第9話 世界境界
空が割れていた。
本当に。
比喩じゃない。
夜空に巨大な亀裂が走って、その向こうに東京が見えている。
ビル。
高速道路。
赤い航空障害灯。
見慣れたはずの景色。
でもそこへ。
アメンの星空が重なっている。
「……嘘でしょ」
花瓶の文字。
《第六門――世界境界》
《警告》
《二世界融合開始》
「イリス」
返事がない。
見る。
イリスは空を睨んでいた。
黒炎。
今までとは比べものにならない。
身体全体を覆っている。
怒っている。
「イリス?」
「澪様」
声が低い。
「絶対に、私より前へ出ないでください」
「でも」
「お願いします」
その言い方。
命令じゃない。
お願い。
私は黙った。
空の亀裂。
巨大な黄金の目。
『生命神』
声だけで地面が震える。
『まだ、その器に縋っていたか』
私?
違う。
多分。
ミオ。
「誰」
私は聞いた。
イリスが振り返る。
「澪様」
「知ってるんでしょ」
沈黙。
「誰なの」
空から。
笑い声。
『忘れたか』
巨大な指が。
亀裂を押し広げる。
ガラスみたいに。
世界が軋む。
『我はアルディア』
その名前。
聞いたことがある。
アルヴェリア。
主神。
光神アルディア。
『千年前』
声。
『我らに背き』
『人を奪い』
『世界を裂いた』
黄金の目が。
私だけを見る。
『愚かな妹よ』
「……妹?」
私は固まった。
「聞いてない」
イリスを見る。
「初耳なんだけど」
「正確には」
「今説明する?」
「神々に血縁という概念はございません」
「じゃあ妹じゃないじゃん!」
空が揺れる。
こんな時なのに。
ちょっと腹が立つ。
アルディアが続ける。
『神より逃げられると思ったか』
「逃げたの私じゃない」
『同じ魂』
「でも今は澪」
沈黙。
『……何?』
「天城澪」
私は空を見る。
「今の名前」
イリスがほんの少し笑った気がした。
アルディアは。
笑わなかった。
『人の名など』
「その言い方」
胸の奥、何かが熱くなる。
千年前。
ミオも。
多分。
同じことで怒った。
「嫌い」
『何?』
「そういうところ」
花瓶の五輪が揺れる。
「人を下に見るところ」
慈悲。
追憶。
誕生。
愛情。
孤独。
「千年前の私があなたたち嫌いだった理由」
分かる。
今なら。
「ちょっと分かる」
黄金の光。
落ちる。
「澪様!」
黒炎。
イリスが前へ出る。
光と黒炎。
衝突。
爆発。
私は吹き飛ばされた。
「っ!」
地面へ転がる。
耳が。
聞こえない。
少しして。
音が戻る。
「イリス!」
立ち上がる。
イリスはいる。
でも右腕が焦げている。
「腕!」
「問題ございません」
傷がゆっくり治っていく。
でも遅い。
今までより。
「効いてるじゃん!」
「相手が神ですので」
「じゃあ逃げよう!」
「無理です」
空。
亀裂。
さらに広がっている。
向こうの東京。
道を歩いていた人たちが。
空を見上げている。
見えてる。
向こうからも。
「……ママ」
家。
どこだ。
この東京のどこか。
「パパ」
いる。
あそこに。
絶対。
「壊させない」
花瓶を握る。
「どうすればいい」
返事。
なし。
「ねえ!」
私は花瓶を振る。
「今まで散々勝手に喋ってたじゃん!」
文字が浮かぶ。
《第六門開放条件》
《世界境界へ到達せよ》
「どうやって!」
《境界座標――上空》
「飛べって?」
私は飛べない。
「イリス」
「はい」
「私抱えて飛べるって言ってたよね」
イリスが止まった。
「お勧めいたしません」
「今更怖いとか言ってる場合じゃない」
「しかし」
「お願い」
イリスが一瞬黙る。
それから。
「……承知いたしました」
私を抱き上げる。
「ちょ」
分かってたけどお姫様抱っこ。
「他になかった?」
「最も安定いたします」
「恥ずかしい」
「落ちるよりはよろしいかと」
「それはそう」
黒炎。
足元。
爆発。
身体が。
浮いた。
「うわ!」
速い。
「怖い怖い怖い!」
「目を閉じてください!」
「そしたらもっと怖い!」
上。
上。
上。
地面が小さくなる。
空の亀裂。
近づく。
黄金の光。
またイリスが避ける。
「右!」
「分かっております!」
「来る!」
「分かっております!」
「後ろ!」
「澪様!」
「なに!」
「少々静かに!」
怒られた。
でも。
怖い。
やがて。
目の前。透明な壁。
ガラス。
世界境界。
触れられる距離。
「これ」
東京を覆っていたフラスコ。
でも今はひびだらけ。
「私が作ったんだよね」
「はい」
「千年前」
「はい」
「地球を守るために」
「はい」
手を伸ばす。
触れる。
瞬間、世界が反転した。
◇
東京。
雨。
黒いアスファルト。
「……え」
私は道路の真ん中に立っていた。
最初の日。
白馬。
アルバと出会った場所。
でも。
人がいない。
車も。
音も。
時間が止まっている。
「イリス?」
いない。
また。
一人。
「何なの」
花瓶だけ五輪。
そして目の前。
一人の女。
白い髪。金の瞳。
ミオ。
「……私」
ミオが笑った。
「久しぶり」
「喋れるの?」
「ここは記憶じゃないから」
「じゃあ何?」
「残響」
分からない。
「私が世界境界に残した、最後の意識」
私は近づく。
同じ顔。
でも。
違う。
ミオは神様だ。
分かる。
存在そのものが私とは違う。
「助けて」
私は言った。
「地球が壊れそう」
「知ってる」
「じゃあ」
「私にはもう何もできない」
「……」
「私は死んだから」
簡単に言う。
「でも私になったじゃん」
「うん」
「なら」
「澪」
初めて。
自分の名前を自分に呼ばれた。
変な感じ。
「私はあなたじゃない」
「……」
「正確には」
ミオが笑う。
「もう、あなたの一部でしかない」
「でも前世で」
「前世は前世」
近づく。
「今、生きてるのはあなた」
胸に指を当てる。
「だから」
「……」
「あなたが決めて」
「何を」
ミオは空を見る。
東京。
止まった街。
「この世界をどうするか」
「守りたい」
「アメンは?」
止まる。
「……守りたい」
「神々は?」
「嫌い」
ミオが笑った。
「私も」
「でも」
私は言う。
「神全部消したら」
「うん」
「アメンの人たち困るんじゃない?」
「そうかもね」
「神聖魔法もなくなる」
「うん」
「今まで信じてたものも」
「うん」
「私に決めていいの?」
ミオが少しだけ寂しそうに笑った。
「だから千年前の私は失敗した」
「え?」
「人間に選ばせようとした」
「それはいいじゃん」
「でも」
ミオが地面を見る。
「神と人が共存する仕組みを残した」
「……」
「神々が変わる可能性を」
苦笑。
「少しだけ、信じた」
そして千年。
変わらなかった。
「じゃあどうすればいいの」
「知らない」
「神様でしょ」
「死んでるし」
「使えない」
「ごめん」
腹立つ。
私。
昔からこうだったのかもしれない。
「一つだけ」
ミオが言う。
「九つの花を集めて」
「それはやってる」
「花は人の感情」
「うん」
「神にはないもの」
「……ないの?」
「似たものはある」
「じゃあ」
「でも」
ミオが私を見る。
「神は、自分が正しいと思いすぎる」
胸。
少し。
刺さる。
「人は迷う」
「……」
「間違える」
「……」
「怖がる」
「……」
「後悔する」
「……」
「それでも誰かを愛したりする」
ミオが笑う。
「だから」
花瓶を見る。
「九つ揃った時」
「うん」
「神だった私にはできなかった答えを」
私を見る。
「人間のあなたなら出せるかもしれない」
世界が崩れ始める。
「待って」
ミオが薄くなる。
「もう行くね」
「待ってって」
「最後に」
「なに」
ミオが私を見た。
「生きてくれてありがとう」
胸が。
止まる。
「それ」
母も。
父も。
言った。
「何で」
「私も」
ミオが笑う。
「人間になれてよかった」
光。
「待って!」
「澪」
消える。
「あと四つ」
声。
「全部咲かせて」
そして。
「今度は」
最後。
「自分で選んで」
消えた。
◇
「澪様!」
目を開ける。
イリス。
空。
世界境界。
「大丈夫ですか!」
「うん」
一瞬だったらしい。
私は境界へ手を当てたまま。
花瓶を見る。
文字。
《第六門認証》
《不足》
「不足?」
《第五花まで確認》
《第六花未開花》
「じゃあここで咲かせるんでしょ」
文字。
《第六花開花条件》
《恐怖》
「……恐怖?」
その瞬間。
黄金の光。
イリスが振り返る。
「危ない!」
光。
直撃。
「イリス!」
私を庇ったイリスの身体が吹き飛ぶ。
「イリス!」
手が離れる。
落ちる。
下へ。
「いや!」
私は何も考えず飛び出した。
世界境界からイリスの方へ。
「澪様!」
落下。
手を伸ばす。
届かない。
「イリス!」
「何を!」
「掴んで!」
黒炎。
弱い。
イリスの身体、治ってない。
「早く!」
やっと。
指。
触れる。
掴む。
「馬鹿ですか!」
イリスが怒鳴る。
「そうかも!」
「あなた様まで落ちたら!」
「一人で落とせるわけないでしょ!」
「私は死にません!」
「知らない!」
「澪様!」
「怖かったんだよ!」
声が出た。
「あなたが死ぬの!」
イリスが止まる。
「千年生きてるとか!」
落ちながら叫ぶ。
「半分神様とか!」
「……」
「そんなの関係ない!」
涙。
風で飛ぶ。
「死なない保証なんてないじゃん!」
花瓶。
光る。
「帰れなくなるのも怖い!」
一輪。
芽。
「ママとパパに会えないのも!」
茎。
「東京が壊れるのも!」
蕾。
「イリスと別れるのも!」
開く。
深い赤。
――第六花、開花条件達成。
――恐怖を否定せず。
――喪失を恐れ。
――死を恐れ。
――別離を恐れ。
――なお、手を伸ばすことを選択。
――第六花。
――《恐怖》。
花瓶。
六輪。
その瞬間。
身体が止まった。
「……え」
空中。
浮いている。
赤い花。
光。
世界境界へ。
亀裂。
一部閉じ始める。
アルディアの目が歪む。
『……人の感情ごときで』
「ごときじゃない」
私はイリスの手を握ったまま。
空を見る。
「神様には分かんないんでしょ」
『黙れ』
黄金、再び。
でも今度は花瓶が防いだ。
六輪。
壁。
イリスが私を見る。
「澪様」
「なに」
「今」
「うん」
「私と別れるのが怖いと」
「……」
言った。
思いっきり。
「聞かなかったことにして」
「無理です」
「お願い」
「一生覚えております」
「最悪」
イリスが笑った。
こんな状況で。
本当に嬉しそうに。
「何笑ってんの」
「いえ」
「何」
「私もです」
「え?」
「澪様と」
一瞬声が小さくなる。
「もう一度別れることが」
黒炎。
また強くなる。
「怖いです」
私はなにも言えなかった。
アルディアが叫ぶ。
『戯言を!』
世界が揺れる。
イリスが前を見る。
「続きは」
「うん」
「生き残ってからにいたしましょう」
「そうしよう」
第六門。
完全に開く。
向こう側。
世界と世界の狭間。
そしてそこに。
七つ。
八つ。
九つ。
三つの巨大な門が。
並んでいた。
《残存門数――三》
《第七花――後悔》
《第八花――憤怒》
《第九花――生》
私は息を呑む。
「一気に?」
イリスの表情が険しくなる。
「澪様」
「なに」
「ここから先」
黒炎を纏う。
「神々の領域です」
門の向こう。
一人。
二人。
三人。
巨大な影。
神々。
アルディアだけじゃない。
千年前、ミオが戦った者たち。
全員。
待っている。
『生命神』
声。
『今度こそ』
『終わらせよう』
私は六輪の花瓶を握った。
「うん」
怖い。ものすごく。
でも逃げない。
「終わらせる」
今度は神としてじゃない。
天城澪として。
九つの門。
残り三つ。




