大義名分
第三章 何かが崩れ落ちる音
「諦めたわけじゃないんだ。でもね。何度、失敗してもこの穏やかな景色が変わらないから。多少、時間が掛かっても仕方が無いじゃないかって。気持ちは揺らいでた」
「そうね……だってこの停滞は、正直言って心地が良いもの。分かる」
「少しずつ飲まれて行って。最後には、どうでも良くなって。このまま、三人でのんびり過ごすのも悪くないじゃないかって—— 行き着く先は、終わりの無いユートピア。そんな世界に身を委ねてしまったかもしれない……」
何もせずとも生命維持に必要な環境が与えられている。口を開けていれば、ご飯が運ばれ、寒さや暑さから逃れられる住居も与えられ、生きるには困らない。
それは、誰もが望む理想郷だ。だが、其処に生の実感は無い。
「でもそれは、きっとあたし達にとっての正解じゃない。生きる意味を失われた明るいディストピア。あたし達である必要を奪われ、呼吸してご飯を食べてお風呂に入って寝るだけの機械ね。それをあたしは——」
生きる意味を見出す為に。人は、困難に立ち向かう。幸せを実感する為に。不幸を噛み締める。全てが満たされてしまえば、全てを失う。それが人と言う存在だ。
「否定したかっただけ。だよね?」
「うん」
僕達には、生きる価値が存在する。
証明しなければならない。
それが生物としての性だ。
「僕も茉白もきちんと分かってる。ちょっと向き合い方が分からなくて戸惑ってたんだ。決して君を否定したかった訳じゃない。受け入れる準備が必要だった」
「……」
一歩先を行く彼女へ追い付く為に。僕も一歩先へ踏み出す。
「だからさ。今度は、僕も僕を曝け出そうと思う。記憶も名前も残っちゃいないけど。でも此処に居る僕は—— 僕で間違いない。空っぽの器にも何かがある……筈なんだ」
「無理をしないで。ネモ君は、きちんと頑張ってる。認めて無いワケがないじゃない」
それまで無表情だった玄香の口元が少し緩む。思いは、伝わった。
僕は無事、玄香へバトンを渡す。次は、玄香の番だ。
「悪いのは—— あたしの方。きちんと伝わるよう言葉を選べた筈なのに。どうしても—— 駄目だった。何で何だろう……どうしてあたしってこうなんだろう」
「不器用なだけさ。生真面目が過ぎるから……でも玄香の生真面目さで僕は目を覚まさせられた。だから今も此処で君と向かい合う事が出来るんだ」
「……」
聞くだけで胸に針に刺された様な痛みが僕を襲う。
それでも理解をする為に僕は、必死に耳を傾ける。
「だからさ—— そんな悲しげな顔、しないで」
「だって!」
もっとだ。もっと聞かせて欲しい。その悲しみの本質に僕は、触れたいのだ。それまで気丈に振舞っていた玄香の鍍金がどんどん剥がれて行く。潤んだ瞳、乱れる呼吸、必死に押し殺そうとしても勝手に漏れ出て来る呻き声。
「だって—— だって怖いんだもんっ。右も左も分からなくて。明日の朝も起きて朝日を浴びれるかも分からないっ。明日もネモ君や茉白とお話が出来る保証もないっ」
遂に涙腺が崩壊し、幾つも雫が床に零れ落ちて行く。
「—— そうだね。何時までも結果が出せなければ。或いは——」
「そんなのイヤ……だから答えを出したかったのっ」
「分かる」
何の保証もない不確定要素に満ちた未来。翌朝、目覚めて己の生を実感して安堵し。気が付けば、また夜を迎え、言い知れぬ恐怖がやって来る。瞳を閉じたら最後かもしれない。誰もが恐れ戦く恐怖だ。玄香も例外では無い。真っ暗闇の中から少しでも希望を見出したい。それが玄香の本音。彼女は、今も恐怖と戦っている。
「だからっ! だからっ! 今のあたしなら素直に負けられるっ。明日が掴めるなら。どんなに悲惨な結末が待っててもっ……笑顔で白旗を振れるのっ。もう—— あの頃の手紙を台無しにしたあたしじゃないっ!」
「っ!」
思わぬ玄香の言葉に僕は、驚く。
「何で? あたし……今、何て言ったの?」
「分からない。でも玄香が自分と向き合って奥底に仕舞われていた深層心理ってヤツに触れたんだ。そうか。もしかするとあの手紙には—— もっと深い何かが」
本音を引き出した瞬間、深層心理に宿った玄香のトラウマに近い何かも引き出してしまったらしい。そして。玄香と茉白の異変は、矢張りあった。あの手紙は、二人の過去を繋ぐ大切なもの。忘れてしまっても心の奥底に響く強い力を持っている。キーアイテムを願ったが故。皮肉な事にヒントと言う形で二人の前に姿を現した。
「でもさ。君がそんな悲惨な覚悟を持って負けを選ぶ必要は無い—— と思う」
「……」
「君達二人の思いは、確かに受け取った。空っぽな僕に何が出来るかは分からない。でもね。君達二人は、きっと正しい。互いに互いを思いやった結果が。こんな結末で良い筈が無いよ。僕は、きちんと君達二人を繋ぎとめる」
どんな手を使っても。
「だから安心して。君が望む明日を。三人で一緒に迎えよう」
「っ!」
玄香の前まで近寄り、そっと彼女の手に自分の手を重ねる。
すると玄香は、嗚咽を漏らし、本格的に泣き出してしまう。
「泣かない、泣かない。勝気に見えたけど、意外と泣き虫だなあ」
「だって——」
今の僕にでも出来る事はある。
玄香の冷え切った心に熱を。
茉白にして貰った様に僕は、玄香の体に腕を回す。
しがみついて来た玄香をあやしながら僕は、決意をする。
迎えるべき明日を掴む為に。
僕は、前を向いて歩き出すのだ。




