第二卷 第三章 寄り添う心(4/5)
七葉真をどうやって支配していたのか――それ(それ)を知りたい気持ちはあった。だが、今はそんなことを考えている場合ではない。
今この場で優先すべきなのは、まず目の前の厄介な相手を始末することだった。
魔法はすでに解けた。ならば、もう何も気兼ねする必要はない――
容赦する理由も、もはやどこにもなかった。
私は一歩、前へ踏み出した。
砕けた石板を踏む足音が、殿堂の中に鮮明に響く。
殿堂は見る影もなく荒れ果てていた。
灯火は消え、書巻は引き裂かれ、砕けた瓦と石屑があたり一面に散っている。
この空間には、もはや私と酒吞童子の気配だけが残り、互いに激しくぶつかり合っているようだった。
わずか数丈の距離しかない。
それ(それ)なのに、その間は濃密な殺気で満ちていた。
今のこの局面は、もはや私と酒吞童子による一対一の対決に等しかった。
酒吞童子は口の端を吊り上げ、笑っているのかどうかも分からぬほど歪んだ弧を描いた。
その双角には、不気味な紫紅色の光が灯っている。まるで鮮血をたっぷり吸った妖火のようだった。
「はははは……」
酒吞童子は低く嗤った。
その声は、毒蛇を思わせるような冷ややかさを帯びていた。
「我をあの娘の身体から引きずり出すだけで、おまえたちは皆、半死半生になったのであろう?」
そう言いながら、彼は小さく首を傾げた。
まるで獲物が死ぬ間際に見せる足掻きを、愉しむかのように。
「結局のところ、立っているのはおまえ一人だけか。それでもなお、虚勢を張るつもりか?」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、酒吞童子は突如として跳び上がった。
巨大な影が、山のような圧力を伴って上から覆いかぶさる。
両腕が振り上げられたその瞬間、天狐神社全体が引き裂かれたかのように激しく震えた。
――轟ッ!!!
妖気が爆発した。
それは、ただの爆散ではなかった。地脈、空気、雲層、殿柱から、同時に噴き上がったのだ。
まるで、雲閣という島そのものが、彼の呼び声に応えているかのようだった。
次の瞬間、酒吞童子は怒号を上げ、十階の儀式魔法――鳴妖呼喚を発動した。
周囲の空間は、まるで無理やり裂け目をこじ開けられたかのように歪む。
妖気は黒い海が逆流するように殿堂の周囲へ流れ込み、渦を巻いていた。
空気中には、まるで灰燼のような黒い破片が舞い上がる。
その一片一片に、悲鳴と呪いが宿っているかのようだった。
妖気は雲閣から妖幻島へと一気に流れ広がっていく。
空は次第に黒霧に覆われていき――
それはまるで、島を呑み込もうとする巨大な悪鬼の口そのものだった。
黒霧の中で、酒吞童子の姿はますます巨大に、そして底知れぬものへと変わっていく。
妖力は潮のように彼へ押し寄せ、その身をさらに危険な領域へと押し上げていた。
彼は頭を垂れ、冷笑を浮かべながら私を見下ろした。
「どうだ?」
「この島に満ちるすべての妖気、すべての怨霊、すべての悪念……」
「そのすべてが、俺の力になる」
彼は両腕を広げ、黒く染まった空全体を抱き締めるかのように仰いだ。
「そしてお前は――」
妖瞳が、血に飢えたような光を灯す。
「――何ひとつできはしない」
「……本当によく喋る」
酒吞童子の圧倒的な気勢を前にしても、私はただ冷やかな目で彼を見やるだけで、その返答すら淡々(たんたん)としていた。
その口調は、静かというより、むしろ冷酷に近い。
だが、その瞬間に放たれた殺気だけは、空気を裂く刃のように鋭かった。
酒吞童子が狂笑から意識を切り替えるより早く、周囲の空間はすでに静かに歪み始めていた。
私は指を一本差し出し、軽く一度打ち鳴らす。
――十階召喚魔法・零相・朧界縛掌。
大地は音もなく裂けた。
それは土石が砕けるようなものではない。
概念層面そのものに走った亀裂だった。
その裂け目から伸び出たのは、ありふれた魔法の手ではなかった。
それは「零相」によって形作られた幽手――
形体を持たず、重さも持たない。
それでいて、世界そのものを掴むことができる異形の手だった。
数十もの無影の手が、次の瞬間に同時に落ちる。
まるで「存在」と「不在」の狭間から、同時に伸びてきたかのように。
それらは酒吞童子の四肢、躯幹、頸椎……
そのすべてを、概念の上で原点へと固定した。
「お前……!?」
酒吞童子の瞳孔は一瞬で大きく見開かれ、全力でもがこうとした。
だが、その結果は――指先ひとつ、いや、一寸たりとも動けなかった。
それは拘束されたのではない。
彼の「動作」そのものが、魔法によって否定されたのだ。
「貴様……何をした!? なぜ俺は……動けない!?」
酒吞童子の声が初めて裏返った。
その声の裂け目から、恐怖が漏れ出していた。
彼は私の魔法によって宙に吊り上げられたまま、妖気を激しく渦巻かせていた。
それでも、そこから逃れることは微塵もできない。
私はその怒号に応えることなく、ただ一歩だけ近づいた。
そして視線を、彼の右手に握られている白炎の鈴へと落とす。
ひと目見た限りでは、それはダッキが持つ神器――
「断罪之息」と、どこか似ていた。
同じ銀白色の光。
同じ布の紋様。
同じ織り流れるような質感。
だが――
鑑定を終えた後に私が見たものは、同質の力ではなかった。
そこにあったのは――
あらゆるものを浄化しようとする光だった。
私はわずかに困惑する。
「……一体、これは……?」
私が白炎の鈴の力に意識を奪われ、一瞬だけ気を逸らした、その瞬間――
酒吞童子の口元に、狂気と狡猾さの混じった笑みが浮かんだ。
彼の体内で妖気が一気に暴走する。
そして、あろうことか「零相・朧界縛掌」による概念の拘束を、力ずくで引き裂いた。
「本来なら、この切り札はもっと厄介な相手のために残しておくはずだった。だが、どうやら今すぐ使わざるを得ないようだ」
拘束を振りほどいた酒吞童子は、自分の首を軽く揉みながら、低く呟いた。
そのとき、酒吞童子が手にしているものを見て、私は思わず目を見開いた。
彼の手にあったのは、一振りの斧だった。
「お、お前……その代物を、いったいどこで手に入れた……?」
酒吞童子の握る武器を目にした瞬間、私の胸の奥に、言葉にできない衝動が込み上げた。
その斧は、柄から刃に至るまで、異様な牙を生やしていた。
そして、その武器こそが、伝説に語られる十二至宝のひとつ――噬魂斧だった。
先ほど酒吞童子が拘束を破ってみせたのは、噬魂斧の力によるものだ。
噬魂斧は、あらゆる生命体に対して霊子を喰らう力を持っている。
いったん噬魂斧によって命を絶たれれば、その霊子は完全に消し去られ、虚無へと還されるのだ。
私の召喚魔法「零相・朧界縛掌」は、実のところ、弦月団の特別席の一角である「月蝕・零相」を「朧界」に配置し、そこから霊子によって構成された手を召喚しているものだった。
「朧界」とは、私が「月蝕・零相」のために設けた異空間である。
第二神殿――吸血亡林において、転送の罠機構を踏めば、「朧界」へ飛ばされる。
そこから脱出するには、霊子で構成されたあの手を打ち倒す以外に方法はない。
それらの手は通常の魔法では干渉されない。
だがその反面、霊子魔法にはきわめて狙われやすい。
ましてや、霊子そのものを喰らうことに特化した噬魂斧が相手では、なおさらだった。
酒吞童子は拘束を振りほどくと、体内から力任せに息をひとつ吐き出した。
その瞬間、空気はまるで裂け目をこじ開けられたように裂け、その裂け目から溢れ出たのは、風ではなかった。
――それは、怨魂たちの悲鳴だった。
次の瞬間、酒吞童子は咆哮を轟かせながら、十階献祭魔法――《百鬼夜行》を発動した。
神社の中の空気は引き裂かれ、霊層は砕けた断片へと崩れていく。
その裂け目から、無数の曖昧な影が這い出してきた。
それは、かつて彼の手によって命を奪われた妖怪たちだった。
彼らは歪み、泣き叫び、狂ったように吼え立てる。
だが、それでもなお何かに引き寄せられるように、黒い潮流のごとく逆流し、酒吞童子の肉体へと無理やり流し込まれていった。
「吼おおおおおお――ああああああ!!」
数百もの怨魂が強引に流れ込むにつれ、酒吞童子の筋肉は裂け、組み替えられ、癒え、そして再び裂ける。
骨格は不自然な破裂音を伴いながら狂ったように伸長し、
皮膚の表面には無数の鬼紋が浮かび上がった。
それはまるで、幾千もの黒蛇が血肉のあいだを這い回っているかのようだった。
額にあった二本の角は激しく裂け、
そこからさらに新たな鋭い角が生え出る。
神殿のすべては影に呑み込まれ、
あらゆる光は外へ逃げ散るように押しやられていった。
ほんの数秒のうちに――
数丈もの巨体を持ち、
背には鬼の爪のような異形を生やし、
四肢は巨獣のごとき威容を帯び、
全身には沸騰するような鬼紋が刻まれた巨大な妖鬼が、神殿の中央にそびえ立っていた。
それは、ただ「大きくなった」などというものではない。
それは進化を遂げた新たな姿――鬼王・酒吞童子だった。
百鬼夜行が完成した後も、酒吞童子の肉体はなお震え続けていた。
まるで無数の怨魂が、その血肉の内側で煮えたぎっているかのようだった。
その巨大な躯体が息をするたびに、天狐神社の殿堂全体を包む結界までもが低く唸りを上げる。
その圧迫感は――
八歧大蛇が姿を現した時と比べても、少しも引けを取らなかった。
酒吞童子は頭を垂れ、私を見下ろす。
その口元は不自然なほどに吊り上がり、剥き出しになった牙が獰猛な光を放っていた。
やがて、嗄れた声で、傲然と言い放つ。
「まったく、残念だったな――」
その赤い瞳に、凶悪な光が走る。
「さっきなら、お前は俺を一撃で殺せたはずだ……」
「だが、お前は好機に乗じることすらできなかった!」
酒吞童子は高笑いした。
その哄笑は雷鳴のように四方へ轟いていく。
「今はどうだ? もはや神であろうと、俺には手も足も出まい!!」
「貴様のその程度の魔法攻撃など、この俺の前では、すべて無効だ!!!」
ただ、酒吞童子は猛然と一歩を踏み下ろした。
その瞬間、地面はまるで大山に叩きつけられたかのように、深く陥没し、激しく砕け裂けた。
轟音とともに、濃密な妖気が彼の体内から台風のように噴き荒ぶ。
それはもはや霧でも煙でもなかった。
魂すら腐食する、黒炎のような妖気だった。
周囲の空気は一瞬で冷え込み、
その妖気が肌をかすめるたび、
まるで魂そのものを炎で炙られているかのような痛みが走る。
「この場所はなぁ……」
酒吞童子は巨大な腕をゆっくりと伸ばした。
その影は、殿堂全体を覆い尽くすかのように広がっていく。
その声には、獲物をいたぶることを愉しむような残忍さが滲んでいた。
「ここで、この妖気に少しでも長く触れていればな……」
「たとえ妖怪であっても、命を落とすんだぜぇ!」
そう言い放つと、
酒吞童子の気勢は再び激しく膨れ上がった。
それはまるで、魔気を注ぎ込まれた戦神のようだった。
酒吞童子は腕を振り上げ、乱暴にひと薙ぎする。
その手に握られていた白炎の鈴は、激しく回転しながら宙へと舞い上がった。
妖気に駆動されるその鈴からは、禍々(まがまが)しい紫紅色の光が溢れ出す。
その光が降り注いだ瞬間――
酒吞童子の周囲には、歪みを帯びた半透明の壁が輪のように形を成した。
それは単なる魔法盾ではなかった。
鬼気、妖気、そして白炎の残響。
その三つの力が混じり合って生まれた、異様な結界だった。
空間の震動は、それに触れようとした瞬間に「引き裂かれる」ように断ち切られる。
魔力も、気配も、衝撃波も――
そのすべてが外側へと弾き返されていた。
その直後、酒吞童子は猛然と口を開いた。
喉の奥深くから、墨のように濃く黒い妖気が激しく噴き出す。
それは、あらゆるものを呑み尽くす毒竜の吐息のようで、瞬く間に神社全体を呑み込んだ。
黒霧は激しく渦巻き、歪み、耳障りな声を上げる。
それは、無数の怨霊の絶叫が絡み合ってできたもののようだった。
光は呑み込まれ、音は引き伸ばされるように歪み、
世界そのものが霧の中で無数の破片へと切り裂かれていくかのように見えた。
この濃霧は、酒吞童子が作り上げた狩場だった。
その内側では、
ひと筋の呼吸も、ひとつの鼓動も、
すぐ耳元で鳴らされているかのように、はっきりと知覚されてしまう。
酒吞童子が足を一歩踏み込むと、大地は轟音とともに沈み込んだ。
次の瞬間、その殺意は冷たい鎌のように、地に倒れているダッキへとまっすぐ向けられる。
その瞬間、酒吞童子の口元には獰猛な笑みが浮かんだ。
獲物を狩る者の残虐な本能が、隠しようもなく露わになっていた。
酒吞童子は巨きな掌を持上げると、片手では妖気を圧縮し、鋭い刃へと変える。
そしてもう一方の手では噬魂斧を振りかざし、
一瞬の躊躇いもなく、妲己の胸元へ向けて振り下ろした。
――轟ッ!
鋭い妖気の刃は、目に見えない何かへと激しくぶつかった。
それは、まるで静止した湖面に叩きつけられたかのようだった。
水面のような淡い波紋が静かに揺らぎ、その必殺の一撃を完全に逸らしてみせる。
酒吞童子の表情が一瞬だけ強張った。
その瞳の奥には、わずかな困惑が走る。
「何……?」
一方で私は、その濃霧の中に立ちながら、きわめて落ち着いた口調で言い放つ。
「……彼女に手を出すのは、そう簡単じゃない」
実際には、
私はダッキとティアが倒れたその瞬間に、すでに「世界之息」を二人の周囲へ密かに展開していた。
それによって、彼女たちの身体のまわりには、目に見えない防壁が形作られていたのだ。
だからこそ、
酒吞童子の攻撃は弾き返された。
このような敵を前にして、しかも万全の準備が整っていない状況では、私は生け捕りにする考えを捨てた。
これ以上、ほかの者たちを危険に晒すわけにはいかない。
ゆえに私は方針を変え、
直ちに領域魔法――燼界・原初煉獄を発動した。
召喚魔法というものは、単に召喚獣や召喚物をその場へ呼び出すだけのものではない。
より正確に言えば、それは契約、術式、そして魔力を通じて、すでに術者と繋がりを持つ存在を、あらためて顕現させるものだ。
そして、召喚魔法の位階も、単純に召喚獣そのものの強さだけで決まるわけではない。
召喚の際に注がれる魔力の強弱、追加で構築される術式、さらには重ねて付与される補助魔法までもが、最終的に顕現する階層と威力に、直接影響を及ぼす。
かつてゲームの中にいた頃、私はこうした力を、ただのシステムスキルとしてしか見ていなかった。
呼び出される召喚獣もまた、術式とコードに従って構成された戦闘用のユニットにすぎない――そう考えていたのだ。
だが、この世界へ来てからは、もはやそんな単純な捉え方はできなくなっていた。
初めのうち、私はそれを、異世界へ来たことによって、この世界の法則がもともとの技能を補完した結果なのだろう、と考えていた。
かつてゲーム内で使っていた力を私がそのまま扱える以上、本来ならスキルシステムの中にしか存在しなかった召喚獣に、この世界で実体が与えられていたとしても、まったく理解できない話ではなかった。
だが、私は次第に気づき始めていた。
この世界と、あのゲームとの繋がりは、おそらく私が最初に思っていたよりも、はるかに深い。
そう察するようになってから、私はある別の疑問についても、あらためて考え直さざるを得なくなった。
私が召喚するあの存在たちは、果たして、もともとの術式がこの世界で補完された結果にすぎないのか。
それとも、この世界そのものが、私の持つ召喚術に応じて、より真実に近い形で、それらを顕現させているのだろうか。
巨大な魔法陣が、私の足下から一気に咲き広がった。
その紋様は、まるで灼熱の熔鉄が流れるように赤く燃え上がり、地面を這うように高速で広がっていく。
やがてそれは幾重にも重なる呪文環陣へと変わり、その場を埋め尽くした。
凄まじい魔力の奔流とともに、空間は一瞬で赤紅に染まる。
それと同時に、空間そのものを歪ませるような圧力が、轟音とともに押し寄せた。
次の瞬間、地脈の奥底から業火が爆ぜるように噴き上がった。
猛り狂う炎は幾重もの炎浪を巻き上げ、まるで世界のすべてが果てのない熔炉へ投げ込まれたかのような光景を作り出す。
この炎は、ただ燃やすだけのものではない。
視界を喰らい、感覚を蝕み、さらには魂魄すら燃やし尽くす力を持っていた。
周囲の妖気は立ち上がろうとした瞬間、この異常な高熱の前に灰燼へと変わる。
空気の中には、耳を裂くような爆裂音が立て続けに響き渡った。
それはまるで、妖しきものたちの断末魔の叫びが引き裂かれ、掠れ、砕けながら響いているかのようだった。
なお、妲己やそのほかの者たちは、私の「世界之息」によって守られているため、この魔法がもたらす場の損傷を受けることはない。
原初煉獄は、単純に地形や場を変質させる魔法ではない。
これは空間召喚魔法であり、膨大な魔力を代償として、煉獄の火に満ちた空間そのものを、この場へ呼び寄せる術なのだ。
その空間は、もともと私が宝蔵金庫の内部に設計していた、十種の罠のひとつだった。
誤って転移魔法に触れれば、そのままこの空間へ転送される仕組みになっている。
そして、この空間の内側では、私が定めた規則を打ち破らない限り、「煉獄」と呼ばれる牢獄へ閉じ込められたままとなる。
いったん囚われれば、そこから逃れることはできない。
私はかつて、第三神殿――「炙炎焦土」において、この魔法を試したことがあった。
当初はただ、この魔法が生み出す炎の威力が、第三神殿の炎と比べてどれほど違うのかを確かめたかっただけだった。
だが、実際に発動した瞬間、その場にいた艾兒――紅櫻でさえ、慌てて炎漿の深部へ身を潜めた。
それだけでも、この魔法がどれほど危険なものであるかは十分に分かる。
炎すら喰らい尽くすその力は、まるで魂そのものを完全に焼き滅ぼしてしまうかのようだった。
何の備えもないまま、酒吞童子の巨体は一瞬で、あの歪み燃え盛る空間へと呑み込まれた。
煉獄への門が閉ざされたその刹那、それはすなわち――
酒吞童子が、もはや一切の逃走の可能性を失ったことを意味していた。
「ここは……どこだ?」
酒吞童子の声は低く、かすれていた。
血のように赤い双眸が周囲を見回し、
その眼差しには、初めて隠しきれない不安が浮かんでいた。
ここには空もなければ、方角すら存在しない。
あるのは、果てなく燃え続ける赤炎、歪みに満ちた空間、そして魂を焼くような激痛だけだった。
妖気を少しでも広げれば、それすら瞬時に焼き砕かれ、砕けた光の粒へと変わってしまう。
私は冷えた声で告げた。
「ここは、私の領域の一つ――原初煉獄だ」
酒吞童子の瞳孔がわずかに縮む。
本能的に、この空間が現実世界のものではないと悟ったのだろう。
「何だと?」
酒吞童子は眉をひそめた。
その声には侮蔑が込められていたが、内側から滲み出る焦燥までは隠しきれていなかった。
「ふん……たかが人間ごときが、この鬼王に向かって……」
私はそれ以上、説明を重ねることはせず、ただ冷えきった声で宣告した。
「この場所では、もうお前に逃げ場はない。大人しく裁きを受けろ」
「ふざけるな! たかがひとつの空間で、この俺を閉じ込められるとでも思ったか!? 舐めるな!!」
怒号は灼熱の空間に響き渡り、酒吞童子は猛然と突進してきた。
その拳は雷鳴のごとき風圧をまとい、まっすぐに私の顔面へと叩き込まれる。
十階戦技――爆劫破炎拳。
拳風は荒れ狂う雷嵐のようだった。
火紋は彼の腕の上で凶暴に脈打ち、
その一振りごとに、煉獄の中で赤炎と空気が爆ぜ、轟音を撒き散らす。
――轟ッ!!!!
だが――
その拳が私の身体に触れた瞬間、凄まじい灼熱感が野火のように彼の四肢へと走った。
それは瞬く間に皮膚を蝕み、骨にまで食い込んでいく。
炎は酒吞童子の腕を這い上がり、
魂魄すら焼き焦がす業火のように、その身を容赦なく呑み込んでいった。
「があああああああああああッ!!!」
酒吞童子は喉を裂かんばかりに絶叫した。
激痛に引き攣ったその顔は醜く歪み、
精神もまた、もはや理性を保ててはいなかった。
なぜなら、この空間では――
私に触れようとすること自体が、
すなわち煉獄の炎そのものに触れることと同義だからだ。
原初煉獄の中では、
私の身体は炎と、空間と、法則と、
すでに完全に一体となっていた。
私は煉獄の中に立っているのではない。
むしろ――
煉獄のほうが、私の存在を中心として巡っている。
ここは、審判者の熔炉。
そして私こそが――
炎そのものだった。
最初の鑑定によって、酒吞童子の状態は私の目に余すことなく映し出されていた。
彼は献祭魔法によって、自らに課せられていた限界を無理やり引き裂き、
魂の安定さえ切り捨て、
怨魂と悪鬼の力を強引に積み上げることで、このほとんど制御不能な戦士形態を作り上げていた。
通常であれば、こうした形態はたしかに厄介だった。
力も、速さも、耐久も、すべてが大幅に引き上げられている。
そのうえ、奪い取った神器の加護と、噬魂斧の力まである。
並みの攻撃では、彼の身体に傷ひとつ残せないだろう。
――だが、ここは私の法則によって築かれた煉獄だ。
この空間では、力こそがすべてを決める。
「この空間を破ろうとするなら……少なくとも不破のように……法則そのものを引き裂けるほどの破壊力が必要になる」
私はそう、低く呟いた。
酒吞童子は、明らかにそれらの差を理解していなかった。
咆哮を上げながら、太く逞しい利爪を振るい、
さらには術法によって黒い妖気を凝縮し、周囲へ絶え間なく叩きつけていく。
轟!
轟!
轟――!!
黒炎、鬼紋、怨気によって形作られた術式は、幾重にも重なり合い、
その威力は、外界の山峰すら砕石へと引き裂くに足るものだった。
だが――
そのすべてが、何の効果も及ぼさなかった。
攻撃は煉獄の壁障へ落ち、
まるで静止した湖面へ沈み込むかのように、音ひとつ立てることなく消えていく。
わずかな波紋すら、生じはしなかった。
次の瞬間、
その凄まじい威力を持つ妖気は、煉火を消すどころか、
かえって飢えた獣のように、炎へ貪欲に喰らい尽くされていった。
嘶――……
黒気は焼き尽くされ、微細な光塵へと変わり、
煉獄の奥底へ溶け込み、
この空間を構成する一部となっていった。
煉獄の火は、まるで生き物のように蠢いていた。
その軌跡は空気の流れに沿って進むのではなく、
空間そのものを貫き、直接酒吞童子の体内へと潜り込んでいった。
火焔は、直にその「存在」へと降り注ぐ。
轟――!
内臓を灼き、
神経を焼き蝕み、
血脈の中を巡る妖力を打ち砕き、
神魂に巣食う怨気すら呑み尽くしていく。
生贄によって手にした強化の力は、一寸ずつ剥ぎ取られていった。
さらに、神器が形作っていた防護壁塁でさえ、紙きれのように砕け散り、
煉獄による侵蝕を、まるで食い止められなかった。
「不……不可能……」
酒吞童子の声は、次第に掠れ、破れ始めた。
それは、鬼王の喉にかつて宿ったことのない震えだった。
「この火焔……なぜ……我に……まで……!」
酒吞童子は地に膝をつき、
その両膝は激しく地面を打ち、無数の亀裂を走らせた。
皮膚は干上がった泥土のように罅割れ、剥がれ落ち、
妖気は体表から煙霧のように散り失せ、
魔力は砕けた光塵へと変わっていく――
まるで、その存在そのものが、少しずつ「抹消」されていくかのようだった。
煉獄の火は、さながら審判の鎖であるかのように、
酒吞童子を、さらに深き烈焔の海へと引きずり込んでいく。
「ぁ……ああ……いや……我は……まだ……」
その声は、次第に曖昧になり、遠ざかっていった。
まるで底の見えぬ深淵へ引き込まれていくように。
そして、ついに――
酒吞童子の姿は火光の中で歪み、砕け、崩れ落ち、
まるで熔炉に呑み込まれた金属のように、完全に瓦解していった――
最後に残っていた咆哮すら、火焔に無情に塗り潰された。
ただ一筋の微かな幽燼だけが、宙に漂っていた。
それはまるで、亡者が最期に吐き出した息のようであり、
烈火の嘯きとともに……
静かに、散っていった。




