沼
第二章 酒盛りは、仕事の後で
「文章の起こし、四つ目まで出来ました」
「意外と早かったな」
四つの場面を打ち込み終わり、僕は大きな伸びを一つした。ゆっくりと目頭を揉みながら心地良い疲労と戯れていると、恋司さんが体を起こす音がした。
「単調な書き写し作業でしたらそんなに時間は掛かりませんよ」
「残りは、明日以降でも大丈夫だ。明日と明後日で二つずつ改変を加えながら完成を目指す。此処からが勝負だな。気合入れるぞ」
「はいっ」
目を開けると幾分か、顔色が戻った恋司さんの姿が視界に写る。
大きな肩が僕の隣に戻って来る。
鋭い目つきで画面を覗き込む恋司さんを見て僕は、ほっと胸を撫で下ろす。
若葉さんと同じ緑色の目を見つめながら。
仕事終わりの息抜きを提案しようと思った。
「終わったら酒場に直行ですね」
「おっ、お前も分かって来たな」
「程々でお願いしますね」
「わあってるよ。明日からが本番だからな」
「午前中は、会話の読み合わせ。午後から撮り始めましょう」
「おうよ。まあ、やる事が盛り沢山ってのは良い。暇しないからな。それに働けば、働くほど、終わった後の酒が—— これがまた、格別に旨いんだ」
その格別な一杯の為に。
僕と恋司さんは、時間を忘れて『ロミオとジュリエット』と向き合ったんだ。
*
その日の夜。
とは、言ってもずっと夜だけど。
「マジで疲れた……」
「恋司さん、お疲れさまでした」
ビールのジョッキを片手に全力で薄暗い酒場の椅子に背中を預ける恋司さん。
僕は、向かいの席に腰を落ち着けながら恋司さんを労う。
「ネモ君、私もかなり頑張ったのだけど?」
冷ややかな声が僕を威圧する。その声の出所は、恋司さんの隣に座っている若葉さんからだ。とてつもないプレッシャーを全身で感じ、恐怖で僕の背筋がぴんと伸びる。
「若葉さん。勿論、下見があってこその成果です。本日、一番の功労者と言っても過言ではありません。若葉さんのフレッシュな視点、積極的な姿勢が無ければ……到底、成し得ませんでしたとも。お見事です」
「そうだよね……ネモ君、分かってる。素直な良い子」
小さな拍手と共に僕は、惜しみない賞賛を若葉さんへ送る。生死を掛けた生存戦略。
其処で張り合う必要はあるのかと思う。しかしながら僕に選べる選択肢は、一つだけ。
それは、全力で若葉さんの軍門に下る事。
ワインを片手に満更でも無い様子の若葉さんを見て僕は、安堵する。
僕の媚び諂う姿を見て恋司さんは、呆れ返っていた。
「その八方美人と風見鶏と太鼓持ちのトリプルパンチは、止めろ。お前の頭ん中は、事なかれ主義と日和見主義と権威主義のシェアハウスか?」
「誰も率先して近隣トラブルは、起こしませんからね。とても良い入居者さん達です」
「ネモ君、上手いね。酒の肴としてはサイコーだよ」
「アホか……」
冗談の応酬も慣れてくれば、心地好く思える。
少しは、恋司さんと若葉さんに近づけたような。そんな気がするのだ。
「それで恋司。首尾は?」
「まあ、良いんじゃないか? 明日の撮影には支障がない」
一気にビールを飲み干しながら恋司さんは、若葉さんの問いに雑な返事を返す。
「全行程は、七つ。その内の今は、四つ分しか書き切れていないので。撮影後に残りを明日と明後日に分散して終わらせる予定です。かなり過密なスケジュールですが……」
「撮影自体がすんなりいけば—— 幾らでも時間を回せる。足、引っ張るなよ? 若葉」
「その言葉、そっくりそのまま返すよ。恋司」
サイダーを飲みながら僕が補足の説明を付け加えるも二人の皮肉の応酬は、止まる所を知らない。顔を合わせれば、喧嘩ばかり。何が二人をそうさせるのか。記憶を失っても尚、残った感情と言う記憶の残り香がそうさせてしまっているのかもしれない。
「何方かと言えば、僕の方が足を引っ張りそうで怖いです」
「お前は、卒なく熟せんだろ」
「ネモ君に関しては、心配してないよ。君なら必ずやり遂げる」
不思議なのは、僕対する二人の評価が異常に高い所だ。
しかもどれだけいがみ合っていても。
言動と思考は、必ず一致している。
人の関係性とは、全くもってよく分からない。
「何だなあ—— 過信されるのもそれはそれで」
「過信じゃあねえ。何となく分かんだよ」
「うん。たった三日だけど。私は、君の性格から判断してる」
「左様ですか」
『左様』
二人は、揃って手に持っているジョッキとグラスを静かに掲げた。
戦前の決起集会。杯を交わし、鼓舞する儀式だ。
僕も二人の求めに応じて手に持っていたジョッキを掲げた。
出来る事は、やっている。だが、不安は尽きない。寧ろ、増すばかり。
物語を違和感なく完結させる段取りを組み、作者の趣向、趣旨にも沿っている。そして、僕たちなりのアレンジも加えて演者の意思も尊重しているのに。
それでも足りない何かがある様な。
鍵となる小片を見失っている。
僕の直感は、そう囁いていた。
消滅と言う二文字と焦燥感を紛らわす為に。
僕は、必死になって笑顔を浮かべていた。




