第5話 エミリア嬢、あんた本当の名前は?
あのバカ王子撃退劇から、なんだかんだで平穏無事なまま半月が経過した。
季節はうららかな春。
目の前に広がっているのは、クロイツァー公爵家が誇る、贅の限りを尽くした広大なプライベート・ローズガーデンだ。赤、白、淡いピンクの薔薇が咲き誇り、甘やかな薫風が鼻腔をくすぐる。
「……さいっこーだな、おい」
純白のガーデンチェアに深く腰掛け、私は思わず素の平社員ボイスで呟いてしまった。
前世の記憶がふと蘇る。地方のローカル路線バスの車内吊り広告でよく見かけた『日帰り! 旬のバラ園散策と高原ホテルランチバイキング』のツアー。行きたかったなぁ。毎年決算期とガッツリ被っていて、有休の申請書を出す勇気すら湧かずに指をくわえて見送っていたのだ。
それが今や、名実ともにそのバラ園のオーナー様である。人生の帳尻合わせとは、どこでどう転ぶか分からない。
白磁のティーポットから注がれた、湯気を立てる最高級のダージリンを一口。
さらに、厨房の料理長が「お嬢様のために!」と腕によりをかけて焼き上げたスコーンに、濃厚なクロテッドクリームと自家製ベリージャムをたっぷりのせて口へ運ぶ。
表面は香ばしく、中は口の中の水分をほどよく持っていく、あの独特のほろほろとした素朴な重み。それをクリームの油分と熱い紅茶で舌の上で溶かしていく瞬間、たまらない多幸感が広がった。
雲ひとつない青空を見上げる。
「……これ、デパ地下で買ったら一式で三千円はくだらないやつだ」
自転車二台に挟み撃ちされて強制シャットダウンを食らった瞬間は、未消化の有給休暇が心残りで化けて出そうだったが。
「まあ、ここでまとめて有休消化と慰謝料の精算ができたようなもんだし、いっか」
ふう、と満足のため息をこぼした、その時だった。
「お嬢様、失礼いたします!」
庭園のアーチをくぐって、メイドのマリーちゃんが小走りで駆け寄ってきた。すっかり懐いてくれた彼女は、どこか緊張した面持ちで一礼する。
「お寛ぎのところ大変申し訳ございません。お嬢様に取り次ぎの来客がございまして……」
「……へ? 来客?」
思わず素っ頓狂な声が出た。
続いて、じわじわと嫌な予感が胃のあたりに広がっていく。せっかくの有休消化を休日出勤で潰された時と同じ感触だ。
エミリアの交友関係の台帳をどれだけめくっても、婚約破棄された元『毒婦』の元へ、こんな時期にわざわざ訪ねてくる物好きの記録なんて一行も存在しない。
「居ないはずだけどなぁ……誰だろ。面倒くさいことじゃなきゃいいけど」
ため息まじりに眉根を寄せつつ、私はティーカップを置いて立ち上がった。
案内された公爵家の本邸は、歩けども歩けど豪華絢爛な絨毯と大理石の回廊が続く。半月経っても、この六畳一間のアパートとは対極にある空間には落ち着かない。
やがて到着した、重厚な彫刻が施された第一応接室。
マリーが開けてくれた扉をくぐり、足を踏み入れると――窓際のソファーに、一人の青年が腰掛けていた。
「やぁ、初めまして」
振り返り、極めて親しげに片手を挙げてきたその姿に、私は内心で警戒の数値を引き上げた。
控えめな光沢を放つ上質なスリーピースを隙なく着こなし、彫刻のように整った顔立ちには、他人の心理を読み慣れた人間のふてぶてしさが張り付いている。無駄に顔がいい。いわゆる、超がつく一級品の男だ。
だが、私の社畜レーダーがビビッと警告音を鳴らす。
こいつ、ただのボンボン貴族じゃない。あのバカ王子のように感情で喚き散らすタイプとは真逆の、極めて頭の切れる『人種』の匂いがプンプンする。
私は公爵令嬢の優雅な所作を崩さず、静かに向かい側の革張りソファーへ腰を下ろした。
「クロイツァー公爵が長女、エミリアです。突然のご訪問ですが……どちら様でしょうか?」
感情を交えずに問いかけ、相手の出方を待つ。
青年はソファーの背もたれにゆったりと背を預けたまま、指先で銀の懐中時計をくるりと弄び、値踏みするように私を上から下まで見据えた。
「挨拶の前に、ひとつ確認させてほしいんだけど」
青年は片方の口角をわずかに引き上げ、低く通る声で、あまりにも異質な単語をぽつりと落とした。
「――直近のロードマップ、リスケが必要なんじゃない?」
「……は? いや、そもそも突発案件で納期遅延とか現場に丸投げされても困るんで」
脊髄反射だった。
前世で何千回と交わしてきた、意識高い系上司からの無茶振りに対するテンプレの拒絶反応が、エミリアの上品な口から勝手にするりと漏れ出していた。
(――あ)
やっちまった、と血の気が引いた瞬間。
青年の目が、獲物を完全に追い詰めた捕食者の光を帯びた。
「……なるほど。現場サイドの人間か」
青年はソファーから身を乗り出し、喉の奥でくつくつと楽しげに喉を鳴らした。
「王子の横領を突いて婚約破棄を叩き返したって噂を聞いてね。『エビデンス』だの『遅延損害金』だの、この世界じゃ聞き慣れないワードを連発する令嬢がいるって聞いて飛んできたんだけど……ビンゴだ」
逃げ場はなかった。
完全に社畜の急所を突かれ、私はぐうの音も出ずに唇を引き結ぶ。
青年は整った顔に、競合他社をコンペで叩き落とした直後のような、嫌味なほど自信に満ちた笑みを浮かべ、胸ポケットに手を当てた。
「自己紹介が遅れたね。僕は大場和人――向こうじゃ東京の大手デベロッパーで経営戦略をやってた。まあ、出世レースで蹴落とした同期に逆恨みされて、金曜の夜の品川駅・東海道線ホームから突き落とされたんだけどさ」
肩をすくめてみせるその男は、間違いなく東京の最前線で数字と他人の首を切り捨ててきた、ガチガチのエリート社畜の成れの果てだった。
「で? あんな綺麗なカウンターを食らわせる同業他社が、まさか公爵令嬢の皮を被ってるとは思わなかったよ。……あんた、向こうで何やってた人?」
地方中小の平社員経理と、東京大手のエリート経営戦略。
異世界の片隅で、前世の階層格差がむき出しのまま、最高に面倒くさいエンカウント事故が発生した。
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