第二卷 第三章 寄り添う心(5/5)
酒吞童子を消滅させた後、私は三姉妹に合図を送り、妲己を緹雅の傍まで運ぶよう示した。
二人ともいくぶん衰弱しているように見えたため、私は急いで治療魔法――生命の息吹を発動した。だが、その効果は思っていたほど顕著ではなかった。
魔法がもたらした副作用は、単なる肉体の苦痛に留まらず、精神や魂の領域にまで及んでいた。
ゆえに、身体の傷だけを癒したところで、それを和らげることはできなかった。
本来であれば、私は転送門を開き、緹雅たちをそのまま弗瑟勒斯へ帰して休ませるつもりだった。
しかし、七葉真が放った魔法――白炎之壁が、まさか転送門すら封鎖してしまっていた。
そのため、私たちは大結界の外まで離脱しなければ、再び転送門を開くことができなかった。
酒吞童子に肉体を奪われたあの瞬間から、
七葉真の魂は、果てのない闇の中へ投げ捨てられていた。
そこには空もなければ、大地もない。
手を伸ばしても、自分の指先すら見えず、
自分が本当にこの空間に存在しているのかどうかさえ、判別できなかった。
彼女は立ち上がろうとした。歩こうともした。
だが、どれほど足を進めても、足元にあるのは変わらぬ虚無ばかりだった。
声を上げようとしたこともあった。
けれど、返ってくるこだまは一つもない。
まるで声さえ、この闇に呑み込まれてしまうかのようだった。
ここには時間がない。
終わりもない。
あるのは、深海のような静寂と冷たさだけ。
それだけが、少しずつ、確実に、彼女を沈めていった。
七葉真は、空疎な虚空の中に身を縮めて座り込んでいた。
両腕で膝を抱え、肩をかすかに震わせながら、
まるで胸の奥から湧き上がってくる恐怖を、必死に押さえ込もうとしているかのようだった。
自分がどれほど長く泣いていたのか、彼女にはもう分からなかった――
時間の存在しないその場所では、涙は果てなく頬を伝い落ちていくだけで、
けっして何ひとつ応えを返してはくれなかった。
彼女は、自分がいったい幾度その身で護り、どれほどの歳月を捧げてきたのか、もう分からなくなっていた。
ただ一つ覚えているのは、その朧げな影だけが、彼女が独りで歩んできた長い記憶の中で、唯一の光だったということ。
けれど今では――彼女は、もう何ひと)つ掴めなかった。
――まさか、すべては徒労でしかなかったのだろうか。
その心がもっとも脆くなっていたとき、闇の奥底から、何かが蠢く気配が伝わってきた。
まるで毒液が骨髄を這うような囁きが、彼女の耳元で何度もまとわりつく。
「お前なんか、誰に必要とされていると思っている?」
「お前は、時代に忘れ去られた、ちっぽけな霊体にすぎない。」
「お前が護ってきた信念など、外の者から見れば、ただの笑い話だ。」
「足掻けば足掻くほど、お前は滑稽になるだけだ。」
七葉真は言い返そうとした。怒声を上げようともした。
だが、口を開いたその瞬間――
彼女は、自分がもはや声すら発することができないのだと知った。
思考は徐々(じょじょ)に濁り、意志は少しずつ侵されていく。
その言葉は、まるで冷たい鎖のように一環ずつ彼女の心へ巻きつき、
その奥にあった確かな強さを砕き、剥がし、
ついには虚しい自己懐疑だけを残していった。
七葉真は膝をいっそう強く抱え込んだ。
それは、失われゆく最後の自分を繋ぎ止めようとするような仕草だった。
だが、闇はなおも一歩、また一歩と彼女を呑み込んでいく――
ついには、希望がどのような形をしていたのかさえ、思い出せなくなっていった。
彼女には、もう抗う力すら残っていなかった。
ただ、それらの声が毒液のように魂の深部へ染み込み、
彼女に残された最後の意志までも、静かに蝕んでいくのを受け入れることしかできなかった。
その時――
一道の声が、果てしない闇の中から静かに広がった。
「……怖いのか?」
その声は柔らかく、穏やかで、かすかな温もりさえ宿していた。
だが、闇に喰い尽くされ、殻だけを残した七葉真にとっては、
その声はむしろ鋭い棘のように、心の最も脆い場所へ真っ直ぐ突き刺さった。
彼女は答えなかった。
ただ、ゆっくりと顔を上げる。
その虚ろな瞳には、もはや焦点すら宿っていない。
まるで「応える」という行為そのものが、すでに彼女にはできないことになってしまったかのようだった。
「怖いのか?」
その優しくも澄んだ声が、再び響いた。
先ほどよりも、さらに近く。
それはまるで、彼女に残された最後の意志へ、そっと触れようとするかのようだった。
「うる……うるさい……」
最初、その声はひどくか細かった。
まるで砂粒が喉の奥を擦るような、掠れた響きだった。
だが、次の瞬間、彼女は完全に崩れ落ちた。
「うるさい!! うるさい、うるさい、うるさいぃぃぃぃぃぃ!!!!!」
七葉真は悲鳴のように叫び、両手で強く耳を塞いだ。
握り締めた指先は白くなるほど力がこもっている。
その身体は強く縮こまり、ひとかたまりになって震えていた。
それはまるで、生存本能の限界にまで追い詰められた者の姿だった。
それは単なる恐怖ではない。
自我が引き裂かれる瞬間に漏れ出た、反射的な絶叫だった。
助けを求める声にすら聞こえなかった。
それはむしろ、
「生きている」ということそのものが痛みに変わり、
もはや耐えられないほどに苦しい――
そんな果てのない挣扎の叫びのようだった。
闇は、まるで彼女に残された最後の理性さえ喰らい尽くそうとしているかのようだった。
だが――彼女が絶望に呑み込まれかけた、その瞬間。
「……顔を上げなさい。」
今度は、その声はもはや単なる声ではなかった。
そこには温もりがあり、重みがあり、さらには意志までもが宿り、闇を貫いて届いてきた。
それはまるで、一つの手が終わりなき夜を隔てて差し伸べられ、
深淵へ沈みかけていた彼女を、そっと引き上げようとしているかのようだった。
七葉真は、はっと身を強張らせた。
震えながら、ゆっくりと顔を上げる。
闇の奥で、いつの間にか、ほのかな柔光が灯っていた――
そして、その光の中から歩み出てきたのは、
彼女が決して見間違えるはずのない、一つの姿だった。
それは、彼女の泣き声を唯一聞いたことのある者。
彼女がただ一人、心の守りを解くことのできた相手。
そして、ともに運命を背負ってきた、かけがえのない親友――
靈泉曉。
靈泉曉は、そっと手を差し伸べ、その指先で七葉真の手の甲に触れた。
その瞬間、触れた場所から、柔らかく温かな霊力が静かに染み込んでいく。
それはまるで、暁光が夜明けとともに果てのない闇を切り裂くようであり、
あるいは、誰かがようやく彼女のために、見えない出口へ灯りをともしてくれたかのようだった。
七葉真は息を呑み、その場で硬直した。
瞳孔は激しく縮み、信じ難いものを見つめるように揺れる。
「曉……? どうして……どうして、ここに……まさか、あなたまで……」
その声は震え、もはや言葉として形を成すことすら難しかった。
目の前にいる存在が、本当に現実なのか、
それともまたしても残酷な幻にすぎないのか――
彼女には確かめることすらできなかった。
だが、靈泉曉はただ静かに首を横に振った。
その声はやわらかく穏やかでありながら、同時に揺るがぬ強さを帯びていた。
「私は、あなたの名を呼ぶことができない……。
だから、こうすることでしか、あなたの傍へ来ることができなかったの。」
「でも……私には、何もできない……」
七葉真は、喉を何かに塞がれたかのように、苦しげに言葉を絞り出した。
「私は、母上様の期待に応えられなかった。
それどころか、私は……」
靈泉曉は、すぐには答えなかった。
ただ、静かに七葉真を見つめていた。
そして次に紡がれた言葉は、もはや柔らかなものではなかった。
それは魂の奥底を真っ直ぐ射抜くような、強い力を帯びていた。
「それで……今のあなたは、怖いの?」
七葉真の全身が強ばった。
その一言は、まるで彼女の胸の奥にある最も脆い部分へ、真正面から叩きつけられたかのようだった。
しばらくして、最後の壁を引き裂かれたように、彼女は叫んだ。
「怖いに決まってるでしょう!!」
「私は、もう何も残っていないの!!」
「ずっと待っていた……あまりに長く待ち続けて、自分が何者だったのかさえ、分からなくなりそうになるほどに……。
私は、母上様がまだ私のことを覚えていてくださると……そう思っていたのに、でも……」
その声は、そこで不意に崩れた。
言葉は途中で断ち切られ、続きを紡ぐことができない。
大粒の涙が、次々(つぎつぎ)と頬を伝って落ちていった。
もはや押さえ込むことも、耐え忍ぶこともできなかった。
それはまるで、千年ものあいだ積み重なってきた悔しさと哀しみが、ついに行き場を見つけたかのようだった。
靈泉曉は、それ以上何も言わなかった。
ただ、静かに一歩近づき、両腕を広げ――
そっと、それでいて揺るぎなく、七葉真を抱き寄せた。
その抱擁は、単なる慰めではなかった。
それは彼女を魂の底から支え、
深淵の最下層へ沈みかけていた彼女を、もう一度上へ引き上げようとする力そのものだった。
七葉真は息を呑み、呆然とその場に固まった。
はっきりと感じ取れたのだ――
その腕の中から、やさしく、それでいて強い温もりが、自分の砕けた魂の奥深くへ流れ込んでくるのを。
それはまるで、一度失われたはずの陽光が、再び彼女を照らし始めたかのようだった。
「感じられる?」
靈泉曉の声は、まるで一筋の光を帯びているかのように、闇を貫いて届いた。
「こ……この力は……?」
七葉真は茫然とし、虚ろだった瞳は、少しずつ焦点を取り戻していく。
長いあいだ沈黙していた魂の奥底で、
まるで固く閉ざされていた扉が、そっと押し開かれるような、かすかな響きが生じた。
「どうやら……ようやく落ち着いたようね。」
新たな声が、一つ別の方向から静かに響いた。
――それは、妲己の声だった。
七葉真は、はっとして声のした方へ勢いよく振り向いた。
闇の中に柔らかな光が集まり、
やがて少しずつ、一つの人影を形作っていく。
妲己は、穏やかな微笑みを浮かべながら、彼女へ向かって歩いてきた。
その身からはやわらかな光輝が溢れており、
七葉真を包んでいたあの温かな力は、まさしく妲己の内から流れ出ていたものだった。
それは一滴ずつ染み渡るように、七葉真の魂へ流れ込み、
そこに刻まれていたあらゆる傷を静かに癒していった。
もう抑え込むことのできなかった感情が、一気に溢れ出す。
七葉真は堪えきれず、妲己のもとへ駆け寄り、そのまま強く抱きついた。
そして、張り詰めていたものがとうとう切れたかのように、声を上げて泣き崩れた。
胸の奥に押し込めてきた苦しみも、孤独も、恋い慕う想いも、
そのすべてを、彼女は涙とともに余すことなく解き放っていった。
「これまでずっと……よく頑張ったわね。」
妲己は低い声でそう告げると、そっと七葉真の頭を撫でた。
その手の動きは風のようにやわらかく、千年もの苦しみに晒され続けてきたその心を、静かに慰めていく。
その瞬間――
封じられていた記憶も、押し殺されていた感情も、忘れ去られていた呼び声も、
すべてが奔流のように七葉真の脳裏へ流れ込んできた。
母の声。
母の笑顔。
母に手を引かれ、ともに駆け抜けた森。
母が彼女を守り、頼り、そして教えてくれた、そのすべて。
彼女は、ついにその名を思い出した――
「会いたかった……ずっと、本当に会いたかった……母上様――いいえ……春様。」
その呼びかけは、記憶であり、血脈であり、魂の最奥から伸びる抗えぬ導きだった。
そしてこの瞬間、彼女は封印されていたすべてをも思い出した。
妲己こそが、この世界における本来の初代妖王、七葉春だったのだ。
「馬鹿な子ね、もう泣かないで。私にはもう時間があまりないの。だから、あなたたちに一つ、どうしても急いで伝えなければならないことがあるわ。」
黄泉之島にて、紅と黒の二人の使者は、伝訊水晶球を通じて、ある者と対話を交わしていた。
「誠に申し訳ございません、主人。七使でありながら、このような事態を招いてしまい、到底顔向けできません」
二人は同時に頭を垂れ、その声には深い悔恨が滲んでいた。
水晶球の向こう側から、低く悠然とした声が響いてくる。
「いや、これは汝等の責ではない。吾等の思慮が足りなかったのだ。汝等の力をあまりに制限しすぎたうえ、敵の力を見誤っていた。だが、幸いにも、すべては解決した」
黒は顔を上げ、問いかけた。
「なぜ七葉真が白炎之壁を発動した後でも、酒吞童子は献祭魔法を使えたのですか。あの者の魔法は、本来なら領域魔法には属していないはずです」
「それは、献祭召喚の対象が存在していた空間が、『萬界結界』の内部にある空間であって、『萬界結界』の外部ではなかったからだ。ゆえに、その魔法は封印されなかったのだ」
紅がそう説明した。
「なるほど……だから当初、八歧大蛇も空間魔法を使って外へ逃げようとしても、不可能だったのですね……」
黒は小さく頷いて応え、さらに言葉を続けた。
「ですが、最も厄介なのは、あの者がまだどこかに潜んでいることです。感知の結果からも、いまなお、どの空間に身を潜めているのかを特定できません」
「ならば、万が一にも何か問題が生じた時は、汝等は力を解放し、密かにあの者たちを守るがよい」
「はっ!」




