霊泉曉のもとでは、天照大神と月読の指揮の下、妖怪たちは容易に近づくことができなかった。だが、ある気配が現れた瞬間、その場の空気は一変した。
その時、周囲はまるで異様な妖気に覆い尽くされたかのようだった。
陰虚旗と烈火旗の隊員たちは次々(つぎつぎ)と視線を巡らせて警戒し、天照大神と月読でさえ、その眼差しを険しいものへと変えていた。
その妖気は実体を持つかのように濃密で、まるで無数の猫が一斉に鳴き交わす声のように空気の中へ響き渡っていた。冷やかな圧迫感は、息すら詰まらせそうなほどだった。
ゆるやかな足取りでそこへ歩み寄って来たのは、妖幻島の伝説的な強者――猫又之王・神酒時樂であった。
時樂は足取りも軽く、どこか気怠げな表情を浮かべ、口元にはこの場の空気とはあまりにも不釣り合いな、悠然とした笑みをたたえていた。
しかし、彼が一歩踏み出すたび、地面には淡い波紋が広がり、まるで空気そのものまでもが彼の気配によって液体へと変えられているかのようだった。
その背後では、幾筋もの猫尾がゆるやかに揺れ、半透明の霊気が光と影となって揺らめいていた。それはまるで、水面の下に映る月影のようだった。
それこそが、猫又一族における最古の象徴――霊気によって形作られた尾の幻影であった。
神酒家は祭祀活動においても、きわめて重要な役割を担っており、七葉家と並んで主要祭典の共同執行者とされる、妖幻島でもっとも長い歴史を持ち、なおかつ最も完全な形で伝承を受け継いできた家門の一つである。
祭典全体の主導権は終始、七葉家の手に握られているものの、準備から儀式、そして最後の後始末に至るまで、そのあらゆる段階に神酒家の関与は欠かせない。
七葉家は祈祷と献祭儀式の執行、祝詞の奏上、そして参列者たちの導きを担い、それによって信仰と願いを神々(かみがみ)へ届ける象徴的な役目を果たしている。
一方で、神酒家は儀式全体の「執行と維持」を受け持ち、あらゆる礼法と手順が古制に従って寸分違わず行われるよう、厳格に支えていた。
彼らは祭品の準備、場の浄化、供卓の配置と順序を司り、さらに儀式の最中には祭壇の秩序を保つ役目も担っている。
正式な祭典が執り行われる際には、神酒家の者たちは副祭官として七葉家の主祭官の傍らに立ち、儀式の細部や聖物の受け渡しといった手順を補佐する。
そして祭典の終了後には、祭具の片付け、祈願内容の記録、祭文の封存までを担い、最後には一族の長老が「終祓」を執り行う。
浄符と焚香をもって祭儀全体を締めくくり、そこに込められたすべての願力を、静かに天地へと還していくのである。
族中最強の者として、神酒時樂の実力は誰もが知っていた。――なぜなら、彼はかつて、ただ一人の力で先代の天照大神と月読を打ち破ったことがあるからだ。その力の恐ろしさを、軽んじられる者は一人としていなかった。
だが、神に比肩し得るほどの力を持ちながらも、彼はついに『神の権能』に認められることはなかった。
その欠けた一角は、ひび割れのように永遠に彼の内に在り続けていた。――それが魂であれ、あるいは運命のどこかであれ、そこには「許されなかった」欠落が確かに存在していた。
時樂本人はそのことについて何も語らず、世の人々(ひとびと)もまた、その「欠失の因」をついに解き明かすことはできなかった。
そして今、彼と対峙しているのは、六旗部隊における一組の相棒――烈火旗の真田延司と、陰虚旗の莞原日和であった。
二人は長年にわたり共に戦ってきたため、その連携はすでに言葉を必要としない域に達していた。わずかな視線の交錯だけで、互いの考えを確かめることができた。
神酒時樂という強大な敵を前にして、その場の空気には張り詰めた圧迫感が満ちていた。まるで、そのまま凝り固まってしまいそうなほどであった。
先に動いたのは延司だった。
彼の魔力が周囲へ広がり、六道の火紋がその身に浮かび上がる。烈炎は鎖環のように四肢へ巻きつき、激しくうねり始めた。
右足を強く踏み込んだ瞬間、陣紋が地面の上で爆ぜ散る。
八階魔法――烈火陣壁!
灼熱の火壁が地を裂くように立ち上がり、荒れ狂う炎が幾重にも折り重なって築き上げられていく。空間全体はたちまち橙赤色に染め上げられた。
だが、時樂は表情ひとつ変えなかった。
その程度の攻撃は、彼にとって意にも介さぬものらしかった。
彼はゆるやかに掌を持ち上げる。すると次の瞬間、水気がその手中に一気に凝縮した。
それは単なる水元素魔法ではなかった。妖力を帯びた流れが渦を巻き、透き通ったその内側には青い光が妖しく揺らめいていた。
八階魔法――流水鎖渦!
渦潮はたちまち螺旋の巨環へと変わり、火壁へ正面から激突した。その瞬間、まるで玻璃が砕け散るかのような、高周波の鋭い破裂音が響き渡った。
同じく八階魔法ではあったものの、魔法としての強度は明らかに延司のほうが劣っていた。ゆえに、時樂の一撃は相手の術式をたやすく押し潰せるはずだった。
しかし、時樂はすぐに異変へ気づいた。
延司の炎は打ち砕かれるどころか、かえって幽紫色の火紋を浮かび上がらせ、水の力そのものを喰らい尽くそうとしていた。
その時、時樂はようやく、あの火壁に別の魔法が重ねて施されていたことに気づいた。
日和は延司の背後から一歩前へ出ると、その掌に闇元素の力を咲かせた。
八階融合魔法――陰火・三重印刻。
つまり、延司が烈火壁壘を展開したその瞬間、日和もまた同時に三種の闇元素魔法陣を発動していたのだ。
二つの力は互いに溶け合い、幾重にも重なり合う多重防御を形作っていた。
だが、それでも時樂はなお意に介した様子を見せなかった。
その掌中で渦巻いていた水流は、次の瞬間、突如として激しく震動し始める。
渦は一瞬で幾筋もの激流へと崩れ変わり、その水圧は彼の指先へと集束し、極限まで圧縮された。
あまりの圧力の高さに、空気そのものが鋭い悲鳴のような音を発する。
「ざあぁ――」
水気は彼の妖力によって無理やり固体へと圧し固められ、幾本もの回転する水の螺柱へと変貌した。
その一本ごとに、鋼鉄すら貫くに足る破壊力が宿っていた。
それらは凄まじい速度で射ち出され、先端の圧力が空気を切り裂くたび、低く重い轟音が響き渡った。
まるで無数の槍が同時に蒼穹を刺し貫いたかのようだった。
この一撃は、緹雅の「漩絲斷界・裂水嵐」に似ていた。だが、爆発力という点では、緹雅の攻撃のほうが勝っていた。
時樂が極限まで凝縮した水圧の槍には、余分な力の漏出が一切なく、魔力消費にも無駄がなかった。
それは、彼が元素操作をいかに安定して、しかも精密に操っているかを如実に物語っていた。
時樂の圧倒的な攻勢の前に、延司と日和の防御壁壘は、ついにその負荷に耐えきれなくなった。
脆い亀裂音が響き、火焔の障壁はその場で崩れ砕ける。
飛び散った炎は無数の火片と漆黒の残焰となって宙に舞い上がり、暴流に巻き上げられて高空へ呑み込まれていった。
そしてその光景は、まるで砕け散った瑠璃の破片が天空に散乱していくかのようであった。
それと同時に、時樂はその水流に身を乗せ、二人のもとへと一気に迫った。
その姿は、まるで荒波の上を滑るように進む、海の上の滑走者のようでもあった。
次の瞬間、彼は指先から青白い水の剣を瞬時に凝縮させる。
鏡のように透き通ったその刃には、極限まで圧縮された妖力が秘められていた。
剣先が通った軌跡では、空気そのものが剥がされるように切り裂かれ、鮮明な真空の弧線が浮かび上がる。
音は、その光の軌道をわずかに遅れて追いかけてきた。
時樂は少しもためらうことなく、それを一閃した。
水剣はまっすぐに、二人の胸元を貫こうとして放たれる――
ぱしっ――
だが、その一撃が二人へ届こうとした、まさにその刹那、水剣は突如として崩れ去った。
同時に、時樂の手首は、燦然と輝く火光によって強く捕えられる。
「今、あなたの相手は私たちです」
灼熱を帯びながらも威厳に満ちた声が、その場に響き渡った。
そこに立っていたその姿は、ほかでもない天照大神であった。
彼女は燃え立つような紅の神衣をまとい、その瞳には日輪が巡るかのような光が宿っていた。
その全身からは、強烈な神性があふれ出ている。
そして、その見る者すべてを震わせるほどの威圧的な力で、天照大神は時樂の手首を微動だにさせぬほど強く握り締めていた。
延司と日和は、自分たちでは神酒時樂の攻勢を防ぎきれないことを、よく理解していた。
彼らにできることは、ただ時間を稼ぐことだけだった。――神々(かみがみ)のために、ほんの数秒でも準備の猶予を作り出すこと。
次の瞬間、炎が突如として立ち昇った。
それは天照大神の足元から燃え上がり、まるで昇りゆく朝陽のように眩い輝きを放つ。
彼女の長髪は烈火の中で天へと舞い上がり、衣は流動する光焔へと姿を変えていく。
その全身は、激しく燃え盛る炎に呑み込まれていた。
天照大神の権能――神火。
それは、彼女が受けるあらゆる火属性の損傷を本来の五分の一にまで抑える力であった。
それだけでなく、水元素によって形作られた攻撃であっても、その威力は神火によって半分まで中和される。
そして、天照大神に続くように、月読もまた前へと進み出た。
その身は、まるで夜そのものを凝縮したかのような闇に包まれていた。
彼女は両手の指を交差させ、その周囲には銀白色の月印が幾つも浮かび上がる。
それは夜空に浮かぶ月輪のように静かに輝きながら、ひとつずつ四肢と眉間へと刻まれていった。
闇元素は空気の中で急速に集積し始める。
それはまるで夜の帳が広がっていくかのようであり、神火によって照らし出された天との間に、鮮烈な対比を描き出していた。
月読の権能――月化夜華。
それは、彼女が九階以下の闇元素魔法を使う際、消費する魔力を本来の十分の一にまで抑える加護であった。
天照大神と月読の権能は、たしかに強大であった。だが、それは決して気軽に振るえるものではなかった。
そもそも「権能」とは、本来、個として生まれながらに備わった才である。
そして「神の権能」は、それよりもなお特別なものだった。
それを扱うには、単に資質があるだけでは足りない。
その力に適合する魂を持っていなければならなかった。
「神の権能」を行使する時、精神は極限まで研ぎ澄まされなければならず、体力も魔力も、ほとんど余すことなくそこへ注ぎ込まれる。
たとえば月読の権能である「月化夜華」は、闇元素の力を行使する際、魔力消費を大幅に減らす加護をもたらす。
だが、その状態を維持するためには、自身の魂を月の律動と完全に同調させなければならない。
そうでなければ、権能を完璧な形で発揮することはできなかった。
天照大神の権能もまた、同様である。
彼女が高度に集中してその力を巡らせている間、周囲に漂う魔力は自動的に烈火に呑まれ、浄化されていく。
そのため、彼女はほとんど他の元素を同時に操ることができない。
そればかりか、傍にいる仲間に彼女と近しい水準の力がなければ、その炎に拒まれ、連携して戦うことすら難しくなる。
もしその状態を長時間にわたって維持すれば、周囲に対して無意味なエネルギー消耗を引き起こすことにもなりかねない。
ゆえに、彼女たちは自らの権能を封印する道を選んだ。
真に必要な時にのみ、儀式魔法を通して自らの魂と呼応させ、その眠れる力を呼び覚ます。
――そして今が、まさにその時であった。
神々(かみがみ)の真の姿を前にしても、時樂には微塵たりとも動揺が見えなかった。
おそらくは精神状態が制御されているためだろう。彼の内には、「畏怖」と呼ぶべき感情が存在していなかった。
彼はただわずかに顎を上げ、天照大神の身から燃え上がる神火と、月読の背後に咲き開く黒月を見上げていた。
その双眸に宿る金色の光に映っていたものは、敬意であるのか、それとも闘志であるのか、容易には判別できない気配だった。
次の瞬間、時樂の全身を包む妖気が、突如として荒々(あらあら)しくうねり始めた。
それはまるで、深海の底から押し寄せる大浪が戦場全体を呑み込もうとするかのようだった。
もともとは霧のように柔らかく漂っていたその気配も、いまや瞬時に凝縮し、確かな質量を帯びたものへと変わっていく。
背後に揺れていた猫尾の影も、もはや幻ではなかった。
それらは実体を持つかのように彼の後ろで並び巡り、それぞれの尾が王たる威圧を濃密に放っていた。
空の彼方で、低い唸りにも似た音が響く。
まるで、巨大な妖魂が永い眠りから目覚めたかのようだった。
時樂の瞳孔は獣のような縦の裂け目を持つ形へと変わり、指先からは血の紋を帯びた水気が滲み出る。
衣袍は激しい気流にあおられて大きくはためき、その足元の地面でさえ、彼の妖気に圧しつけられるようにして、幾重もの亀裂を浮かび上がらせていた。