第十六話 私は選ぶようです。
「来い。少し話そうか」
どういうつもりで声をかけてきたのかは分からない。
どうあれ、たった一念で全てを決定づけることの叶う立場からの声に、根が張ったように体を強張らせながら、言葉の行方、これから何が起こるのかを見定めようとする。――意外にも、屈服し相手におもねるような姿勢ではなく、むしろ対峙の構えで向き合おうとしている自分があった。
何をしても、どんなに矮小で醜い様を晒そうが、絶対に生き残ろうという自分があると思っていたのに。
いざ絶望の淵、他者に命運を握られる瀬戸際に陥ったそのとき、脳を焼くように湧きあがった一念は、「無様にだけは死に終わりたくない」という執念だった。
――魔王が、誘うように半身で背を向けて、私を促した。
震えながらも、強張った両足を地から引き上げて、進む。――通路に広がるネアの傍を横切り、その臭いがリアルに知覚されたそのとき湧きあがったものを、渾身で、無理やり飲み下す。それを彼の間近にぶちまける無様だけは許せなかった。
飲み下した吐瀉物で胃が焼けるような感覚を味わいながら、魔王の後ろにつく。彼は未だ立ち止まって待っている。――フンと、か細い鼻息を漏らし、私は彼の横に並び立った。
そうして、どちらともなく、歩み始めた。
「魔王とはなんだ?」
……知らないわよ。何も知り得ないわ。
「では、魔法とは? 魔力とは、そして魔族とは? ――その程度の理解度か。まあ、時間が経とうと、そうだろうな」
なんの話なの?
「――昔、とある泉があった。女神の住む場所に通じる泉であり、それを見つけた人類種族の前に、女神は姿を現して言った。
『この泉を汚さないと誓うのであれば、あなた方の願いを、三つ叶えましょう』」
……大盤振る舞いな神様も、あったものね。
「ふっ、そうだな。考えるに、神にとってそんなことは些事であったのかも分からない。――人類種族は願った」
『不安を振り払う力が欲しい』
――それが、そうして人間に与えられたのが、魔力? 魔法という方法――?
「続けて人類種族は望んだ」
『卓越を備えた肉体が欲しい』
「その願いに応え、女神は人類種族に、魔力という概念を与えた。発見が得意な人類種族だ。その力を行使して、魔法という現象を発現させるに至るには、時間はかからなかった」
……? …………。
――――まさか。『不安を振り払う力』とは、その正体は……。
魔物?
「そして、人類種族は三つ目の願いを――願わなかった」
……取っておいたってワケね。
「その通り。そしてしばらくの時間が経った。人類種族は災厄に見舞われた。大きな被害が出た。そして、泉の女神に、三つ目の願いを、望んだ」
『私たちを幸福に導く存在が欲しい』
…………。
それが、あなたってワケ?
「そうして私は知を有して生まれた。この世界における、女神が知り得る範囲の、あらゆる知を。だが女神は人類種族を分かっていなかった。そこの知は欠けていたのだ。人類種族が考えた『最良の幸福』は、上流層における完全な『掌握』だった。私を頂に据えて、願われた『幸福』は実現された。そして、上流層として生を謳歌した彼らは、時が経って没した。私一人が残った。『掌握』だけが残った」
…………。
「幸福に導く存在として、幾多の問題を解決するうちに、気づく。私の役割はとうに終わっている。だが――『幸福』の名の元、たった一個体である私が支えた小さな国は、もはや私なくして成り立たない構造になっていた。今更どうこうできる形状になっていない、果てしない時間の末――遅すぎた。
私にできる事とはなんだ?
幸福に導く存在として願われた。最良の幸福とは? この世界で『最良の幸福』を実現できる方法は? ――私は人類種族を見続けて、考えた。
矜持の折損、友情や愛情の喪失、信念の崩壊、夢の瓦解、健康の失し、若さの亡失、名誉の失墜、はたまた死別――。
人類種族は失われるたびに、不幸になる。――では、最初から失われるものがなければどうか。失われる不幸が無い、それは『最良の幸福』といえるのではないか――?」
…………どこかで、聞いた話ね。
「そうなのか? ――『最良の幸福』を実現する手段は限られている。そして私が支えるべき国は、すでに『掌握』の中にあった。やれることは、目の前にあったのだ。究極の『掌握』さえ実現することができれば。例えば、決して不幸にならないということが、幸せだと考えるのなら。『最良の幸福』を実現できるだろう。時間は無限にある、私は焦らず、私にできる事を執り行い始めた」
――そうして今現在に、辿り着いた。
「そういったことだ。しかし……『最良の幸福』に抗う者たちも、永遠のような時間の中で、現れ始めた。私を据えた“国”ではなく、私という“個”が、人類種族と対峙するようになった。次第にその機会は無数になっていった、だが……人類種族と私の存在差は、歴然だった。そう、最初は――……。
人類種族は発見が得意……人類種族は魔力の潜在性に気づき、それを進歩させる迅さは、完全なる掌握を執り行う進行度とは比にならない速度だった。やがて魔力を持つ民は世界に広がり、長き時間の果て、ついには魔力という概念は世界における普遍のものとして定着した。そのような中で、私に挑む者たちは『勇者』と呼ばれ始め、一方で私は『魔王』と呼ばれ始めたが……『勇者』と呼ばれる者が歴史の裏で多く台頭した時代は、ひと昔前にも、終わりを告げた。人類種族は、己が国の直面する、目の前の難事に注力することを選び取り、私の『掌握』を後回しにした。決定的な失しより、まず何よりも、目の前の失することを恐れたのだ。『勇者』と呼称される者たちは、次第に数を減らしていった」
…………私を、封印の巫女と呼んだのは?
「歴史の中、特に私へ迫った、三つの力があった。
一つは『尽くされた力を魔法結果に変える力』。個人の尽くせし生のみならず、人類種族の尽力さえもを範囲とし、尽くされた力を世界から無条件に召喚し、相手の致命となる魔法で顕現させる力。
一つは『無尽蔵たる癒しの力』。どのような方法でか、泉の女神へ『四つ目の願い』を望んだ者が備えた力。自身は生命力の尽きない限りは決して死なず、そして全てを癒した。
そして最後の一つは――『全てを亜空間の中へと封じることの叶う力』。この世と別の法則で存在する創造された亜空間へ、世にある全てを例外なく封じることの叶う魔法。私を封印しようと企んだ秘術、最も私を危機へ追い込んだ魔法だった」
魔王は立ち止まると、隣で立ち止まった私へ、左手の指先を向けてきた。
意識が、現実が、遠のいてゆく――……。
『ハハハ、楽しいねぇ!! こんなに楽しいのに、何故お前はそんな顰め面をしているんだぁ?? ――ああ、肉を抉られても、血を無くしても、楽しい……! ――お前はこんな世界で、なぜ顰め面をしている? 本当は正しくないって、楽しくないって、分かっているからじゃないか? ハハハ、こんな楽しい世界だ、どうせボクが死んでも、同じようにお前に立ちはだかる酔狂が現れるだろうよ。クク、クハハ――私は!! 心の底から、人生が愉快だよ!! 今が、今こそが、すっごく、楽しいねぇ――!』
『…………癒し手は尽きません。これは確信です。女神の魔法は必要とされ、世界に広がって……きっと再び、女神魔法の癒し手は、あなたの前に現れるでしょう。人は癒しを求めている、けれどそれは、欠けたものを不幸に思うばかりではない。幸福を求めるということでもあるのです。それこそが尊い……。癒し手は、必ずまた、あなたの前に現れる…………』
『――――あなたの野望を砕くべく立ち上がる者は、いつの時代もまた必ず、現れます。たとえ『勇者』という概念が忘れ去られたとしても。あなたの掌握がどれほどの強大になったとしても。『封印の力』を受け継いだ誰かも、また……いずれは、あなたの野望に立ち塞がる。
そう、たとえその者に、勇気がなかったとしても。
たとえその者が、悪だったとしても。
人は、自身が求める先の幸せこそを、何より、求めずにはいられない存在なのだから。何をも求めさせないあなたの野望は、決して人類種族と融和しない。あるいは私たちが心で望んでいる運命に惹かれ、導かれて、きっと、いつの日かあなたの歩みを打ち砕くでしょう。いつの日か…………』
――……薄暗いのに視界の通った、青色の室内景色。
現実の光景が戻ってくる。
「なにを戯言をと、正直、思ったものだが……しかし実際は、こうして再び、それぞれを継ぐ者が私の前に現れた。運命など戯言だと考えていたが、それに関しては、私が間違っていたようだ」
いつの間にか、魔王の手には、抜き身にされた剣が握られていた。
「――私がどうして、こうして手も出さず、話に興じていると思う? お前が【封印の巫女】だからだ」
言うと、私にも目視できる速さで――魔王の剣が、私の首元へ、鋭く振られた。
死――……。
「世代を経るごとに、私へ迫った三つの力は、私へ抗するように、力を増していった。【封印の力】は特に顕著であった」
――……死んで、いない。
見れば、見慣れた亜空間に満ちる光が、汗の伝う首筋で輝いていた。
魔王の剣は、彼の手元から、消失している。――いや、違う、私の亜空間に、『収納』されている。
「滅ぼそうにも、【封印の力】を潜在的に継ぐ子孫は世界に広がり、また、打って出るには時期尚早だった。【女神の魔法】も然り、【無尽蔵の力】は秘されるように守られていた。――私は滅ぶだろう、今まさに瀬戸際というわけだ」
――そう、ご愁傷様。
いい気味ね。
「だが、お前が私の味方に寝返るのであれば、まだ分からない」
――は?
「お前が私の味方に寝返るのであれば、まだ、分からない」
…………。……………………。
話の方向性を、私をすぐに殺さなかったわけを、ここに至り理解する。
魔王が一つの扉を開き、その奥へと、姿を消した。
私もそれに続く。
私たちはいつの間にか、地表のあらゆるものが小さく見えるほどの高さまで昇っていたらしい。
果てが見えぬほど天井の高い、広大な一室。
その壁面には、巨大な一枚の景色を嵌め込んだかのような、スケールを測れないほど大きく切り取られた窓が穿たれていた。
「もしも、私の側に寝返るのであれば。魔法による契約を結び、お前だけは『掌握』の対象外に据えることを誓おう。ここから見える都はお前のものになるし、完全なる『掌握』を実現した暁には、世界の半分をお前に渡すことを約束する。――嘘を吐く意味はない、お前には寿命がある、いずれ自然の理により召されるのだから。だがお前が生きている間は、世界の半分を征する天上の者となることを、約束しよう。このように火の消えた都ばかりではない、お前は『掌握』の時を列に並び待つ、私が征圧した地を統括すればいい。そう、お前のためであれば、地の果てから虱潰しに『完全掌握』していく今のやり方さえ変えよう。いずれは全てがこの都のようになるが――お前には関係のない話だろう、数百年は先の話だ。お前は生きている時間、意志ある人間の、天上に座ることが叶う。そうなったとき、私の力はお前の力だ。私にとって不利のある取引ではない、嘘をつく意味はない。今や【無尽蔵の力】さえ、“別定理の世界”へ【封印】することの叶うだろうお前がこちらにつけば、確実に、それも余裕をもって、危難を切り抜けられる。【封印の力】の使い方は、私が教えよう。先ほどのような『記憶の魔法』を使えば、ものの数秒で、モノにできる。――――どうする?」
――――……正直、これ以上はない、魅力的な提案だった。
垂涎……まさに垂涎の提案。
返り咲くという点において、それ以上はない、実現の展望図。
火の消えた都を見下ろす。
こればかりではない――世界から、この景色を見下ろせる。
世界の天上から。高らかに、笑って。
この脳に目まぐるしく渦巻く思い――高揚、陶酔、歓喜、滾り、恍惚、熱狂、富、権力、栄華、栄誉、贅沢、絢爛、支配、影響力、誰にも頭を下げない生活、誰からも傅かれる生活、欲しいものを欲しいままに手に入れられる、気に入らない者を追い払う、他者を意のままに動かす、自分の命令で人々が動く、世界の半分を思うままにする、欲しい人間を身近に置く――……。欲しい人間を……――。……ガキじみた魔術師からもらった心配、文句も言わない筋肉騎士、文句しか言わないクソ聖女、自己犠牲を自己犠牲とも思わない馬鹿王子。微笑みをもらう、気遣ってもらう、心配してもらう、待っていてもらう、他愛のない話をする、何気なく名前を呼んでもらう、面と向かって馬鹿にし合う、命令ではなく笑ってもらう、地位ではなく自身を見てもらう、畏怖ではなく親しみを向けてもらう、忠誠ではなく信頼を寄せてもらう、支配ではなく――義務ではなく、強制ではなく、隣に立ってもらう。
並んで歩く、同じ景色を見る。
母の死以来、初めて人の死で涙が浮いたことを、与えられた欲望の対の天秤皿にかけて、考える。
――――なぜでしょう?
想像の中で高らかに笑う私は、どうしてか、どこかぎこちなくしか、笑えていなかった。
――――断る。
「――――なに?」
断る、と言った。
私の答えよ。分からなかった?
「…………何故?」
魅力的な提案に聞こえなかったから。
「……。…………。………………………………。お前は。私がお前を殺せないと、もしや、そのように考えているのか? 精神の魔法は届くと証明したはずだ、それともよく分かっていなかったのか……? 死よりも残酷な方法を取ることも、できるというのに。現状を正しく、理解しているか?」
……あなたは。
私が断りの言葉を告げたその時、私にも意外なほど、驚きを露わにしていなさったわね。
「まあ、な。お前は、私を頂に据えた人類種族と、同類の狢であるように見えたからだ。勇者と呼ばれていた者たちとは、明らかに気質が異なると見て取れた。私を頂に据え、支配と掌握を望んだ彼らに、性根でいえばずっと近い」
ふん、そうでしょうね。
「ではなぜ、拒絶の意を示した? スケールが大きすぎるからと遠慮するような性質でもあるまい。それくらいのことは、長く人類種族を見つめてきたこの目に、はっきりと見て取れる」
――決して不幸にならないということが、例えば幸せだと考えるのなら。
「…………」
失われることこそが不幸。死は不幸でない、だから、生きながらに、それに近づく方法があれば。そのような思想から今の完全掌握たる支配があるのだとしたら。
「あるのだとしたら?」
あなたの幸せとは何よ?
「…………。私が幸せである必要はない」
馬鹿馬鹿しい。
人はね、本当は誰しもが分かってる。
求める先だけに、幸せがあるということを。
ふと出逢った幸せがあったとしても、それは、ずっと求めていたものがたまたま手に入ったということでしょう。求める先にだけ幸せがある、力足らずで手に入らない苦難と葛藤を乗り越えてでも、遮二無二にそれを求めようとする姿を、長く人類種族を見つめてきたというその目で見て、あなたも知っているはずよ。
でも……。
そのために、たくさんの判断に齟齬が生じるのも、人間なのよ。
自ら私を潰れ役に選んでおきながら、今わの際、私を逃がすよう働きかけた王子がいた。
悪魔と呼びながら私を守るよう心を配ったチビ魔術師がいる。毒々しい愉悦を第一としながら治癒の尊さも忘れないクソ聖女は、自分で気づいていたのかは知らんが、最も死に近い私が傷つかずに済む場所へと何気なく遠ざけようとしていた。筋肉騎士は……あいつはよく分らんが。
どんな時でも、幸せの意味たる指針に従うから、時々――頻繁に、そういった齟齬が生じるのでしょう。
「いったい、なんの話だ?」
私がなぜ、あなたの誘惑を断ったのかという話よ。
答えてあげるわ。
タダ乗りしようというお前の未来には、私が心から高らかに笑う、それに足るたった一つが足りていないのよ。
「そのたった一つとは?」
私は、自分でも信じ難い心境で、まるで小さく笑うように、それを口にした。
――……隣人の、存在よ。
「――――正気、か? いや、本当の、本心、か…………? ――お前のような人類種族が? お前のような、社会の厳しさに私的な情をすり潰され、社会における顔と私生活における境界さえ失い、他者をただ利用するためのモノとしてしか見られなくなった、もはや、どのような場にあってもそのようにしか振る舞えない、社会と個人の自己同一性を失したお前のような人類種族が…………隣人だと?」
……私の人生で、私が、ここまで歩んでしまったその清算が行われたのだろう。その結果がこの答え。……大したものね、ゆえに、人類種族の勝ちよ。
幸せを求めもしないお前と二人ぼっちだなんて、死んでも嫌だ。
もっといい条件持って出直してこい。
「…………。――そうか」
万策尽きた。
さて、どうなるか。
私たちが死したとき、また私たちのどちらかが呼び出す意思を発したとき、セレネの魔法で、あちらにそのことが伝わる手はずだった。……時間は稼いだ。
大窓に近寄り、都を見下ろす。――荘厳な眺めねぇ。山々の稜線さえ見渡せて美しい。馬鹿と煙は何とやらというけれど、こうして見れば、上に昇る意思を持たないほうが、よっぽど馬鹿に思えるわね。それでもあなたは可哀そう。最初から唯一の頂点であるなんて、どこを目指せばいいのやら。いやだからこそ、あなたは進むのかも。定めたただ一つへと。――でも、一つだけいいかしら?
「なんだ?」
あなたは暇潰しの目的を見出してるだけ。面白さも見出せない生き方を永遠続けてるだけ。
幸せを求めない人生なんか、これっぽっちも意味ないわよ。
「…………」
私に伸ばしかけていた魔王の手が、だらりと、僅かだけ下がった。
その時――――……。
「アダムス・チャージ!!!!」
爆破処理のような轟音と共に、部屋の扉がこちらに吹き飛んできた。
扉の一対が、強張った笑みを浮かべた私の、顔の真隣に猛烈な勢いで飛んできて、大窓へと突き刺さった。破片も飛び散らず全体に均一なひび割れの入った大窓から、ギギギと音立て顔を逸らして、入口方向を見やる。
「筋肉――ヴィオラ嬢、無事であるか!?」
今、お前に殺されかけたよ。




