第二卷 第三章 寄り添う心(3/5)
神々(かみがみ)から許しを得ると、私と緹雅はただちに飛行魔法を発動し、雲閣を目指して一気に空へ飛び立った。
高空では雷鳴が幾重にも重なり合い、閃光は咆哮する獣のように天蓋を引き裂いていた。
濃密な黒雲は渦を巻いてうねり、暴風は途切れることなく襲いかかってくる。乱れ狂う気流は、人ひとりなどたやすく引き裂いてしまえるほど凶暴だった。
稲妻が走るたび、雲の狭間には雲閣の輪郭が明滅した。
それ(それ)は、混沌たる深淵の頂にそびえ立つ、神の宮殿のようでもあった。
この狂いきった天候を前にして、私は領域魔法――「世界之息」を展開した。
荒れ狂う気流は障壁の縁で、まるで目に見えない壁へぶつかったかのように完全に遮られていく。
私たちは静寂に包まれたひとつの泡の中にいるかのように、安定したまま目標へ向かって進んでいった。
私は意識を研ぎ澄まし、前方にある結界へと視線を据えた。
指先で緻密な魔法回路を描き出し、迷宮のように幾重にも重なり合う術式構造を、一層ずつ解析していく。
この防御結界は、まさに隙がないと言うべきものだった。
外層は自然の力によって覆われ、内層では符文と陣式、そして魔力の流れが幾重にも絡み合い、極めて複雑な構造を形作っている。
これ(これ)を正面から強引に破るなど、決して容易なことではなかった。
だが――
これほどまでに複雑な術式構造を前にして、私は自分の固有技能――「原初之眼」を発動した。
原初之眼の補助を受けた私は、あらゆる魔力の揺らぎを寸分の狂いもなく捉え、まるですべてを見透かすかのように結界の構造を見抜いていった。
第一層の結界を解構することに成功すると、天の空に歪んだ魔紋が浮かび上がり、次の瞬間には塵煙となって消えていった。
続いて第二層、第三層……。
層を重ねるごとに結界から放たれる圧力は増していったが、それ(それ)でも私は乱れることなく、着実に解き進めていった。
私は理解していた。
結界に組み込まれた自動防御機構はすでに異常を察知し、解析の過程に干渉を始めている。
だが、この程度の反制では……まだ私を止めるには足りない。
この世界の結界魔法は、私がゲームの中で解析してきた結界の原理とまったく同じだった。
破るためには、まずその構造を見抜かなければならない――まるで謎を解き明かすように。
私にとって、それ(それ)は決して難しいことではない。
原初之眼の力があれば、結界の構造を解析することなど容易だった。
亞米が弗瑟勒斯に張った十二層結界でさえ、私は破ることができたのだから。
最後の結界符紋が空中で砕け、光の塵となって崩れ落ちた瞬間、私たちはそのまま上空から急降下し、雲閣の石畳の上へ静かに着地した。
足の裏が地面に触れた瞬間、冷たい気配が正面から押し寄せてきた。
空気の中には、先ほどまで荒れ狂っていた暴風と妖気がぶつかり合って生まれた、歪んだ残滓がいまだ色濃く漂っていた。
私と妲己は着地すると同時に、天狐神社の中央殿堂へ向かって一直線に駆け出した。
一方で緹雅は、雅妮と三姉妹を率いて素早く四方へ散り、あらかじめ定めていた作戦計画どおりに布陣を開始した。
「……まさか、この結界を破る者がいるとはな。あり得ぬことだ……!」
殿堂内に、低く陰冷な声が響いた。
それ(それ)は、憑依された七葉真の身体を通して発せられた声だった。
目の前の状況に驚きを隠せないでいながらも、その口調には、なおすべてを掌中に収めているとでも言いたげな余裕が滲んでいた。
「だが――もう遅い」
私と妲己が神社の内殿へ踏み込んだ時、目の前に広がっていた光景には、思わず息を呑まされた。
七葉真は、殿堂の中央に据えられた巨大な狐の像の前に立っていた。
その瞳には何の光も宿っておらず、まるで魂そのものを抜き取られてしまったかのように、そこにあるのは操られるだけの空の肉体だけだった。
彼女の手には、本来なら狐の像に置かれていたはずの白炎之鈴が握られていた。
その鈴からは、強大な魔力が宿っていることがはっきりと感じ取れた。
「実に惜しかったな」
悪鬼は七葉真の身体を借り、その口元に冷やかな笑みを浮かべた。
「この宝物は、すでに我の手にある。おまえたちがどれほど足掻こうと、もはや何の意味もない。まして――」
その声は低く、ねっとりとした嘲笑を含んで続いた。
「おまえたちに我を討つことなどできまい? この身体は、おまえたちの『仲間』のものなのだからな。ひとたび手を下せば、我らは道連れに死ぬことになる」
妲己の顔色は、その瞬間すっと沈んだ。
その時、身体の脇に垂らした指先が、かすかに震えた。
それ(それ)は恐怖ではない。
込み上がる殺意と、胸を抉るような痛みを、必死に押し殺していたのだ。
彼女にとって、この光景は……あまりにも残酷だった。
「今のうちだけよ、そんなふうに得意でいられるのは!」
不意に放たれたその声が、張り詰めた膠着を鋭く切り裂いた。
私は反射的に後ろを振り向き、瞳孔がはっと縮んだ。
そこに現れたのは、まさかの亞米だった。
――いや、違う。あれは亞米じゃない。
目の前に立つその姿は、外見も、立ち居振る舞いも、果ては気配にいたるまで、亞米と寸分違わなかった。
それでも、私の直感は即座にそれ(それ)を否定した。
「まさか……緹雅か?」
そう、その通りだった。
これ(これ)は緹雅が発動した領域魔法――虚無幻象。
この魔法は、「かつて緹雅が鑑定したことのある人物」を完璧に幻として再現することができる。
その幻像は、外見が同じであるだけではない。声も、気配も、さらには技能までも、本人とまったく同一なのだ。
幻象魔法に類似した魔法には二種類ある。ひとつは魁儡魔法、もうひとつは分身魔法だ。
魁儡魔法は、一定の距離の内側で操らなければならず、分身魔法は本体の能力を完全に再現することができない。
本来であれば、緹雅の幻象技能にも距離の制限があり、なおかつ本体と同等の力を完全に発揮することはできなかった。
だが、この世界へ渡ってから、彼女の幻象技能は全面的に強化された。まるで進化したかのように、その二つの弱点を完全に克服し、今では距離を無視して操ることができるうえ、本体と同じ実力までも発揮できるようになっていた。
それ(それ)こそが、かつて私たちが亞拉斯を警戒していた理由でもある。彼もまた、これ(これ)に類する幻象系の技能を隠し持っているのではないかと危惧していたのだ。
緹雅は幻象の亞米を操り、殿堂の中央へと進み出させた。
そして腕を持ち上げ、鋭く指先を払う――その瞬間、空気はたちまち歪み、まるで目に見えない刃に裂かれたかのように揺らいだ。
次の瞬間、亞米の領域霊子魔法が直接展開された。
――「幽識断滅・魂体剝蝕」
その魔法の響きが空間に満ちた途端、殿堂全体がまるで異なる位相へ引きずり込まれたかのように揺らいだ。
それ(それ)は、肉体と魂の両方に、焼けつくような激痛を同時に与える術だった。
ひとたび標的を捉えれば、魂は薄膜を剝がすように幾層にも引き裂かれ、幽かに黒い苦痛の中へむき出しのまま晒される。
砰――!
激しい反震が、七葉真の体内から爆発した。
彼女の内に憑りついていた悪鬼は、その瞬間、獣のような絶叫を上げた。
その声は乱れ、砕け、あまりにも無防備だった。
「ぐああああ――!! これ(これ)は……!? なぜ、おまえたちが……!」
その声はもはや完全に変質していた。
まるで、自分の本質に触れられる者が存在することなど、到底信じられないとでもいうかのように。
だが、悪鬼の叫び以上に胸を震わせたのは、七葉真の悲鳴だった。
その絶叫は、まるで魂の最奥から絞り出されているかのようだった。
凄惨で、砕けるようで、引き裂かれるようで――まるで命の一部を無理やり剝がされているかのようだった。
その声のあまりの凄まじさに、殿堂の石柱でさえ微かに震え、建物そのものが怯えているかのように見えた。
「駄目だ! このままじゃ、彼女は耐えられない!」
私には見えていた。七葉真の命の気配が、刻一刻と弱まっていくのが。
今の彼女は、たとえ私が魔法で生命力を支えたいと思っても、どこから手をつけるべきか分からなかった。
霊子魔法の影響下で、ほかの魔法を無理に干渉させれば、彼女の命の安全はとても保証できない。
その時、思いもよらぬ光景が目の前に現れた。
妲己が一気に前へ駆け出したのだ。紫の衣を翻しながら、彼女は尾を大きく広げた――すると、八本の尾が鮮やかに姿を現し、その先端には強烈な魔法の光が咲き開いた。
その姿を見た悪鬼は、思わず目を見開き、信じられないものを見たような表情を浮かべた。
「あり得ぬ! まさか、おまえは……!」
だが、悪鬼が反応しきるよりも早く、妲己はすでに自らの領域魔法を発動していた――妖狐之餽贈。
それ(それ)は、自らの生命力を純粋な魂の力へと変換し、その力を他者の魂体へ注ぎ込む魔法だった。
魂の構造を安定させるだけでなく、その作用は魂の最深部にまで届く。
だが、その代償として、術者の命は少しずつ燃えていく。
金色の光輝が、妲己の掌から七葉真の胸元へと流れ込んでいった。
その光は温かく、それ(それ)でいて揺るぎなく、まるで川の流れのように穏やかでありながら、決して抗うことのできない力を帯びていた。悪鬼によって歪められた彼女の魂体を貫き、そのまま魂の核にまで届いていく。
緹雅が展開している領域魔法による抑圧、
さらに妲己の「妖狐之餽贈」がもたらす、魂を縫い合わせるような補修と安定――
その二つが重なったことで、七葉真の内に付着していた魔法は、ついに崩れ始めた。
最初は、ほんのわずかな亀裂にすぎなかった。
だが、それ(それ)はやがて硝子のひびのように伸び、広がり、
そして最後には、妖力と魂力が交錯する眩い光の中で――
無理やり引き剝がされるようにして、体内から抜き取られた。
その瞬間、七葉真の身体は激しく震えた。まるで魂を深く引きずり出されたあと、再び無理やり身体の内へ押し戻されたかのようだった。
一方で妲己は、その反衝をまともに受けて顔色を一瞬で蒼白に変えた。
それ(それ)でも、彼女は半歩たりとも退かなかった。
「くそ……! たかが小娘ひとりを救うために、おまえたちはそこまでやるというのか!?」
怒号が、七葉真の身体の奥底から爆ぜるように響き渡った。
魔法が無理やり引き抜かれていくのに伴い、もともと毒霧のように彼女の身にまとわりついていた邪気も、引き裂かれるようにして剝がれていく。
轟――!
暗紅色の影が、彼女の体内から力ずくで引きずり出され、そのまま追い払われた悪霊のように殿堂の中央へ叩き落とされた。
邪気は濃煙のように空中で渦巻き、鼻を衝く生臭さと、底知れぬ怨念を撒き散らしていた。
憑依の拘束を失った七葉真は、糸の切れた傀儡のようにその場へ崩れ落ちた。
その気息はあまりにも弱々(よわよわ)しく、まるで魂がまだ完全には身体へ戻りきっていないかのようだった。
そして、彼女から引き剝がされたその邪な影も、ついに私たちの前で真の姿を現した。
その身躯は山のごとく巨大で、顔には横肉が幾重にも重なり、醜悪に歪んでいた。
両眼は血のように赤く、深淵の底で燃えさかる狂気の妖火そのもののようだった。
頭には重々(おもおも)しい鉄兜を戴き、その半面が顔を覆い隠している。
片手には酒壺を持ち、もう片方の手には、怨念と血臭を染み込ませた金棒を提げていた。
その妖気はあまりにも濃密で、もはや実体を帯びているとしか思えず、その圧だけで神殿全体がかすかに震えていた。
これ(これ)は、ただの悪鬼ではない。
伝説に語られる大妖怪――酒吞童子だった。
私は倒れている緹雅と妲己へ視線を落とした。
緹雅の顔色は蒼白で、息は乱れていた。雅妮と三姉妹は、そんな彼女を囲むようにぴたりと寄り添い、一瞬たりとも気を緩めまいと固く身構えている。
普段なら自信に満ち、冷静で揺るぎのない光を宿しているその瞳にも、今は隠しきれない疲労と激痛の色がかすかに滲んでいた。
そして妲己は――
さらに酷い状態だった。
彼女はすでに完全に意識を失っており、八本の尾は焦点の合わない幻の光のように、明滅を繰り返していた。
妖気はまだ消えきっておらず、なおも彼女の傍らにたゆたい続けている。まるで命を燃やし尽くしたあとに残された、かすかな余韻のようだった。
その光景は、私の胸を強く打った。
彼女たちは、いったいなぜ……ここまでしようとするのだろう。
私は思わず胸中でそう問いかけた。
疑問はなお心の奥に渦巻いていたが、それ(それ)でも、我が身を燃やしてまで七葉真を救おうとした彼女たちの姿を目の当たりにした今、その迷いは深い敬意によって押し流されていった。
もはや、これ(これ)をただの「任務」で片づけることはできない。
単なる善意だけでも説明がつかなかった。
ここまで一切ためらわずに自分を差し出すその姿は、むしろ――
ずっと以前から胸の内に抱き続けてきた覚悟そのもののように思えた。
「……彼女たちは、なぜ七葉真のためにここまでできるんだ……?」
理由はまだ分からない。
それ(それ)でも、ひとつだけ確かなことがある。
彼女たちはこの瞬間、持てる力のすべてを注ぎ込んで――
あの少女の魂を守り抜いた。
そして、その行動そのものが、私にとって心から敬意を払うに値するものだった。




