懸さんからの……お誘い?
懸さんの実家、それから家業のラーメン店は、私の家からはかなり遠い。電車に乗って一時間。それから歩いて三十分くらいはかかるから、毎朝早起きだ。
それでも、今日は特別に早くに起きた。懸さんのラーメン店まで来た時間が、いつもより二十分は早い。電車はちょっと混んでいて、通勤や通学に使っている人達の姿をかなり見かけた。都会と比べれば、窮屈はしていないと思うけれど。
今もまだ、日は上っている最中で、目が痛くなるくらいに眩しい。夏場のせいで、朝だと言うのにちっとも涼しくはなかった。べっとりと、汗で服が肌に張り付いている。
早起きをしたのは、偶然ではない。わざわざ目覚まし時計を一時間も早めたんだから。ま、まぁ、二十分しか時間が変わらなかったのは、二度寝しちゃったせいなんだけど。
ともかく、私には目的がある。昨日このみちゃんと話している間に決めたことだ。懸さんに私の気持ちを伝えること。告白を待つんじゃなくって、こっちから「好きな人がいる」って伝えることだ。営業時間になっちゃえば、忙しくなるし、いつもと同じ時間に来れば、このみちゃんとも下中君とも鉢合わせしてしまう。できれば、こういうことは二人っきりで言いたい。終業時間まではいないから、完全に二人っきりになることを狙うためには、早起きをするしかなかったんだ。今なら、懸さんだけが仕込みをしているはずだから。というか、店舗の中からガチャガチャと何やら作業をしているのが、聞こえている。
「おはようございまーす」
裏口から入ると、スープの良い匂いが漂ってくる。クーラーは効いているみたいだけど、寸胴鍋から立ち上る湯気が熱気のようにむわっとしていた。
「おう、おはよう叶恵ちゃん」
Tシャツに腰に巻くエプロンを付けた懸さんの格好は、まるで本物のラーメン屋の店主のようだ。
「今日はやけに早いな。ま、いっか。ちょっと仕込みを手伝ってくれないか?」
「うん」
とりあえずは、これでいいかな? 仕込みを手伝っている間に懸さんに例の話を振って……。
二十分後。
「ふぅ~、とりあえずこれでいいかな。サンキュー叶恵ちゃん。いやー、やっぱり二人だと作業が早く進むな~」
「え、でもまだ残ってること」
「あるけど、それは俺だけでやっとくよ。というか、俺しかできないからな。叶恵ちゃんはそっちで休んでていいよ」
と言って、懸さんは視線を客席の方へと向ける。
というか、二人っきりでの作業終わっちゃった!! 私、まだ全然話してない。というかついついテキパキと仕事しちゃってたというか、懸さんの指示に従ってたら終わってたと言うか。
と、ともかく! まだこのみちゃんたちは来てないから話をするチャンスはあるから。むしろ、いつ来るか分からないから今の内に話さなくっちゃ。
「あ、あのさ、懸さん」
よし、勇気を出して今のうちに……。
「ん? なんだい叶恵ちゃん」
懸さんは作業をしながら耳を傾けている。手際よく、包丁でチャーシューを切っていた。今、「あなたとは付き合えない」とか言ったら、手を間違って切っちゃったりしないかな……。というか、あまりにも唐突過ぎだし、それにどう切り出せばいいのか……。
「えっと、その……て、手際いいよね、懸さん!」
あー、なんかいつも言わなくちゃいけないことを自分からはぐらかしちゃってる気がするよ。悪い癖だなぁ。
「へへっ、ガキの頃から親父が教えてくれてたからなぁ。こんぐらいは簡単簡単」
懸さんが嬉しそうに答える。とりあえずは、このまま会話を続けていよう。そこから檻を見て、言えるときに言えればいい、よね?
「子供の頃から教えてもらうだなんて、なんだか懸さんのお父さん、ラーメン屋を継いでもらおうって思ってたのかな」
「親父は今だって継がせる気満々さ」
「でも、懸さんだって、ラーメン屋の大将って似合いそう。今の姿を見たら、知らない人は高校生だなんて思えないもん」
「そうか? へへっ、そいつは嬉しいな」
懸さんは、本当に嬉しそうに笑った。もしかして、本当にラーメン屋を継ぐ気なのかも。って、そんなことを想っている場合じゃなくって、そろそろ……
「あぁ、そうそう。そろそろ親父たちも復帰できそうだってよ。定休日の明日休んで、明後日から復帰しようって」
「そんなに急に? 大丈夫なの?」
「俺も親父にそんなに急がなくていいって言ったんだけどなぁ。若い連中に任せてないで、自分達も働きたいってさ。だから、今日でアルバイト終わりなんだ」
「そう……なんだ」
それじゃあ、今日中に懸さんに伝えておかないと、当分は言う機会がなくなっちゃう。
「……でなんだが」
と懸さんが話題を変えるように言いい、私の方へと振り向いた。
「明日、海にいかねぇか? 俺と、二人っきりでさ」
「ふ、二人っきりで!?」
「おうよ。手伝ってくれたお礼さ。って言っても、このシーズンはそれなりに混んでるからなぁ、それにすぐ近くにあるだろ? まぁ来てもらう必要もあるが、送り迎えだってやれるぜ」
「お、送り迎えは別に……っていうか、その……」
う、海って……できれば、ワンちゃんとなら二人きりで行きたいんだけど。懸さんからの誘いを断るのも悪いような。って、そんなことばかり考えてないでそろそろ本題に入らないと……。
「アニキ! おはようございます!」
バタン、と大きな音を立ててドアが開かれる。入って来たのは下中君だった。つまり、時間切れってこと。はぁ、結局言えなかったなぁ。と、肩を落としていると懸さんが近づいてきて、ぽんと私の方に手を置いた。
「じゃ、二人っきりで海に行くのは、二人の秘密な」
「えっ!?」
「じゃ、頼んだぜ!」
そう言って、懸さんは下中君と話し始めてしまう。ま、まいったなぁ。ただでさえ、懸さんに言わなくちゃいけないことがあるのに、その上懸さんと海行くってことになっちゃったし……。ど、どうしよ。
それからしばらくして、このみちゃんもやってきた。開店準備を済ませれば、あっという間にオープン。相変わらず、今日も工事関係のお客さんたちがたくさんやってきている。
それにしても、結局懸さんに大切な事、言えなかったなぁ。はぁ、やっぱりちゃんと言わないとダメだよね。でも、一体どう言えばいいのかなぁ。
がしゃーん。
懸さんに好意を向けられているのは分かってる。でも、だからこそどう言えばいいんだろう。懸さんも傷つかないようにしないと、でもちゃんと伝わるように言わなくちゃ、好みちゃんに振り向いてももらえないだろうし……。
がしゃーん。
その上、二人っきりで海に行くだなんて。やっぱり、断った方がいいと思うけど……下中君が来ちゃったせいで、断るチャンス失っちゃったし……。
ガチャーン
海で、二人っきり、かぁ……。二人っきりってやっぱ不味いよね。二人っきりになれるのは、私にとっても伝えるべきことを伝える千載一遇のチャンスでもあるんだけど、反対に、懸さんにとってもチャンスでもある。それも、場所が海辺、砂浜でなんてことになったら……。
「叶恵ちゃん……俺……」
向き合った私と懸さん。懸さんの手が私の両肩を掴む。
「ダメ……私には……」
そう言って私は逃れようとする。だけど、懸さんの手は肩を強く掴んでいて、離れられなくって、ううん、逆に懸さんは私を自分の方へと引き寄せている。
「構わねえよ、そんなこと……俺の想いを受け入れて欲しいんだ」
ガッチャーン!
「な、なんてことに……」
なってしまうかもしれな……。
「なんてことしてくれてんだよお前は!!」
「へ?」
私は、下中君の声で我に返る。そうして足元を見ると、なんてこと! 私はさっきから空いた席から、お皿や丼を運んできていたんだけど、そのお皿や残っていた汁、小皿やそれに入っていたタレなんかが足元に散乱していた。
「わっ! 色んなものが飛び散ってる! なんで!?」
「他人事みたいに言ってんじゃねえよ! お前のせいだよお前の!! どんだけぼーっとしてんだ!」
「へ? こ、これ全部私?」
ずっとずっと考え事をしていたせいだろうか。昨日と同じで考えるあまり、目の前が全然見えていなかったみたい。
下中君もこくりと頷く。はぁ~、またやっちゃったみたい。
「ご、ごめんなさい!」
「だから俺にあやまんなっての。俺よりも懸のアニキに」
「まぁまぁ、いいんだよ。叶恵ちゃん疲れてるみたいだ。ちょっと休んでな」
「ごめんなさい、懸さん」
「ははは! 気にすんな。失敗だって青春青春!」
ははは、と懸さんが豪快に笑う。完全に私が悪くって、お皿も何皿か割れているし、笑って済ませるようなことじゃないと思うんだけど。
それでも、こんなに許してくれるのは、懸さんが私のことを好きだから?
やだやだ。これじゃあ、自分がすっごくうぬぼれているみたい。それはともかく、結局私が懸さんに迷惑をかけていることは間違いない。
私は言われるがままに、外に出てぼんやりとしながら、これからどうするかを考えていた。
「迷惑、かけているんだし、明日は懸さんと海に行こうかな」
それが私にできる罪滅ぼし、っていうのは大げさかな。それに二人っきりになれれば、やっぱり大切なことも話せるだろうし。わざわざ連れて行って言うのも、ちょっと気が引けるけど。
あ、そうだ。懸さんと海に行くことはこのみちゃんに伝えておいた方がいいかも。昨日の様子を思い出せばなおさらだ。何も言わないまま二人っきりで出かけたら、勘違いされちゃいそうだし。
ちょっと時間を見つけてこのみちゃんに話があるって言っておこうかな。あ、でも下中君もいるから、帰り道の方がいいかな?
ども、作者です。
真冬に書いていたはずのお話を、随分暑くなってきた今頃に更新するだなんて、
思いもしなかったですねぇ(遠い目)




