ワンちゃんと作治君との……結末
場の空気や場の流れというものは、思いのほか簡単なことで切り替わる。叶恵がやってきたことから始まり、懸の仲間たちが現れてからのそれらはがらりと変っている。
場の流れは懸たちに向いている。元番長はそのことをひしひしと身に感じていた。計画や計算が狂ったと言えばそれまでで、一度向かい風になったこの空気を、元番長の力で激変させられるとは自身でも思っていない。
しかし、何もかもを諦めてはいない。この男がこの場にいる理由はただ一つ、竜美懸に一年前の復讐を果たすこと。
目の前で対峙する懸に集中し、元番長は握り拳を懸の腹に叩きこんだ。
「どうだ? そろそろげんか……」
クリーンヒット。いいダメージを与えられたと自覚して口元が緩む。懸も背を丸め、腹のダメージに反応している。
しかし、話す途中で元番長の腹にも鋭い痛みが走った。同じように殴り返されていた。
「バーカ、テメェのパンチなんざかゆくもねえ」
元番長は懸を睨みあげる。自分も丸めてしまった背をただし、元番長も口元に笑みを浮かべてやった。
「オメェのパンチも効かねえぞ」
「強がんな、おっさん」
「テメェこそなクソガキ!!」
元番長も懸も一斉にパンチを互いの顔に目がけて放った。命中したのは元番長の拳だった。
ぐらり、と懸がよろめく。
「どうだ? これでもう強がれねェだろ。俺の恨みをたっぷりと思いしれ!!」
さらにもう一発、ダメ押しの追いうちのパンチを放つ。
がん! と手ごたえはあった。しかし、命中したのは懸の掌で、拳をぎゅっと握られる。
防がれたのだ。
「お前のパンチは全然ダメだ」
防いだ懸が顔を上げる。
「何?」
「恨みはよぉくわかるぜ。一年前に俺に倒されたのを逆恨みしてんのは知ってる。だから、一発受けてやった」
「余裕ぶっこきやがって」
「余裕なんだよ、お前の相手くらい」
次は懸が元番長の顔にめがけてパンチを放った。来るだろうとは元番長も分かっていた。懸が片方の腕を引いたのを見てすぐに予感できた。
なのに、元番長はそのパンチを防げなかった。左ほほを殴られ、頭の中がぐわんぐわんと揺れ、大きくよろめいた。
嘘だろう、と我が目を疑う。
「分かるか、俺とお前のパンチの違いが!」
何もできなかった元番長に、さらにもう一発のパンチが迫る。手を出して防ごうとするも追いつかず、またも顔を殴られる。
「分からないだろうな!」
体も心もずたずただった。どれだけの経験をこれまでにしてきた? 今日、この日をどれだけ待ち望み、修羅場を潜り抜けたと思っている? なのに、なぜ懸相手に手も足も出ない?
「何が……何が違うっていうんだよおおおおお!」
反撃を加えようと次こそは全力で、元番長は殴りかかろうとする。
迎え撃つ懸も拳を握りしめ、腕を思いっきり引く。
「教えてやる、お前が失った、俺の力を!!」
腕が交差し、互いの拳が一直線に顔面を目指して空を切る。それは、元番長がさっき懸に渾身の一撃を喰らわせたときと同じ構図だった。
いける!!
元番長はそう思っていた。
だが、先に顔に拳を叩きつけられたのは元番長だった。
懸の全身全霊の一撃。鼻っ柱は折れ、歯も二、三本折れ、激痛と共に血がほとばしる。
これまではよろめいて耐えていた両足も、両ひざを付いて崩れた。
「これが俺の、青春パワーだあああああああああああ!!」
倒れて気を失う間近に、番長は懸の叫び声を聞いた。
青春パワーこそ、懸の底力だったのだ!
「……何恥ずかしい事言ってんのよ、あのバカ」
離れたところで懸の声を聴いたこのみが冷たく言い放った。至極、まともな感想である。
立ち上がったワンちゃんが作治君と対峙する。作治君は眉間にしわを寄せてはぁ、とため息を吐いた。
「あーあ、嫌な事きいちゃった。ふぅ、でもこれで君も情けないところ見せられなくなったね」
きっと挑発をしているつもりなのだろう。ワンちゃんも答えるように両手を構える。
「やる気じゃん……いいよ」
ワンちゃんが作治君に向かっていく。殴りかかろうとするワンちゃんの腕をするりと避け、作治君はワンちゃんの胸元に手を向ける。
それを、ワンちゃんは躱した。掴もうとした作治君から一歩後ろに退いて、掴もうとした腕を空振りさせる。
さらにすかさず、ワンちゃんは作治君を蹴りつけた。ワンちゃんの足は作治君の脇腹に命中して、ばたりと倒れ込んだ。
作治君は倒れてからすぐに立ち上がったけど、脇腹を手で押さえていて、しかも息も上がっている。
「ふざけんなよ。たったあれだけの事でっ!」
今度は作治君が向かって行った。鬼気迫る表情。作治君が今までに見せたことのないような表情だった。
それだけ真剣、なんだろうか。何か彼もワンちゃんの相手をすることに思うところがあるのかもしれない。何が何でもワンちゃんを倒したい、そんな意志を感じる。
でも、彼に対するワンちゃんは。
とにかく速かった。
掴もうとする作治君の腕を避け、懐に入り込んで……。
下から上にアッパーをするみたい動きで、作治君のお腹に一発パンチを叩きこんだ。
作治君がぐらりとよろめきながら、一歩後ずさる。お腹に手を当てて。
「……はは。情けないのは僕の方か……くそう……」
作治君は何かの感想でもいうように、残念そうな声でつぶやくとばたりと後ろに倒れた。
……倒した。
「ワンちゃん……」
近づきながら呼びかける。ワンちゃんに私の声が聞こえたのか振り返った。
「……」
何も言わない彼の表情は、どこかばつが悪そうだった。なんだか見られたくないところを見られてしまったときのような恥ずかしさと、申し訳なさが混在している感じだ。
何か言おうとしたのだけれど、辺りがからざわざわと声が上がり始めた。
「あ、あいつら……」
「や、やべえぞ……逃げろッ!」
ざわめきは波のようにチンピラたちに伝染していった。彼らは騒然としてばたばたとし始める。パニック映画でも見ているみたいに、どんどんとこの場を離れていくチンピラたち。
「全員、その場で止まれい!」
しかし、しわがれた声が辺りに響き渡った。突然の声に驚いたようにチンピラたちは立ち止まる。私たちも驚いて声のした方を見る。
すると、声のした方からぱたぱたと走ってくる人が現れた。
すぐに誰かわかった、髪の長い女の子。
「叶恵さん!」
「お嬢……それに、お爺さんも……」
走って来たのはお嬢だった。その後から純君もついてきていて、さらにその奥でどんと構えてお嬢のお爺さんが立っている。何人かお爺さんの部下の人達もいる。
「ほっほっほ。町ぢょく終わったとこだのう。うちの組の連中は全員、連れていかせてもらおうかの」
お爺さんは前に会ったときのように陽気な感じで言った。黒服を着た人達が周りにいて、一部の人達が倒れたチンピラを起こしたり、チンピラたちを連行している。あのチンピラたちはお爺さんのいううちの組の連中、なのだろう。黒服の人達が全く手を付けない人もいて、そういう連中はどんどんと逃げていく。その中には真虎君を襲った旧番派のスキンヘッドもいた。なるほど、あのガラの悪い懸さんが倒しちゃった人は、元番長だったんだ。
その元番長だけは黒服の二人がかりで抱え上げられて運ばれようとしている。
「怪我はありませんの?」
辺りを見渡していた私に、お嬢が尋ねた。
「私は大丈夫、でもワンちゃんが……」
ワンちゃんの顔とかには腫れや傷がある。大けがではないけど、ちょっと心配だ。
「お医者さんを起こして待たせてありますの。わたくしたちのいきつけですから、そこで治療してもらいましょう」
そこそこ深い時間になり始めているはずだけど……そのお医者さん大丈夫? 多少の不安はあるけれど何もしないでいるよりはマシかな。
「ほう……お前さんか……」
いつの間にか近くに来ていたお爺さんがまじまじとワンちゃんを見ながら言う。
ワンちゃんは警戒はしていなくて、ただ相変わらずばつの悪そうな顔をする。面識は……あるみたい。
「お前さんも行くあてがないなら、少しくらいは屋敷の部屋を貸すが……どうする?」
私もワンちゃんの様子をうかがう。事情はお爺さんも知っているし、面識はあるみたいだけど……。
「ワンちゃん、帰り辛いよね?」
尋ねると目があった。少し弱弱しい目をしているような気がした。それから、ワンちゃんはお爺さんへ目をやって、
「……頼む」
と一言。良かった、家出は継続中だけど夕方に会ったときと比べるとワンちゃんも丸くなってるみたい。
「これでよしってトコだな」
懸さんが言った。うん、同感。
「じゃあ、いこうか、ワンちゃん」
「……ああ」
返事もすぐに帰ってきた。うん、本当にこれでよし。これならワンちゃんにちゃんと話してもらえるかもしれない。
一つのことが終わって、また新しいことが始まる。そんなすがすがしい予感を感じながら、歩いていく。
「駐車場に車を用意してますわ。叶恵さんも送って行きますわよ」
「ありがと、お嬢」
至れり尽くせりだ。なんか今日はお嬢にかなりお世話になってるなぁ。この場もお嬢と会っていなかったら、上手く収められていなかったかも。この道も元々の夜の静かさを取り戻し始めている。
「動くなッ!!」
「うるせえっ! どけっ!!」
しかし、静かなこの場所にまた大声が響いた。
黒服を押しのけて、元番長がでてきた。気が付いて抱えていた人達を振り払ってきたんだ。
その手に、ぎらりと光る刃物。
「竜美ぃ! テメェは許さねぇぞ!!」
そうは言うが、刃物を手にした両手を向けているのはワンちゃんだった。元番長は目のあたりに血が付いている。良く見えていないんだ。
だっ、と元番長が駆け出す。
ヤバい、そう思ったときに私は動き出していた。ワンちゃんを守るように彼の前に。
目の前に元番長がどんどん迫ってくる。その様子はスローモーションになってるみたいにゆっくりだった。自分にこれから訪れる現実を受け入れるための時間。その時間を早めたのは、私が目を閉じてしまってからだった。
……。
…………。
痛みは…………ない。一秒が一秒よりも早く流れているようだった。何がどうなっているの?
目を開ける。
赤い血が私の足もとにまで届いている。でも、その血は私のものではない。両肩に手が置かれていた。その手は、ワンちゃんの物だと思う。
ワンちゃんは、刺されていない。
だって、倒れて血を流しているのが、懸さんだったから。
「抑えろッ!!!」
黒服の人達が元番長に乗りかかって押さえつける。その横で倒れている懸さんから血がどろどろと流れている。
「懸さん!」
何が起こったのか、どうなっているのか、理解するのに時間がかかってしまった。懸さんは私の前で倒れていて、それは懸さんが私をかばってくれたという事実を裏付けることだった。
「懸っ! アンタ何してんのよっ!」
急いで駆け付けてきたこのみちゃんが、懸さんを仰向けにする。腹部のあたりに刃物の柄が突き出ていた。
「へ、へへっ……」
「笑ってんじゃないわよ! なんで……なんで……」
このみちゃんは泣きながら懸さんを抱きかかえる。起こすことはできないけど、軽く上半身を起こしている。
痛いだろう。でも、懸さんは口元に笑みを浮かべていた。
「まぁ……ヤ、じゃねーの」
懸さんの視線がこのみちゃんから動いて私……ううん、後ろにいるワンちゃんに向けられた。
「せっかくの人の青春に水さすなんてのはよ……」
「早く医者のところに!」
「車だ! 車をこっちに!」
辺りはまた騒然とし始めた…………。
ども、作者です。
書いている最中、終盤辺りの展開を「いる? いらないでしょ」と消去しようとしましたが、無理やりにでも盛り上がりどころ作らないとダメなんじゃない? と思いブチ込みました。まぁ、どうなんでしょうかね。




