第九話 どうやら当たり前ではなかったようです。
こんなの、どうすればいいの?
例えば自然由来の災厄、人知の及ばない現象を前にしたような、ある種の茫然に全身を支配されていた。
崖から見下ろせたのは、地の一面に“嵐で荒れた海”のような脈動を作り出す、生物体躯としての限界を極めたような巨大蛇だった。――その頭部には、鰐を象形したと思われる頭が備わっている。
崖に囲われた地形の見渡す限りに、とぐろを巻く胴体が、波打っていた。
震えながら、「別の道を探しましょう」と提案しようとした、その時――。
「あとから追われると厄介かもね。フッ……ボクが行こう……」
「私も行きましょう。ネアさんとアダムスさんの、どちらかはここに残ってくださいなぁ。怯えた様子だけ子兎じみた蛇目の彼女を、守らなくてはなりませんからぁ」
「両方残ろうかな、大丈夫そうですか?」
「こちらは任せてくれ」
自分の安全にも思慮が及ばず、いや全員で行けよと声が出かかりそうになったところ――セレネとアマリリスは迷いもなく、人間が飛び降りていい高さではない絶壁下の宙へ、身を躍らせていた。
大蛇が立ち昇る。
立ち昇る――ギチギチと不吉な音を立てながら、胴を天高く昇らせたその様は、地上に現れた悪夢のようだった。
かけ値なく、これ以上を想像できない脅威として、この目に映った化物を前に。身軽に躍り出た二人は――恐怖と対極の感情を溢れんばかりに、露わにしていた。
どうやってか何事もなく、セレネの足が地に着いた、その一拍後――。
「ボクの左目は――……」
喜色満面の笑みに輝く、水面鏡のような色合いの瞳が、大蛇の全景を捉えた。
「『私が消費した生涯魔力の総量を、瞳に映した相手が最も致命とする属性魔法に変換して、無条件に顕現させる』、呪われし左目だ……!」
――宙空から、黒紫の薄靄を纏った、巨大な剣のような象形物が、空を見上げる限りの無数で出現した。
現れたその刹那、尾を引く軌跡すら目視できない速度で降り下ろされたそれらが、波打つとぐろを貫き胴を地へ磔にした。
大蛇の絶叫が、鰐の口から震えて轟く。いやお前が叫び声を上げるのかよと、いやに冷静な声を内心で思わず漏らす。
「あらぁ、『毒』、ですか? 【魔力の毒】……蛇に毒とは、なんだかシャレオツですわねぇ。では、その毒――私が癒してさしあげましょう」
次いでアマリリスが、地上に磔の有様にされた蛇の胴へ触れた。
「――あら、触れただけで、私の体に毒が。すごい肉体ですねぇ、癒すに崇敬の情も覚えるというものです。では――」
――地に満ちて広がる大蛇の絶叫が、大気を震わせるほどまでに苛烈さを増した。
「――これが私の女神秘術。どんな怪我でも治せます。そして、どんな肉体であろうとも、昇天するまで癒してさしあげることができます。治癒の暴走で朽ち果てるまで、己が治癒力を使い切ってしまうことは自己責任。気持ちいいですかぁ? 唯一無二たる、アマリリスの、女神秘術の癒しはぁ」
悪魔みたいな笑顔を浮かべるアマリリスに成す術なく、大蛇は肉体を内側から気色悪く波打たせ――見る間に痩けて、枯れて朽ちて倒れ伏した……。
…………。
粗暴の方面に無知な私でも、ハッキリと分かる。
戦力は足りている。
今一度、その真実性を知る。
ここまで来ると、もはや恐ろしいとかはない。
私は目の前にして、ただ呆れている。
「お待たせしましたぁ。――あら、子兎みたくのご様子から、蛇女じみた見目に戻っちゃいましたねぇ。ウフフ」
「フッ、この呪われし左目を使ったのは……久しぶりだ……」
二人が戻ると、「お疲れ様ー」とか「筋肉」とか、なんでもなく迎え入れる埒外の輩共を隣にして、私は……常識の境界が揺らぐ心地や、戦慄の心境なども後回しに、一つのことを実感していた。
この旅は、成功するかもしれない。
荷物持ちのスペシャリストさえいれば。――確かに今や、この旅の障害は、その一点のみであるようにも考えられた。
これまでからも計れなかった、力量の凄まじさを“実感”として理解し、――希望を抱く。
「うっ……左目の力にひかれて、ちょっとだけ体内魔力が荒れている。ヴィオラ、『収納』の空間倉庫から、魔力調律の飲み薬を取ってくれる?」
「ん――ちょっとお待ちなさい。イタズラに空間魔法を使うことは得策ではありませんわぁ、ただでさえ顔に似合わず子兎のように繊細なお人なのですから、力を使いすぎて、もはや荷物持ちにもなりませんでした、なんて事態になることだけは避けなければ――」
お前は本っっ当に、いちいち毒吐いて煩くしなけりゃ会話できないのか。スラム街で番でも張ってたの? そうじゃなきゃ説明のつかない品性だけど。
薬を出すくらいなんでもないわよ。はい、これでしょ。
「…………」
「…………」
すると、なぜか薬を受け取る様子もないセレネと、隣のアマリリス――よく見れば、ネアもアダムスも、私のことを、なんだかじっと見つめていた。……なによ?
「今の――どうやったの??」
どうやったって。
亜空間の『収納』に手を伸ばして、飲み薬を取り出しただけよ。
「亜空間から物を取り出したって……。『取り出した質量分の二乗魔力』の消費は、『質量収納の法則』から、使うはずでしょう? いま……鞄から出すみたいに、魔力を消費せずに取り出したように見えたけれど……?」
……? 専門的な話は分かんないわよ。
取ったり放り込んだりするだけなんだから、魔力なんていちいち使わないでしょ。魔力ってものが、そもそもイマイチどういうものか分かってないけれど、やってることは『収納』の空間を開く時に、指先に力を込めるだけよ。
「……僕の左目の『魔力の無条件顕現』は、左目を媒介に世界から魔力を召喚しているって解釈で説明することができるけれど……でも、亜空間から物を消耗ナシで取り出す法則や方法なんて、ボクでも今すぐには考えつけないよ」
し、知らないわよ。
これって当たり前じゃないの?
誰にも、何も言われたこともないし。
まあ、元婚約者や使用人くらいにしか見せる場面もなかったけれど……。
「――なるほど、『特別倉庫番』に選ばれる人材……フフフ。ただの蛇の如き心の悪が顔に出ている女ではなかった、というわけですかぁ」
お前は鏡を見ろよ、一度でいいから。自己紹介か?
――ちょっと。私はあくまで、これ以上のことはできない『非戦闘員』だからね。必要以上の期待を寄せられても困るだけよ。
「そういうつもりではぁ。しかし……なるほど。そうなると、先程のネアさんの判断はまさしく正当なものでしたねぇ。今後は少し、気を配りましょうか」
「そうですね、ヴィオラさんは、『目を離すと気づけば死んでいた』なんて事態がありありと想像できるお方ですから、意識しておきましょう!」
「了解」
「筋肉」
…………まあなんだかよく分からないが、私の安全度が上がったという解釈でいい、のか? まあ、それならそれでいいか……。
――ふと、あの組織課の探索士、カイルの言葉を思い出す。
貴方様にしか頼めないことであるということです――。
あれは、まったくのおべんちゃらというわけでは、なかったのか。
たまたま、うってつけの魔法だったということか。……それにしたって、室内育ちの令嬢を魔王討伐の旅に選出するという考えに至る脳は、ネジが数個外れているとしか思えないけれど。
しかし。
とにかく。
私が成せるのはそれだけだが、功を上げるには、それで――いるだけで十分であるということか。
希望は見えた、僅かな光明であるが――、しかし、この足を進ませるには十分だった。
「ふふ、凄いですねー。実は、私はこの旅は十中八九、道中で無残に果てるものと思っていましたが……しかし、小さくも希望が見えた心地です。もしかすれば、この旅路は、最後まで踏破する未来こそが終着点であるのかもしれません」
――――返り咲く。
私は返り咲く。
黒い炎のような情念が、身体を駆け巡る。
いま改めて湧き出した、野心というものが、私をこの環境へと強く順応させ始めた瞬間だった。
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