6
家に帰った俺はシャワーを浴びてからゲームにログインした。
ツカサさんはお酒を飲んで酔っ払っていたからログインしてこないかと思っていたけれど。俺が謁見の間の端っこに座っているとふわりと玉座に黒い羽が落ちてきて瞬きした後にはそこにツカサさんが居て、思わず立ち上がる。
こんばんは、じゃないな。
今日はお疲れさまでした、というのも何かが違う。
初めて、俺はツカサさんにかける言葉を迷った。
「あの、ちょっと訊いてもいいですか!」
だから言葉を探すことにした。
「えっうん……」
意外なことを言われたというようにツカサさんは目を瞬く。
やっぱりツカサさんはツカサさんのままで。ずかずかと近づいた俺は少し照れてえへへ、と笑った。
「ツカサさんは俺のことが好きなんですよね、それで、特別な関係になりたいって仰ってましたよね!」
「うん……キスしたりする関係になりたいってことだよ」
念押しするように言うので、俺はほぼ一瞬だったけれど塞がれた唇を意識してしまって。
ついまじまじとツカサさんの唇を見てしまった。
よく文章で花弁のような唇、なんていう表現があるけれど。確かにツカサさんの唇は花弁みたいに綺麗だ。
その唇が自分に触れていたんだ、と思うとまたちょっと照れてしまう。
正直、唇をくっつけ合う感覚なんてほぼないと思っていたけれど。その行為をすることが大切なのだと今日知った。
「俺もツカサさんのこと好きです!」
「うん、ありがとう……」
宣言するように声を上げるとツカサさんがこちらを見つめたまま微笑む。
しょうがないなぁというような笑み。大好きだと思っていたその笑みが本当は違う感情を含んでいるということも、今日知った。
まだ自分はその感情をちゃんと読み取ることができないけれど。
それもいつか、わかるようになりたいと思ったのだ。
「ツカサさん、俺、ツカサさんが恩人って思ってくれたきっかけを思い出せないことが残念で、ツカサさんが他の誰かを罠にかけて飼おうとしたら嫉妬します。他のタンクでも、魔法使いでも……とにかく、誰かを特別に育てようとしたら悲しいです! キスするのは俺だけにして、特別になってほしいって思う相手も俺だけが良いです」
一息で言うと気付くと視線が下がっていた。
ちらりと目を上げてツカサさんを見つめると。ツカサさんは呆然とした顔をこちらに向けていて。伝わっていないだろうか、と俺は考えた。
「えーっとだから、俺と恋人、してください」
土壇場で出た言葉は何かが違う気がしたけれど。言いたいことを全部伝えられた気がして俺はにっこり笑った。
それからたっぷり一分ほどツカサさんは固まっていて。
滅多に起こらないネットワークエラーの可能性を俺が考え始める頃に漸くツカサさんが動いた。
空気が動く気配がして、身体が強く、抱きしめられる。
当然VRでその感覚は不完全で……実際を知ってしまっている身体が物足りなさを訴える。
「本当に? 直哉君……本当に、僕の恋人になってくれるの」
珍しくツカサさんが急くように言う。
目が合う感覚で、また、現実が欲しくなる。
現実のツカサさんは俺より背が高いのに。ゲームの中では俺の方が、少し背が高い。
「待ってください!……あ、違くて……現実が良いです、俺、ツカサさんに会って直接全部知りたいです、もう遅い時間ですけど今から……駄目ですか?」
そう言うとツカサさんの顔が歪んだ。
幼稚さを嫌悪されたわけではなく、その表情の変化が大きな感情によるものだということがわかるのは、ツカサさんが熱い感情をその眼に宿しているせいだ。
「明日じゃだめかな」
「いまからがいいです」
「うん……そうだね」
根負けしたように笑ったツカサさんがふっと消えたと思ったらメッセージアプリ経由で通話が来た。
『格好つかないんだけど、僕……直哉君に会っちゃうと何もしない自信がない……』
「俺、なにもかも初めてですけどツカサさんと会えるならいいです!」
『……うん、頑張るね……誓って悪用しないから住所、教えてもらえるかな』
何を頑張るのだろう、と思いながら。俺は喜び勇んで口頭で住所を伝え、メッセージでも住所を送った。
佐野と林が見たら『何やってんだお前ぇ!』と喚かれそうな所業だが、どうしようもなくツカサさんのことが好きだと気付いてしまったのだからもう、どうしようもない。
そもそも今すぐ会いたいなんて、無茶を言っている自覚はあるけれど。今日は土曜日で、夏の夜だ。
恋しくて会いたくて仕方ないから……仕方ないと思った。
二駅しか離れていないせいだろう。
ものの十数分でツカサさんは俺の住むアパートにたどり着いた。
学生専用のアパートは家賃が安いが、狭いのが難点だ。
辛うじてトイレとバスルームは別れているが1Kで八畳。
キッチンも部屋から玄関に続く廊下、というか通路にへばりつくように最低限。
試験期間中は目も当てられない状態になるが、盆に実家に帰る予定だったので掃除が済んでいたのが幸いだった。
ソファなんてしゃれたものはないのでローテーブルの傍の絨毯に座布団を置いた。
実家で不要になって荷物のついでに送られてきた、消費期限が迫っているドリップコーヒーよりは良いだろうと思って、不揃いなグラスに麦茶をいれることにする。
二時間ほど前に別れたばかりのツカサさんは俺と同じようにシャワーを浴びたのだろう。
整っていた髪が自然な感じに流れていて、そんな様も綺麗だと思った。
そして眼鏡をかけていた。
それが見慣れなくて、つい見つめていると目が合って。なんだか気恥しい気持ちになる。
えへへ、と誤魔化すように笑うとツカサさんが困ったような顔をする。
しみじみとゲームの中のツカサさんとそっくりなツカサさんが自分の住んでいるアパートに居ることが不思議に思えて。せっかく今すぐ会いたいと強請って来てくれたのだから話をしないといけないと思うのに、ツカサさんを見てにやけるのをやめられない。
「あの……直哉君」
「はい! ツカサさん!」
沈黙に耐えかねたのだろうか。
ツカサさんがこちらを見て口火を切った。
今日は土曜日、明日は日曜日。
いや、正確に言うならもう日付が変わっている。
社会人のツカサさんは日曜日に予定はないと聞いているけれど貴重なお休みだ。
時間を無駄にしてはいけないと今更のように気づいた。
「改めて来てくださってありがとうございます! 俺、せっかく恋人になれたので現実のツカサさんとちゃんとお話ししたかったんです。身長差とか、表情とか、やっぱりゲームと違うので……俺、ちゃんとツカサさんのこと知りたいし、俺のことも知ってほしい」
ローテーブルを挟んで向かいに座るツカサさんにそう告げるとツカサさんは照れたように微笑む。
その眼もとに滲む安堵と……見逃しようのない優しい甘さに、本当にこの人にとって自分が特別なんだと伝わってくるようで、言いようのない、幸せな気持ちになる。
自分も、そんな気持ちがツカサさんに伝わっているだろうか。
言葉ばかりではいけないと姉が言っていた。
男なら態度で示せ、と。
「直哉君、僕は君と恋人になれてもうすでにすごく幸せだよ……でも、君はもう少し考えても良かったと思う。だって僕と君が現実で会うのは今日が初めてだったし……僕が一方的に知って、想っているようなものだ。今日のことをなかったことにして、僕への返事を保留にしても僕は構わない」
そう考えているとツカサさんがそんなことを言ってくるので、俺は目を丸くする。
胸の奥がずきんと痛むのを感じて、それが何の痛みか考える。
悲しいのか、苦しいのか、それが、何に対してか。
「だって、僕は社会人で、君はまだ大学生。僕はもう二十七歳で君はまだ二十歳……もっと自分を大切に……」
「俺」
声を上げる。
わかっていないように思われていることは、なんだか心外だった。
自分は単純で、考え事に向かない性格だ。
だから向う見ずにみられることもあるけれど……これまで決断して、それによってもたらされた結果に後悔したことは一度もない。
自分が直感で、感情で選んだ結果は正解ではない場合もあったけれど、いつも満足していた。
だから。ツカサさんが、何か勘違いしている気がしたから……失礼だと思いながらもツカサさんの話の途中に声を上げた。
「最初はツカサさんとゲームするのがすごい楽しかったんです。優しくて格好よくて、いい人だなって思ってましたし、顔も声も好きだって思いました」
心に思っていることをきちんと言葉にするのは難しい。
けれどきっといま、この夜がこれまでの人生で最も大切な夜である気がした。
「俺、ただのネット上の友達だったらツカサさんをオフ会には誘ってません。今日まで恋とかの自覚はなかったですが……名残惜しいって思ったのも、綺麗だって思ったのも、すぐ会いたいって、会ったらキスしてもらえるかもって思ったのもあなたが初めてなので、俺ちゃんとツカサさんの事、一緒に恋人したい感じの好きです」
やっぱり言葉は難しい。
ちゃんと言えたと思うけれどまだ足りない気がする。
だから俺はローテーブルに身を乗り出してツカサさんの手を握った。
エンジニアと言っていた、すらりとした手もやっぱり綺麗で、なんだか手を握ると恥ずかしいような嬉しいような、気持ちになって……真剣な話をしているのに、またえへへ、と笑ってしまいそうになる。
「それがわかったら一日でも無駄にしたくないんです。一日でも多く、好きな人と過ごした時間を増やしたいし……ツカサさん、人気だし、綺麗だから……はい、俺、ちゃんと嫉妬してます。いま思い出すと嫉妬してました」
そう宣言するとなんだか急に恥ずかしくなった。
脳裏を過るのは待ち合わせ場所に居たツカサさんだ。
あの時。ゲームの魔王様だと思った人がたくさん、ツカサさんを目で追っていたけれど、ゲームとは無縁そうな、綺麗な……俺より年上で、俺とは真逆の、きゃしゃで色白でお洒落で、ツカサさんと並ぶととてもお似合いに見える、綺麗な女性も確かにツカサさんを見ていたので……余計にそう思ったのだ。
そうだ。ツカサさんは俺とは違って、ちゃんと働いている二十七歳の会社員。
綺麗で、でも男らしくて、頭がよくて、優しい……ますます何故、俺を選んでくれたのかわからなくなってきた。
だって……あの居酒屋には俺以外にもバイトがいっぱいいて。女の子のバイトだっている。
酒に弱そうな人のフォローや介抱に回ることだって珍しいことではないのだから……もしも、その、ツカサさんが恩を感じてくれたあの日にツカサさんを助けたのが佐野や林や他のアルバイトの女の子だったら……ツカサさんはその相手に恩を感じてここまでしたのだろうか。
そのことに気づいた途端、息を吐くのすら躊躇うような、どろどろとしたものが喉奥に湧いて、驚く。
嫉妬、と呼ぶのも躊躇われるようなそれを……何と呼べばよいのだろうか。
飲み下すことも噛み砕くこともできないそれが苦しくて。俺は思わず縋るようにツカサさんを見た。
自分はいま、どんな顔をしているのだろう。
なにも取り繕えない。
「うん……ごめんね。俺が勘違いしてた。勿論、君が昔俺を助けてくれたのはきっかけでしかないよ。君が、僕じゃなきゃオフ会に誘わなかったと言ってくれたように、俺も君じゃなきゃわざわざ魔王になってゲームの中で関わって酒飲めないのに居酒屋に通ってゲーム仲間で満足できずに告白までするなんてこと、しないよ。当然二年の間、君を見て……笑い方も声も仕草も、言い表せないほどにいろいろなところを好きになったんだ」
いつの間にか強張っていた手をそっと握り返される。
指が絡んで、掌が重なって……親指で手の甲を撫でられると、なんでかひどく、甘苦しい気持ちになった。
急激に心が癒されるような感覚がして。逆にぼんやりしてしまう。
「君は学生で、僕は社会人。君は二十歳で、僕は二十七歳。君は明るくて友達が多くて、僕は友達がほぼいない……君は僕を知らなくて、僕は君を知っている……そんな現実を変えたくなるくらい、時々ぞっとするほどに君が好きだよ。念入りに確認してしまったのは……僕と恋人になってしまったら君、多分簡単には別れられないから」
静かな声が優しくて、やっぱり好きだ。
ずっと聞いていたくなる。
「別れません! 俺だって抵抗しますよ!」
反射的に声を上げたけれど、どうやって抵抗するかは思い浮かばない。
「例え話だよ、ごめんね」
ツカサさんが宥めるように笑うと、なんだかローテ―ブルが邪魔な気がしてきたので。俺は膝でいざって移動して、ツカサさんの隣にくっついた。
「僕、君に何も無理強いはしないからね」
「はい! 俺もしません! でもツカサさんもしたいと思ってくれてるのなら、キスはしたいです!」
優しい声が嬉しくて握った手をぎゅうっとすると指の股が痛くなった。
指を絡めて誰かの手を握るとこんな感じなんだ、なんて新しい発見をしながら俺は強請る。
気づいた時に重なっていて、その感覚を追いかける前に離れていたような、心の準備もないような、あんなキスではなく。ツカサさんとちゃんとキスがしたかった。
そんな気持ちのままにツカサさんを見つめているとふんわりとツカサさんの頬が紅くなる。
その綺麗な変化にまた、目を奪われて。これが恋人としての特別な表情なのだとわかるとますます幸せな気持ちになった。
「無理強い……したくないんだ。理性、削らないでもらえるかな。俺も男なんだ」
「はい! 俺も男です」
さっきも聞いた言葉だと思いながら悩ましい顔も艶っぽくていい、なんて思っているとふふっとツカサさんが笑って……ぐっと腰を抱き寄せられた。
上背があるけれどすらりとしているツカサさんの膂力に驚いていると頬を撫でられる。
あ、来るんだ。
キスしてくれるんだ、え、嬉しい。なんか、なんでかわかんないけど……なんか、唐突に求められると、うれしい。
そんなことを思いながら。俺は目を閉じてみる。
目を閉じると他の感覚が鋭敏になるのだろう。
ツカサさんからは自分の使っているものとは違う石鹸の匂いがして。温まった肌に吐息がかかる感覚も感じられて背筋がぞくりとした。
そのまま唇に柔らかいものが押し当てられ。思わず目を開くと目の前の、焦点が狂うほど近くに伏せられたツカサさんの眼があって。虹彩の模様すら 見える近さに、幸せで眩暈がした。
手は繋いだまま、けれどもどかしい気持ちを抑えるように繋ぎなおされる感覚に、思わず吐息が漏れる。
唇が開くとぬるりと唇を食まれ。新しく与えられた刺激に肩がぴくんと揺れた。
ちゅ、と微かな音がして。下唇を、上唇を順番に吸われたのがわかって。そのまま、差し出されるものを開いた唇の中に受け入れる。
髪を掻き混ぜられ、後ろ首を撫でられる度、繋がりは深まっていく。
そして視線を絡めたままお互いの前歯と犬歯の輪郭を確かめ合うように探り合うと体の奥に溜まる熱が、明確に身体を駆り立てるのがわかった。
恋人になったということは……『そういうこと』もするわけで。
けれど流石に恋人になった日にというのは駆け足すぎる気がしたので。俺はツカサさんからそっと離れて息を吐いた。
無理強いはしない、と言ってくれた通り、案の定ツカサさんは追いかけてこなくて。それに安堵しながらも少し、残念な気持ちにもなる。
そんなこんなでその夜はお休みのキスがちょっと長引いた以外は何事も起こらなかった。
ただ、やっぱり初めて恋人ができたことが嬉しくて。何等かのホルモン的なものが出ていたのかもしれない。
夜中に何度も目が覚めて。自分のベッドにツカサさんが寝ているのを見てついニヤニヤしてしまっていた。
ちなみにツカサさんは朝まで一緒に居たいけど同じベッドはまずいと言っていたが、俺の部屋には座布団がふたつしかなかったので不承不承、一緒のベッドで寝てくれた。
そんな浅い睡眠だったせいだろうか。
気づけば外は明るくて。眼を開けたら身支度ばっちりのツカサさんが蕩けそうな微笑みを湛えて俺が目を覚ますのを見ていて……幸せだったんだけど、やっぱりツカサさんが綺麗すぎてちょっと不安になった。
かつて佐野に飲み会の後連絡を欲しがる束縛してくる彼女がいたことがあったけれど。当時の佐野の彼女の気持ちが、いまの俺にはほんのちょっとわかってしまった。
飲み会がある日には家に帰ったら連絡くださいね、なんて言うとすべてを察したように笑ったツカサさんが直哉君もだからね、と溜息のような声で呟いて……うん、大変良い朝だった。
その日は居酒屋が定休日だったので、一日、ツカサさんと一緒に過ごした。
といっても他愛のないことばかりだ。
一緒に朝食を作ったりがっつりゲームをしたり、他愛のないことを話したり。
恋人らしいかと言われたら少し違う気がするけれど。自分達はまだお互いを知りあう時期で、そんな一日もとても楽しかった。




