とてつもなく、凄いお宿
第二章 クランクイン
*
確かに手が触れている草の感触も。辺りに満ちる草花の匂いも風音とその合間に聞こえる鳥の声も。本物に近い。けれどもそれら全てが偽物だと僕の直感が何故か囁く。確証も無いのに。違和感をずっと引き摺っていて。目に映る落ち着いた景色ですら空虚なものとして捉えてしまう。
「とても良い景色の筈なのに……何かが物足りない」
大きな窓がある広縁でラウンジチェアに座る僕は、絵本の表紙を撫でながらぼんやりと外の景色を眺めていた。森の小道の先で僕達を待ち受けていたのは『雀のお宿』。つまり今、滞在している宿場だ。薄明の空。闇夜が少しずつ駆逐され、世界の全てに付箋が貼られて行く。
「『兎と亀』……目新しさなんてこれっぽっちも無い。正直に言えば、再現何て簡単だ。でも其処が引っ掛かる。この題材が選ばれた理由。根っこが深い筈」
淡く光るテーブルランプの灯りを頼りに。
手元にある絵本の頁を。
僕は何度、捲っただろうか。
幾度と捲っても結末は、変わらないし。
ヒントも出て来ない。
「ゴール地点は、確認出来た。二人には伝えていないけど。昨日、あの看板を見つけた直ぐ後に池があってその横にゴールのバックボードがあった。後は、スタート地点だけ」
スタート地点は、恐らく僕達が目覚めたあの大木を挟んだ反対側だろう。
あの大木は、中間地点。兎が居眠りをするには、うってつけの場所だ。
「後は、この筋書き通りに茉白と玄香が動いてくれれば」
二人もやる気に満ちている。
くわえてこの宿でしっかりと休息も取れた。
コンディションも万全。
これ以上に無いお膳立てだ。
確実に達成出来る。
「だからこその—— 不安なんだよなあ」
何度、自分に言い聞かせても一抹の不安が過る。
「七時半か……八時に集合して朝食を一緒に食べようって言ってたよね」
昨日は、疲れで食欲が全く湧かず。だから備え付けの内風呂でシャワーを浴び、寝間着として準備されていた浴衣に袖を通し、微睡みながらこの広縁で過ごしていた。着ていた服は、内風呂に併設されている洗面所に洗濯機と乾燥機があったのでそれらを使い、綺麗になった。此処まで来ると本当に宿なのかと疑ってしまうのだけど。生憎、その疑問に答えてくれる相手が居ない。この宿は無人の宿だったのだ。
受付も無く。入り口に『当旅館は、全て無料です。ご自由にご利用下さい』と案内が書いてあっただけ。下駄箱にルームキーが掛かっていて。僕達は、それぞれ一〇一号室、一〇二号室、一〇三号室を使っている。客室の他には、大浴場とゆったりと過ごせるラウンジと食堂があり、客をもてなす設備は万全。不可思議なこの事件に巻き込まれていなければ、ずっと泊って居たいと思う程、居心地が良い。
「さあ、どんな食事が待って居るのかな? 楽しみだ」
流石の僕もまる一日、何も食べていないと腹の虫が鳴る。
歯を磨き、顔を洗って浴衣から服に着替えた僕は、客室から出て歩き出す。
「おはよう。茉白、玄香」
「おはよー、ネモくん」
「おはよう、ネモ君」
待ち合わせ場所のラウンジに着くと既に茉白と玄香が椅子に座って待って居た。
声を掛けると二人は、穏やかに笑いながら僕に挨拶を返して来る。アメニティに化粧品もあったのか。今日の仕上がりも二人は、完璧。
「よく眠れた?」
「歩き回った疲れでぐっすりだよ」
「うそこけ。目の下」
「もしかして……遅くまで起きてあの本、読んでた?」
「そんな無茶苦茶はしてな——」
僕がしょうもない洞察力を発揮していると二人も僕の顔を見るなり、手厳しい小言を言って来る。声や態度には疲れを滲ませず、気を配っていたのだけれども。顔は、正直だ。
折角のぱっちり二重も目を窄めている所為で台無し。気をつかわせたくない一心で僕が言い訳をしても二人は、信じてくれない。
「どうせ、用心深い君の事だ—— 人一倍頑張ろうとか考えて本の内容を一言一句、頭に叩き込んで段取りを考えたり。もしもに備えて不測の事態の対応策も検討したり—— してたでそ? 顔からやり切った感が出ておる」
「責任感が強いのは分かるけど……無理は、禁物」
「まあ、そんなに気にしないで。好きでやってるんだから。それよりも朝食を食べよう。二人共。昨日、夕飯は食べていたよね? どうだった?」
腕組みをして睨み付けて来る茉白と玄香。言い逃れが出来ないと分かった僕は、誤魔化す為に話題を変える。実際、空腹で思う様に頭が働かず、気が散って仕方が無い。
「何でもあり」
「食べたいもの、ほぼほぼ食べられる」
「食べ放題とか……ビュッフェ形式?」
「完全なセルフサービスじゃない……一応、オーダー形式かな? でも規模が違う」
いまいち、二人の言っている事が僕には理解が出来ない。
それならば、何処にでもある普通の食堂と何ら変わりないのだ。
「食堂の広さは?」
「小さな喫茶店くらいだね」
「客席は、四人掛けの席が四つに一人席が八つ。それ以外は、食事を頼むカウンターと受け取るカウンターがあるだけよ」
少しでも僕の理解を二人に追い付かせるべく、質問の角度を変えてみても謎は深まるばかり。僕の理解力が足りない所為か。それとも食堂には、斜め上を行く世界が広がっているのか。少なくとも痒い所に手が届くこの宿が僕の想像の範疇に収まる等、あり得ない。
「百聞は一見に如かず。見て貰った方が早いよ」
「そだね。ましろ、ネモくんの驚く顔がみたい」
「天邪鬼だなあ——」
「察して。説明がし辛いの」
「なるほどね」
二人が手放しで褒めるくらいだから期待は、出来る。椅子から立ち上がり、食堂へ向かう茉白と玄香に続いて僕も歩き出す。食堂と書かれた看板の下にある出入口を潜ると玄香から説明されていた通りの風景が広がっていた。白と黒を基調とした洋風のデザイン。設置されている家具も椅子と食卓だけ。窓の代わりで壁にはモニターが設置されており、今は海中の映像が映し出されている。
「ほんとだ。そんなに広くない」
「でそ? 本題は、アレ」
「タブレットで注文? それにしては、何だか台数が多い様な……」
「見れば分かるぞなもし」
二人を驚かせた理由。それは、注文用のカウンターに設置された幾つものタブレットだ。茉白に言われるがまま、僕はタブレットを眺める。
「こっちのタブレットに和食って書いてある。そっちは、洋食。で、その先は、中国……その次は、韓国料理……その次は東南アジア料理……まさかっ!」
「そいう事ー。世界の料理が勢ぞろい」
「びっくりでしょ?」
ニヤリと笑う二人に僕の前で僕は、目を丸くする。これがもし本当であれば、とんでもない話だ。何の変哲もないこの食堂は、どんな注文でも対応可能な究極の食堂だった。
「びっくり所の騒ぎじゃない。ほんとに出来るの?」
「うん。作って貰える。試しにギリシャ料理頼んでみたらホントに出て来たよ。葉っぱにくるまれた蒸しご飯と串焼きのお肉。後、薄っぺらなパンとヨーグルトのソース。変わった味だったけど、美味しかった。お手軽に本場の味がお楽しみいただけます」
「なるほど……玄香は?」
「あたしは……無難な和食を頼んだの。お寿司と天ぷら。お高いお店じゃないとお目にかかれない様な感じだった……とっても満足。言う事無し」
試しに和食のタブレットを操作して見ると、焼き魚の定食から始まり、ローカルフード、精進料理、懐石料理、会席料理、その他にも丼物、麺、鍋等、全てが揃っている。しかもそれだけでなく、単品の注文も可能でご飯物だけでも夥しい量の種類がメニューに載っている。勿論、これはほんの触りに過ぎなくて。




