第8話 天哭平原
朝。
目を覚ますとイリスがいなかった。
「……え」
飛び起きる。
隣。
アルバはいる。
荷物もある。
焚き火は消えている。
でも。
「イリス?」
返事がない。
立ち上がる。
周囲を見る。
森。
街道。
誰もいない。
「イリス!」
少し大きな声。
やっぱり返事がない。
昨日。
第五門。
《天哭平原》
《孤独》
その文字を見た。
嫌な予感。
「まさか」
花瓶を見る。
四輪。
《慈悲》
《追憶》
《誕生》
《愛情》
第五花はまだない。
「先に行った?」
アルバがこちらを見る。
「知ってる?」
鼻を鳴らす。
「分かんない」
スマホ。
当然、連絡できない。
この世界に来て。
初めて妙に焦った。
少し前まで一人だった。
アルヴェリアから追い出されても。
ルクスへ行った時も。
ずっと一人で何とかしようとしていた。
なのに今は。
イリスがいない。
それだけでこんなに不安になる。
「……やだな」
口から出た。
その時アルバが立ち上がった。
「何?」
街道の北。
じっと見る。
「そっち?」
アルバが歩き出す。
「待って」
荷物を持つ。
「イリスのところ?」
返事はない。
でもついていくしかない。
◇
二時間。
街道が終わった。
その先は何もない。
本当に。
何も。
平原。
見渡す限りの灰色。
草は枯れている。
木もない。
建物も。
人も。
空だけが異様に低い。
雲が重い。
「ここ……」
花瓶が震えた。
文字。
《第五門座標――到達》
《天哭平原》
「ここなんだ」
アルバが止まる。
私は降りた。
風。強い。
なのに。
音がない。
草もないから。
風の音だけ。
寂しい。
そんな言葉が一番合う。
「イリス?」
また呼ぶ。
遠く。
黒い人影。
「いた」
走る。
「イリス!」
近づく。
でも。
止まった。
違う。
イリスじゃない。
女の人。
背中を向けている。
「すみません」
反応なし。
「大丈夫ですか?」
肩に触れようとする。
消えた。
「……え」
灰。
風に散る。
「何これ」
その瞬間。
また別の人影。
男。
子供。
老人。
あちこち。
無数。
「亡霊?」
ルクスと違う。
こっちは。
誰もこっちを見ない。
ただ歩いている。
どこにも向かわず。
「イリス!」
声が平原に消える。
どこにもいない。
花瓶がまた光る。
《第五門開放条件》
《孤独を認識せよ》
「……認識って」
もうしてる。
嫌ってほど。
一人。
「ねえ」
花瓶へ言う。
「イリスどこ」
文字。
《同行者――隔離》
「隔離?」
嫌な汗。
「何で」
《第五門は単独通過を要求》
「だったら先に言ってよ」
腹が立つ。
でも生きてる。
たぶん。
それだけ分かった。
「……よかった」
息を吐く。
少し安心した。
そしてその安心した自分に気づく。
「私」
いつの間にかイリスがいることを当たり前にしていた。
千年一人だった人。
なのに今度は私が数時間いないだけで怖くなってる。
「重いなあ」
自分で言って少し笑った。
でも花瓶は反応しない。
まだ足りないらしい。
◇
平原を歩く。
どれくらいか分からない。
空が暗くならない。
時計を見る。
午前十一時。
歩く。
十二時。
歩く。
午後一時。
景色は変わらない。
「……これ」
どこに向かってるの。
いつの間にかアルバもいない。
門へ入る時置いてきたらしい。
完全に一人。
亡霊たちだけ。
でも誰も話さない。
そのうち声が聞こえ始めた。
『澪』
「……」
母。
振り返る。
いない。
『澪』
父。
「やめて」
進む。
『澪』
友達。
大学。
先生。
知らない声。
知ってる声。
全部。
遠い。
『帰ってこないの?』
「帰るよ」
答える。
『いつ?』
「分かんない」
『もう忘れられてるかも』
足が止まる。
「……」
『あなたがいなくても』
『東京は普通に動いてる』
『大学も』
『家も』
『家族も』
「うるさい」
『あなたがいなくても』
『世界は困らない』
「うるさい」
『だったら』
『何のために戻るの?』
胸が痛んだ。
「……帰りたいから」
『誰が待ってるの?』
母。
父。
待ってる。
絶対。
でももし。
時間が違っていたら。
地球では何年も経っていたら。
もし。もう。
『一人だよ』
声。
自分の声。
私は止まった。
目の前。
私。
東京にいた頃の私。
大学の服。
鞄。
スマホ。
「……何」
もう一人の私が言う。
『昔からそうじゃん』
「何が」
『結局、一人』
「違う」
『友達がいても』
「違う」
『家族がいても』
「違う」
『誰かといても』
「違うって」
『死ぬ時は一人』
空気が冷える。
『生まれた時も』
『一人』
『神だった時も』
『最後は』
『一人』
ミオ。
世界を分断する。
最後に一人。
イリスを送って。
一人で死ぬつもりだった。
「……」
『それがあなた』
「違う」
でも。
声が弱い。
『イリスだって』
やめて。
『いつかいなくなる』
「やめて」
『千年生きてるから?』
『ずっと一緒?』
「やめて」
『地球へ帰ったら?』
胸が締め付けられる。
『イリスはアメン』
『あなたは地球』
『別れる』
「……」
昨日聞けなかった。
地球に行けたら、一緒に来る?
それを聞けなかった理由。
「……嫌」
初めてはっきり思った。
帰りたい。
東京に。
絶対。
でも。
「イリスと別れるの」
嫌。
その事実が。
ものすごく。
怖い。
『ほら』
もう一人の私が笑う。
『一人になる』
「……」
『だから』
『最初から誰も大切にしなければいい』
「……」
『一人なら』
『失わない』
昔ミオもそう思ったのかもしれない。
だからイリスを地球へ送った。
自分だけ残った。
守るため。
でもイリスは戻った。
命を捨てて。
「……違う」
私は顔を上げた。
『何が』
「一人になるのが怖いからって」
もう一人の私を見る。
「誰とも一緒にいない方がいいなんて」
首を振る。
「そんなの」
イリス。
ノア。
母。
父。
アルバ。
出会った人。
「もっと嫌」
『でも別れる』
「うん」
『死ぬ』
「うん」
『いなくなる』
「分かってる」
声が震える。
「それでも」
私は言う。
「一緒にいた時間まで」
涙が落ちる。
「なくなるわけじゃない」
スマホ。
イリスの写真。
消さないで。
思い出。
「寂しいから」
胸を押さえる。
「大切だったって分かるんでしょ」
もう一人の私が消える。
亡霊たちが。
一斉に私を見る。
初めて全員。
顔がある。
泣いている。
『寂しい』
誰か。
『会いたい』
『帰りたい』
『一人は嫌だ』
声。
平原中。
私はその中心に立つ。
「私も」
認める。
「一人は嫌」
花瓶が光った。
◇
空が割れる。
一筋の光。
平原の中央。
巨大な門が現れる。
門の前に。
一本の花。
紫。
暗い。
でも。
綺麗。
私は近づく。
触れる。
声。
――第五花、開花条件達成。
――孤独を否定せず。
――他者への依存を恥じず。
――別離を恐れながら。
――なお、他者との繋がりを選択。
――第五花。
――《孤独》。
「そのままなんだ」
紫の花が光になる。
花瓶へ。
五輪目。
《五/九》
その瞬間門が開く。
向こう側。
光。
私は一歩。
進む。
「イリス!」
◇
「澪様!」
出た瞬間。
抱きしめられた。
「うわっ」
強い。
「ご無事ですか」
「大丈夫」
「怪我は」
「ない」
「精神は」
「大丈夫」
「記憶は」
「ある」
「本当に?」
「イリス」
「はい」
「苦しい」
「……申し訳ございません」
離れる。
見る。
イリス。
本当に。
いた。
「何時間?」
「こちらでは三分ほどです」
「……は?」
私はスマホを見る。
時計。
確かに。
ほとんど進んでいない。
「私、半日くらいいたんだけど」
「記憶界に近い領域だったのでしょう」
「もう嫌」
イリスが私を見る。
「何をご覧に?」
「……いろいろ」
言うか迷う。
でも。
「イリス」
「はい」
「地球に帰ったら」
止まる、今度こそ。
「あなたは?」
イリスの表情がほんの少し止まった。
「何でしょう」
「一緒に来る?」
静寂。
風。
イリスは。
すぐには答えなかった。
それだけで。
嫌な予感。
「行けない?」
「……」
「イリス」
「現在は」
静かな声。
「分かりません」
「現在は?」
「私は」
自分の手を見る。
「人間ではございません」
黒炎。
「世界境界が、私を地球側の存在として認めるか」
「分からない?」
「はい」
胸が少しだけ冷える。
「じゃあ」
「しかし」
イリスが遮る。
「今は」
私を見る。
「先へ進みましょう」
微笑む。
「まだ五輪です」
「……うん」
「帰還経路が開く前から心配しても仕方ございません」
正しい。
分かってる。
でも引っかかった。
イリスは。
「一緒に行きたい」とは。
言わなかった。
◇
その夜。
第五花。
《孤独》
紫の花。
焚き火の前。
私はスマホを開いた。
写真。
イリス。
湖。
泣いた後。
アルバ。
家族。
「何をご覧になっているのですか」
イリスが隣へ座る。
「写真」
「また」
「見る?」
「はい」
一枚ずつ。
見せる。
「これは追憶湖」
「はい」
「これ泣いた後」
「消してください」
「消さないでって言ったじゃん」
「撤回いたします」
「駄目」
「……」
「これ昨日」
アルバも。
イリスが少し笑う。
「本当に残るのですね」
「うん」
「千年後も?」
「スマホが壊れなければ」
「壊れますね」
「たぶん」
「では」
少し考える。
「地球へ戻られたら、別のものへ保存してください」
「する」
即答。
イリスが私を見る。
「絶対」
「……はい」
私はスマホを閉じた。
「イリス」
「はい」
「もし」
聞こうとする。
もし一緒に帰れなかったら。
その時。
花瓶が激しく光った。
「何?」
五輪が一斉に揺れる。
文字。
《境界異常》
イリスが立ち上がる。
「澪様」
「何」
「空を」
見上げる。
夜空。
星。
綺麗。
でも一つ。
変。
星が歪んでいる。
いや。
空そのものが。
ガラスみたいに。
亀裂。
一本。
二本。
広がる。
「……これ」
東京を覆っていた。
世界境界。
「地球?」
イリスの顔から。
血の気が引いた。
「早すぎる」
「何が?」
「境界が」
亀裂が増える。
その向こう。
一瞬。
見えた。
ビル。
高速道路。
東京。
「壊れ始めております」
「なんで!」
イリスは答えない。
空を睨む。
そして。
亀裂の向こうから。
何かが。
こちらを見ていた。
巨大な目。
黄金。
ミオの記憶。
千年前。
神々。
『見つけた』
声が空から落ちてくる。
『生命神』
イリスの黒炎が爆発した。
私を庇うように。
前へ。
「下がってください」
声。
今までで。
一番冷たい。
「イリス」
『千年』
空の神が笑う。
『ようやく境界が薄れた』
私は花瓶を握る。
『今度こそ』
巨大な指が亀裂へ触れる。
『逃がさぬ』
東京の夜空とアメンの夜空が。
一瞬。
重なった。
そして。
私の花瓶に新しい文字。
《第六門――世界境界》
《警告》
《二世界融合開始》
残り四輪。
なのに世界は。
待ってくれなかった。




