嫌な……予感?
なにげない一日で終わるはずだった。大神一和は、特別なことを何も考えることなく帰宅した。
しかし、その瞬間。今日は特別な、悪い意味で特別な一日に変貌した。
玄関の上り框の下、見慣れぬ革靴がある。サイズは一和のものよりも一センチほど大きい。
一和の目の色が変った。良い予感など全くしなかった。ただの姉の客人であれば良かった。
しかし、急いで居間のふすまを開けた一和の眼前には最悪の予感が実現していた。
日に焼けた男と姉が、居間に座っていた。
日に焼けた男は背を向けており、振り返って一和を見た時、柔和な笑みを浮かべた。その笑顔は似ている。鏡の前でもう随分と見たことのない自分自身の笑顔に。
「一和、おかえり」
男が照れくさそうに白髪交じりの、オールバックにした固そうな髪を撫でる。
誰だ。アイツだ。
どうしてここに。分かるわけもない。
何をしている。何でもいい。
こいつは、許されるべき人間じゃない!
一和は床を蹴っていた。
そして、座っている男の顔面に向かって、握りこぶしを叩きつけた。
手が酷く痛んだ。痛みを自覚したときには、男は居間に置かれたテーブルに体を投げ出されていた。
「一和!!」
姉の千和が立ち上がり、男と一和の間に入った。千和は弟を睨みつけている。しかし、その睨みにひるむ一和ではなかった。
「邪魔だ!!」
「止めなさい!! アンタ、誰に何をしたか分かってるの!!」
そんなの答えるまでも無い。
「いいから退けッ!!!」
一和が叫ぶと他の部屋から犬の鳴き声が聞こえた。怯えたような弱弱しい鳴き声が、一和の耳に届く。少し一和は冷静になったような気がした。
「千和。いいんだ。退いてくれ」
男が言った。千和は躊躇いがちに一和の前を退く。
男はもう立ち上がっていた。一和と視線が合う。一和よりも背が少し低く、赤くはれた顔には子供の頃には目立たなかった皺が、深く刻まれていた。
「よぉ、酷い挨拶じゃねぇか。まぁ、お前が俺を恨む気持ちは良く理解してるつもりだ」
もう一度ぶんなぐりそうになったのを、一和は押さえた。
「今更、何しに帰ってきた」
「何しにって……自分の家に帰ってくるのに特別な理由なんざいらねぇだろ。しいて言うなら、お前達とやり直しに来たんだ。家族を」
「ふざけんなッ!!!」
一和は男、父親の大神志波の胸倉を掴んだ。
「ふざけてなんざいねぇよ。俺もやっとまっとうな人生を送れるようになったんだ。お前達と離れて、大学に通ってな。教師の資格取って、やっとお前の通う学校の教師に採用されたんだ。非常勤だがな」
俺の? 教師? 学校? 大学?
「テメェ、俺らほっぽり出して……なにをのんきに!!」
「のんきなもんか。俺は過去を清算するのに躍起になってた。お前らを放っておいたのは謝る。苦労をかけちまった……」
志波が悲しそうな顔をする。
今更そんな顔を、反省したって遅い。
「学校は知ってんのかよ。お前が何してたか」
「理事長と校長には包み隠さず伝えた。もう奴らとは関係ない」
一和は父のシャツの中を覗いた。掴んだシャツの胸のあたりから、昔はあったものが、本来はあってはならないものが見えなかった。
「ほらな。これを取るのにも金が要った。まっとうな仕事で稼ぐには足を引っ張ってくれたよ。でも、十年以上かけりゃあ取れないことはなかったさ」
一和は手を離した。
「取ったところで、俺がお前を見る目は変らない!」
一和がもう一度拳を振り上げた時、後ろのふすまが空いた。
くぅーん、と犬の鳴き声がした。自分が拾ってきて今はもう大人の格好になった雑種犬、カルボナーラだ。
そいつが自分を見上げていると思った。どんな目で? きっと悲しそうな目をしていただろう。変貌した親を見るような、昔の自分と同じような目で。
「クソッ!!」
一和は踵を返した。
「一和!! 待って!!!」
姉の声が自分の背中に浴びせられている。それに共鳴するように、家中の動物たちが鳴き声を上げていた。
一和が作り上げた、自分を慕ってくれる家族たち。
自分を引きとめてくれているのではないか。一瞬思ったそれを、一和は気の迷いとして切り捨てた。
父親のいる場所なんて、自分の家なんかじゃない。
一和は迷うことはなく、家を出て行った。もう二度と帰ることはないだろう。
ども、作者です。
最終章に向けてその第一歩を踏み出しましたね。できれば最後までお付き合い下さい。




