を前にして、もし相手が他の誰かであったなら、もはや回避する術はなかっただろう。
虚水の透明な軌跡は雷と火から輪郭を奪い、幻雷の変属性はその一撃ごとに欺瞞を宿らせる。
それはもはや、「見えるか」「反応できるか」という段階の話ではなかった。
そもそも、その軌道自体を理解することが不可能に近かったのである。
だが、桑德の攻勢が全面的に炸裂した、そのまさに瞬間――
雛は、極限まで研ぎ澄まされた集中力を見せた。
彼女は少しも慌てることなく、桑德の技の組み立てと出手の法則を冷静に読み解いていく。
その意識は、水面のように静かで、揺るぎがなかった。
彼女の眼に映る雷光は、もはや混沌とした乱流ではない。
それは一本ずつ明確な軌線へと分解され、彼女の中で整然と並び始めていた。
ぱっ、ぱっ、ぱっ――!
雛の足下で、三度にわたって雷鳴が炸ぜた。
その身は空中に三筋の瞬閃の残影を刻み、常理を逸した軌道で戦場を駆け抜ける。
第一閃。
彼女は二条の幻雷の隙間へ、寸分違わず身を滑り込ませた。
第二閃。
虚水によって隠されていた雷刃を、彼女は正確に斬り裂く。
第三閃。
刀背による一回転の打撃で、火紋をまとった回旋する雷撃を、その軌道ごと弾き逸らした。
「萬象奔雷」は、彼女の手中でまるで潮流のように流れていた。
刀刃が雷柱を裂く時、雷光は刃に沿って導かれ、そのまま細かな閃光の破片へと砕け散っていく。
また、刀背が炎を受け止めた時には、火元素は長刀に刻まれた雷紋へ吸い上げられ、脇へと逸らされたのち、半空で赤い火花となって爆ぜた。
桑德の攻撃は、たしかに空を埋め尽くしていた。
それにもかかわらず、そのすべてはまるで最初から彼女に見抜かれていたかのように、一つずつ確実に崩されていった。
雛は、幻雷が幾重にも絡みつくそのただ中を縫うように駆け抜ける。
周囲はどこを見ても死角で満ちているはずだった。
それでも彼女は、一歩ごとに、ただ一つだけ残された「生路」を正確に踏み抜いていた。
そして最後の雷撃が眼前へ迫った瞬間、彼女は手首をひるがえした。
刀刃は、まるで屈折光のように歪んだ光紋を引きながら一閃する。
嗡――!
雷撃は斬り裂かれ、火焔は反衝によって崩壊した。
そしてそれらは二筋の対称的な弧光となって、雛の身体の両脇をかすめるように走り抜けていった。
これこそが、藤原雛の権能――「無幻」である。
万象を見通し、幻を拭い去り、複雑に絡み合うすべての軌跡を「真実」へと還元する力。
「無幻」の視界の中では――
虚水の透明膜は剝がされ、
幻雷の属性変化もまた、ひとつ残らず明瞭に分解される。
あらゆる攻撃は、まるで「低速分解」でもされているかのように、克明な姿をさらしていた。
――藤原雛の権能の前では、いかなる隠された攻撃も意味を持たない。
虚水も、幻雷も、複属性の重ね掛けも――彼女の眼には、ただの「線」でしかなかった。
だが、桑德の次撃は、一瞬の停滞すらなく襲いかかってきた。
五重扇の第五層に刻まれた魔法紋が、突如として眩く灯る。
八階魔法・天雷。
その瞬間、天は重く沈み込んだ。
まるで墨を流し込まれたかのように、空は一気に暗く染まっていく。
雲層は怒涛のごとく激しく渦巻き、一条、二条、さらに幾筋もの雷柱が、前触れもなく垂直に落ちてきた。
その狙いは、藤原雛が身を置く行動範囲すべてである。
轟音が天穹を打ち砕いた。
天際の果てまで雷光が奔り、あらゆる景色は白光に呑み込まれる。
雛の視界もまた、その激烈な閃光によって真っ白に灼き払われた。
彼女は手中の「萬象奔雷」を掲げ、次々(つぎつぎ)と降り注ぐ雷撃を吸収していく。
だが、その防御の一瞬――
桑德の姿が、ふいに消えた。
雷光の奔流の中で、彼は影のように掠め走る。
その足取りは、信じがたいほど短い間隔で空気を蹴り、
鳴り響く雷鳴の一音一音が、そのまま彼の軌道変化の響きとなっていた。
五重扇はすでに収められている。
その代わりに、彼の両掌の間には、雷と火が融合した球体が凝縮されていた。
はじめ、その色は赤紅に燃えていた。
だが次の瞬間、炎は幾重にも内側へと圧縮され、色彩は深紫へと変わっていく。
それはまるで、極限まで圧し込まれ、今にも崩壊しそうな火炎の星核のようだった。
その周囲では、空気そのものが過剰な圧力によって捻じ曲げられ、肉眼でも判別できるほどの光の屈折が生じていた。
――炎雷六式・疾雷・業火。
この技は、炎雷第一式を基礎として昇華させた上位形態であった。
雷電はあくまでも外殻にすぎない。
真の殺意は、その内奥で絶えず圧縮され続ける業火そのものにあった。
雷鳴が炸裂したその瞬間、桑德の姿は一条の紫電と化し、轟然と雛へ迫った。
その攻撃速度は、対応するはずの魔力波動をはるかに上回っていた。
あまりにも速く、事前に軌道を読み取ることはほとんど不可能に近い。
雛は「天雷」へ対処するため、防御へ意識を割かざるを得なかった。
そのため、わずかではあっても、確かに隙が生じていた。
ほんの一瞬の綻び――
だが、桑德はそれを寸分違わず見抜いていた。
轟————————!!!
拳撃が振り下ろされた刹那、衝撃波は黒い環のように外側へと爆発的に広がり、上空の雲層までも打ち砕いた。
雷衣は、こうした純粋な物理的破壊力と魔力が融合した拳撃を、完全には受け止めきれなかった。
鎧甲は衝突と同時に砕け散り、その破片は雷光の中へ四散する。
それはまるで、吹き散らされた金属の流星群のようだった。
飛び散る一片ごとに、高熱で焼かれた焦黒の弧線が生々(なまなま)しく刻まれている。
雛の身体は、その拳圧によって一気に吹き飛ばされた。
空中を高速で弾き飛ばされるその軌跡は、白い尾痕となって長く引き延ばされる。
胸部へ叩き込まれたその凄まじい衝撃は、胸を深く陥没させるかのような重さを伴い、彼女から呼吸すら奪いかけた。
雛は数十メートルも先へ吹き飛ばされ、幾重もの気流を突き破りながら、雲層の下へと叩き込まれる。
その勢いに雲霧は大きく抉り裂かれ、白い波濤のような霧潮が四方へ激しく押し広げられていった。
まるで天空そのものに、垂直に断ち切られた巨大な断層が穿たれたかのようだった。
神酒時樂の全身を包む妖気が激しく震え始めた。
それはまるで潮汐が幾重にも押し寄せるかのように空気の中へと広がり、その気場は一瞬にして劇的な変化を見せた。
彼の権能――「分霊」が、体内から全面的に解放される。
すると、彼の魂の根源は八つの環状光弧へと裂け分かれ、その一つ一つが独立した元素波動を帯びていた。
その光弧は次第に凝縮し、やがて八体の分身へと形を成していく。
その姿形は本体と寸分違わず、立ち姿も、構えも、放たれる気配までもが瓜二つだった。
それらは戦場の周囲へ散るように現れ、それぞれが独自の位置を占める。
そして、何より見る者を震撼させたのは――
そのどの分身も、気配にまったく揺らぎを見せなかったことだった。
霊圧も、気質も、魔力量も、一切衰えていない。
それはほとんど、本尊と完全に同等と呼んで差し支えないほどだった。
その瞬間、戦況は「四対一」から「四対八」へと一気に覆された。
この技をここまで極限的に行使できるのは、猫又之王たる時樂だけである。
なぜなら、分身を一体生み出すごとに、彼は自らの魂を一部切り離さねばならず、その代償として一種の元素の支配権を失うからだ。
たしかに、それは理論上、本体の戦力を分散させる行為にほかならない。
だが、それでもなお、それぞれの分身は本体と同等の戦闘能力と精密さを維持していた。
ゆえに実戦においては、この権能はほとんど圧倒的と呼ぶほかない集団戦の優位を生み出すのである。
天照大神と月読の眼差しは、同時に鋭さを増した。
――二柱とも、神酒時樂を抑え込むには、全力を尽くすほかないことを理解していた。
先に動いたのは、天照大神である。
彼女は指先で静かに印訣を結び、術式を発動させた。
八階魔法――五炎陣。
たちまち、五面の朱紅色の神鼓が空中へ浮かび上がる。
それぞれの鼓は異なる角度でゆるやかに回転し、その鼓面には無数の呪文が刻まれていた。
鼓と鼓のあいだを炎が流れ渡り、その灼熱によって周囲の空気さえもゆらりと歪んでいく。
――どんっ!
天照大神が第一の神鼓を打ち鳴らした瞬間、炎は轟然と炸裂した。
その中から、赤紅の火焔をまとった無数の苦無が、爆風を伴って一斉に射ち出される。
一本ごとに長い火尾を引き、その軌跡はまるで流星が天空を裂いて墜ちてくるかのようだった。
だが、それらが命中する寸前――
天より突如として、銀白色の雷光が炸ぜた。
八階魔法――天雷!
時樂の分身の一体が掌を天へ掲げるや否や、雲層は瞬時に裂け開き、幾筋もの雷柱が神罰のように降り落ちた。
それらは正確に火焔苦無へ直撃し、雷と火は真正面から激突する。
爆音があたり一帯を震わせ、火焔苦無の攻撃はことごとく打ち払われた。
しかし、天照大神は少しも意外そうな様子を見せなかった。
彼女はすぐさま第二の神鼓へと手を伸ばす。
どん――どんっ――!
今度、鼓面から放たれたのは苦無ではなかった。
それは数えきれぬほどの火羽箭――幾百、幾千もの炎の矢であった。
その矢身は羽のように薄くしなやかで、尾部には炎の羽翼が揺らめいている。
その羽翼は振動するたび火花を散らし、一本ごとの軌道を瞬間的に揺らがせていた。
まるで生きた蛇が虚空を縫って進むかのように、火羽箭は不規則に穿ち進む。
その速度はきわめて速く、しかも貫通力にも優れていた。
さらに、命中した瞬間には小規模ながら爆燃を引き起こす性質まで備えていた。
だが、時樂の別の分身は、ただ静かに片手を持ち上げただけだった。
八階魔法――二重狂風。
その瞬間、風圧は二層の巨大な壁となって一気に展開した。
第一層の風壁は、飛び来る矢の軌道を真正面から捻じ曲げ、すべてを逸らしていく。
続く第二層の風壁は、空中で渦を巻きながら圧縮され、高圧の旋渦へと変わった。
それはまるで、万物を呑み込む空洞のようだった。
火羽箭は一本、また一本とその渦へ引き寄せられ、軌道を歪められ、ついにはすべてが抗う間もなく旋渦の中心へ吸い込まれていった。
そして次の瞬間――
火光と風刃は渦の中心で激しく炸裂し、無数の灼けた残光の破片となって空へ散った。
だが、それらはなお吹き荒れる風圧に呑まれ、最後には痕跡ひとつ残さず掻き消されてしまう。
天照大神が二度にわたって神鼓を打ち鳴らし放った烈焔の攻勢は、神酒時樂の分身たちの連携によって、あまりにもあっさりと封じられた。
しかし、この二波の攻撃の目的は、もとより敵を傷つけることそのものではなかった。
それは、あくまで次なる行動のための布石にすぎなかったのである。
火光が消え去った、その瞬間。
月読は静かに左手を持ち上げた。
その指先に支えられていたのは、一振りの古雅なる銀白色の横笛であった。
笛身は淡い銀の光を帯び、まるで月光の中からそのまま姿を現したかのように静かに輝いている。
それこそが、歴代の月読之神に受け継がれてきた伝承神器――無夜月光であった。
おん――
笛音が鳴り響いた瞬間、それまで空間を満たしていた荒ぶる魔力は、まるで一斉に鎮められたかのように静穏さと規律を取り戻した。
その様は、月光が湖面をなでるように降り注ぎ、波立っていた水面を穏かに整えていくかのようだった。
「無夜月光」は、きわめて高い魔力導引性を持つだけではない。
月読がそれを奏でる間、特定の魔法を絶え間なく行使する場合であっても、いっさいの詠唱も術式展開も必要としないのである。
笛音の律動に合わせるようにして、月読の足下には銀白色の月輪が静かに広がった。
八階魔法――「月光昇華」。
その月輪は、まるで満月がゆるやかに昇っていくかのように光を重ねながら広がり、その幾重もの光暈が彼女の全身を包み込んでいく。
銀の輝きは髪の一本一本に沿って流れ、体外へ放たれる魔力は一気に跳ね上がった。
その高密度の圧力に、周囲の空間さえ圧し潰されるように震え始める。
だが、月読はそこに一瞬たりとも留まらなかった。
笛音の調べは直ちに転じ、静謐な月夜の響きは、いつしか風すら存在しない絶対的な静寂へと変わっていく。
本来ならば白昼であるはずの空に、しかしその時、黒き月影が半空にゆっくりと形を成し始めた。
八階束縛魔法――「沈黙の月神」。
黒月が顕現したその刹那、天と地のあいだにあったあらゆる音が、まるで根こそぎ抜き取られたかのように消え去った。
漆黒の陰影は八条の光柱へと姿を変え、時樂の八体の分身と本体を、寸分の狂いもなく貫くように封じ込める。
嗡――!!
重く淀んだ黒霧は戦場を呑み込むように押し広がり、時樂の周囲の空間は強制的に閉鎖された。
そこでは、音も、元素も、気流も、すべてが深い闇の底へ沈められていく。
時樂の分身たちの動きは、目に見えて鈍った。
それまで鮮烈に輝いていた元素の光は急速に沈滞し、明るさを失っていく。
水気も、雷光も、火焔も、その波動を半空に閉じ込められたかのように、まるで凍りついたように停止していた。
それは、相手の特性を見極めたうえで組み上げられた束縛魔法であった。
この拘束を受けた時樂は、分身と本体とを結ぶ同期周波の繋がりを強制的に断たれ、八体の分身はすべて「遅延」と「阻滞」の状態へと陥っていた。
神酒時樂への制圧に成功したことで、戦場の士気は一気に高揚し、隊列はふたたび安定を取り戻した。
乱れかけていた戦線も、この瞬間に再び立て直される。
そして天照大神は、そのわずかな隙を逃さなかった。
彼女は間髪を入れず、第三の神鼓を立て続けに打ち鳴らす。
どん――どん――どん――!!!
八階魔法――「灼炎」。
次の瞬間、千を超える火焔の旋渦が雲層より急降下した。
その一本一本は、龍の姿を思わせる火柱のようにうねりながら落下し、長い火渦の尾流を曳いている。
その光景は、まるで天が裂け、そこから火焔の豪雨が降り注いでいるかのようだった。
月読の束縛が完全に破られる前に、少しでも神酒時樂の分身の数を削り取る。
それが、この攻撃の狙いであった。
だが、その時――
異変は唐突に訪れた。
黒霧の奥から、低く沈んだ鈴音がひとつ響いた。
その音色は柔らかく静かなものでありながら、同時に精神の深部を刺し貫くような浸透力を帯びていた。
それは、まるで魂の奥底へ直接触れてくるような、深層的な精神共鳴にも似ていた。
そして次の瞬間、拘束されていた分身たちの体内からも、次々(つぎつぎ)と同じ鈴音が鳴り始める。
その響きは共鳴するように重なり合い、やがて戦場全体へと波紋のように広がっていった。
天照大神と月読は、その鈴音の正体をすぐに悟った。
――それは、神酒家に代々(だいだい)受け継がれてきた神器、「夜貓鈴」である。
この神器は、初代の神より授けられたものだった。
もともとは、かつて九位の大人たちの配下のひとりによって与えられた神器であり、当初は初代貓又之王が所有していた。
しかし、初代貓又之王の死後、貓又一族には長きにわたって、この神器を真に扱える者が現れなかった。
だが今、第十代貓又之王である神酒時樂がいる。
彼こそは、千年を超える時を経て、再びこの神器を使う資格を有する者だった。
夜貓鈴が起動したその瞬間、月読が展開していた「沈黙の月神」には、はっきりと崩壊の兆しが現れ始めた。
黒霧は激しく震動し、魔法陣の表面には細かな亀裂が次々(つぎつぎ)と浮かび上がっていく。
まるで、その鈴音の律動そのものが、束縛の術式構造を内側から蝕んでいるかのようだった。
鈴の響きは、さらに強く、さらに深く戦場へ浸透していく。
そしてついに――
束縛咒式は完全に干渉され、その効力を失った。
黒霧は引き裂かれるように四方へ弾け飛び、空に浮かんでいた月影もまた静かに消滅する。
こうして「沈黙の月神」は、完全なる崩落を迎えた。
そして束縛が解かれると同時に、時樂の本体にも激烈な変化が生じ始める。
漆黒の妖気がその四肢百骸から溢れ出し、彼の体躯は一瞬で膨張した。
手足は長く引き伸ばされ、指先の爪は刃のような黒金色の鋭利な鉤爪へと変わっていく。
さらに、紫黒色の体毛が皮膚の下から噴き出すように伸び広がり、その双眸はゆっくりと金色の縦瞳へと変貌した。
全身を包む妖気は重く沈み、そこには見る者の本能を圧し潰すような、凶暴にして原始的な威圧が満ちていた。
これこそが、夜貓鈴の主たる能力――「獣化」である。
獣化を遂げた時樂は、もはや人の姿をとどめてはいなかった。
その身は巨大な妖猫へと変わり果てていたのである。
全身を覆う体毛のあいだからは、淡い紫の妖焔が絶え間なく瞬き、巨大な鉤爪が地を踏みしめるたび、大地には深い裂痕が刻まれていく。
その巨体が一歩を踏み出すごとに、地面の土塵は気圧に巻き上げられ、まるで土の波がうねるように四方へ押し広がった。
だが、この力には代償がないわけではない。
夜貓鈴による獣化は、術者の精神を激しく侵蝕する。
もし意志にわずかでも揺らぎが生じれば、そのまま暴走へと転じてしまう危険があった。
時樂は本来、「分霊」によって八体の分身を維持していた。
それはすなわち、彼の精神力がきわめて強靭であり、八つに分かれた意識の枝を同時に制御できるほどであったことを意味している。
本来であれば、それこそが彼の誇るべき力だった。
しかし、酒吞童子の妖力汚染を受けたことで、彼の精神はすでに深く引き裂かれていた。
もはや、それほどの高負荷な意識運用に耐えられる状態ではなかったのである。
ゆえに――
獣化が発動したその瞬間、すべての分身は一斉に崩壊した。
分身たちは黒い影のように散り散りにほどけ、その内部に宿っていた魔力は逆流するようにして本体へと還っていく。
同時に、切り離されていた魂の断片もまた、強引にひとつへと収束させられた。
そして最後に、時樂は完全なる妖猫の姿として、その場へ現れた。
四肢を大地へつき、背筋は張り詰めた弓弦のように大きく弓なりに反る。
その金色の瞳には、剥き出しの凶光が揺らめいていた。
次の瞬間――
その妖猫は天を仰ぎ、怒号にも似た咆哮を放った。
その咆哮は空気そのものを打ち砕き、目に見える衝撃波が波紋のように全方位へ広がっていく。
戦場全体はその一声によって激しく震撼し、大地には新たな亀裂が縦横に走った。
立ち込めていた濃霧は一息に吹き飛ばされ、残っていた火焔もまた細かな光の破片となって四散していった。