第11話 怒りが満ちる
ベルディアが燃えている。
三年前の夜。
黒い炎が家々を舐め、石畳を這い、王城を包んでいた。
逃げる人。
叫ぶ人。
泣く人。
その全てが過去の残響。
私たちに触れることはない。
それでも。
「……ひどい」
思わず言った。
イリスは何も答えなかった。
隣に立って燃える街を見ている。
自分が燃やした街を。
「イリス」
「はい」
「何があったの」
長い沈黙。
「行きましょう」
それだけ。
私たちは炎の中を歩いた。
◇
大通り。
兵士たちが走っている。
『魔女だ!』
『西門を閉じろ!』
『王族を地下へ!』
『住民はどうする!』
『構うな!』
その言葉にイリスの足が止まった。
過去のイリスが道の向こうにいる。
黒いドレス。
黒炎。
今と同じ姿。
でも顔が違う。
怒っている。
そんな簡単な言葉じゃ足りない。
兵士が剣を向ける。
『止まれ!』
過去のイリスは止まらない。
『それ以上近づけば――』
黒炎。
兵士の剣だけが消えた。
『……え』
『逃げなさい』
低い声。
『私が殺したいのは、あなた方ではありません』
兵士たちが逃げる。
今のイリスが小さく言った。
「最初は」
「うん」
「王国そのものを滅ぼすつもりはございませんでした」
「じゃあ」
「王族と研究者」
燃える王城を見る。
「それだけで終えるつもりでした」
嫌な予感がした。
「終わらなかったんだ」
「はい」
◇
景色が変わる。
地下。
記憶の中で見た場所。
異界研究施設。
鉄格子。
魔法陣。
血。
資料。
でも前に見た時よりずっと長い。
イリスがここへ来て、人体実験を見て怒って、王国を滅ぼした。
それだけだった。
今回は。
一人の少女が檻に入っている。
十二歳くらい。
痩せている。
首輪。
『被験体二百七十三号』
研究者。
『異界魂への人工接続を開始』
少女が震えている。
『嫌』
誰も聞かない。
『帰りたい』
魔法陣が光る。
『お母さん』
私は目を逸らした。
悲鳴。
そして静かになった。
研究者が紙へ書く。
『失敗』
それだけ。
次。
少年。
次。
老人。
次。
女。
「……何人」
「記録上」
イリスが答える。
「二百七十三名」
「全部?」
「はい」
「死んだの?」
「生存者は七名」
「……」
「その七名も」
イリスの声が少し揺れる。
「人として生活できる状態ではございませんでした」
気持ち悪い。
「何のために」
「地球へ至るためです」
私はイリスを見る。
「地球?」
「ベルディア王国は、世界境界の存在を発見しておりました」
「いつ」
「約四十年前です」
「じゃあ」
「地球そのものは知りませんでした」
イリスが資料を見る。
「ですが、境界の向こうに別世界があることは把握していた」
「それで人体実験?」
「異世界へ接続できれば」
過去の研究者たちが話している。
『未知の資源』
『未知の技術』
『新たな領土』
『ベルディアは大陸最大の国家となる』
私は黙った。
「……それだけ?」
「はい」
「二百人以上殺して?」
「はい」
腹の奥が熱い。
でもまだイリスの話は終わっていなかった。
◇
研究所の最深部。巨大な装置。
中央。
透明な結晶。
その中。
光。
でも見た瞬間分かった。
「……これ」
胸が痛い。
「私?」
イリスが頷く。
「澪様の魂魄波形です」
「なんで」
「実験の過程で」
イリスが装置を見る。
「偶然、世界境界の外側に存在する魂を捕捉した」
東京。
三年前。
普通に生活していた。
「じゃあベルディアが」
「澪様を発見したのです」
「でも」
「直接接触することはできなかった」
世界境界がある。
だから。
「観測だけ?」
「最初は」
嫌な言い方。
「その後は?」
イリスが答える前。
過去の研究者が話した。
『対象魂魄』
『生命神ミオとの一致率九九・九九七』
別の研究者。
『あり得ない』
『生命神はこの世界にいるはずだ』
『ならば直接調べてみる他ない』
『回収できれば』
『神格の再現も可能では?』
空気が変わった。
『召喚する』
「……」
『この魂を』
私は動けなかった。
『世界境界から引きずり出せ』
イリスの黒炎が隣で揺れた。
「これ」
私はやっと言う。
「アルヴェリアじゃないの?」
「召喚そのものを行ったのはアルヴェリアです」
「じゃあ」
「術式の基礎理論」
イリスが低く言う。
「それを作ったのがベルディアでした」
繋がった。
三年前のベルディア滅亡。異界魂研究。
私を発見。召喚術式。
そして三年後、アルヴェリアが私を召喚した。
「何でアルヴェリアが術式を?」
「ベルディア滅亡後」
「……」
「研究資料の一部が流出しました」
「誰が持っていったの」
「当時のベルディア宮廷魔術師」
「そいつが?」
「アルヴェリアへ亡命しました」
最悪。
「じゃあ」
「私がベルディアを滅ぼしたことで」
イリスの声。
止まる。
「結果として」
「術式がアルヴェリアに渡った」
「……はい」
イリスは俯く。
「私のせいでもございます」
「違うでしょ」
即答した。
イリスが私を見る。
「でも」
「資料盗んだやつが悪いじゃん」
「私が」
「イリス」
「……」
「それまで自分のせいにするのやめて」
「しかし」
「じゃあ私が世界分けたせいで全部起きたって言ったら?」
「それは違います」
即答。
「同じ」
イリスが黙った。
「それは後悔の門でやったでしょ」
「……はい」
「今は」
燃える街。
黒炎。
「怒りの話」
◇
過去のイリスが資料を読んでいる。
一枚。
二枚。
三枚。
手が震えていく。
『対象魂魄への干渉実験』
『接続成功率〇・〇〇〇一』
『干渉強度を上昇』
『対象の精神状態に一時的乱調を確認』
「待って」
私は紙を見る。
「精神状態?」
イリスが。
何も言わない。
『実験日』
日付は三年前。
東京。
覚えている。
大学帰りの電車。
突然息ができなくなった。
理由もなく。
怖くなった。
駅のトイレで一人。
泣いた。
何で泣いてるのか自分でも分からなかった。
翌日には普通だった。
忘れていた。
「……あれ」
声が出ない。
「こいつら?」
「はい」
何かが切れた。
「ふざけんな」
自分でも驚くくらい低い声。
イリスが私を見る。
「何それ」
紙を掴もうとする。
触れない。
過去だから。
「勝手に」
腹が熱い。
「人の頭弄って」
「澪様」
「二百人殺して」
黒い炎。
イリスじゃない。
花瓶。
第八花の蕾。
「自分たちが強くなるため?」
蕾が黒赤く光る。
「ふざけんな」
イリスが少し笑った。
「何」
「いえ」
「何で笑うの」
「同じことを」
過去の自分を見る。
「あの日、私も申し上げました」
◇
王宮。玉座。
過去のイリス。
一人。
王の前。
『研究を止めなさい』
王が笑う。
『何者かと思えば』
『魔女風情が』
『二百七十三名』
イリスの声。
『何人殺せば』
黒炎。
『満足するのですか』
『必要な犠牲だ』
『何の』
『国の発展』
『……』
『神の力が手に入れば』
王が笑う。
『ベルディアは永遠となる』
イリスの顔から最後の表情が消えた。
『永遠』
『そうだ』
『随分』
黒炎。
『安い永遠ですね』
王が立つ。
『捕らえろ!』
何十人もの騎士。
過去のイリスは動かない。
『一つ』
静か。
『お尋ねします』
王を見る。
『被験者の中にあなたのご家族はいらっしゃいましたか』
王は笑う。
『いるわけがなかろう』
『左様ですか』
その瞬間。
黒炎が王宮を包んだ。
◇
「そこから?」
「はい」
「王国全部?」
「……」
イリスが目を伏せる。
「私は」
炎を見る。
「止まれませんでした」
研究所。王宮。軍施設。貴族街。
それだけじゃない。
炎が広がった。
住宅街。商店。教会。
「住民も」
「はい」
声が小さい。
「殺した?」
「……はい」
胸が冷える。
私が知っていたのは王国を滅ぼしたという言葉だけだった。
でも今目の前に見えるのは。
逃げる母親。子供。老人。兵士じゃない。研究者でもない。
ただ、住んでいただけの人。
黒炎。
「何人?」
「……」
「イリス」
「正確な数は」
声が掠れる。
「分かりません」
私は何も言えなかった。
イリスも何も言わない。
遠く、家が崩れる。
泣き声。
『助けて!』
過去のイリスは歩いている。
止まらない。
顔。
泣いていた。怒りながら。泣いていた。
「……なんで」
「何でしょう」
「なんで止めなかったの」
聞いた。
責めたいわけじゃない。
でも聞かなきゃいけない。
「研究者を殺した」
「はい」
「王族も」
「はい」
「そこから先は」
「……」
「関係ない人じゃん」
「はい」
イリスは言い訳しなかった。
「怒っていたから?」
「はい」
「それで?」
「はい」
「……」
「私は」
イリスが炎を見る。
「怒りを理由に」
声が震える。
「人を殺しました」
「……」
「澪様を探して千年」
「……」
「何も見つからず」
「……」
「ようやく見つけた手掛かりが」
研究所。
「人の命を使い潰した果てに得られたものだった」
「……」
「そして」
私を見る。
「その者たちが」
「……」
「あなた様にまで手を伸ばしていた」
黒炎が揺れる。
「許せなかった」
「うん」
「全てが」
「……」
「人間も」
「……」
「神も」
「……」
「世界も」
「……」
「私自身も」
最後のそれが。
一番強かった。
◇
景色が変わる。
王都、夜明け。
燃え尽きている。
過去のイリスは一人。
広場には黒い灰が空から降っている。
雪みたいに。
「……」
過去のイリスが。
手を見る。
黒炎。
『何を』
声。
『しているのでしょう』
誰も答えない。
『ミオ様』
空を見る。
『私は』
泣く。
『あなた様が守った人を』
膝をつく。
『殺してしまいました』
黒炎が消える。
『……ごめんなさい』
それでも死んだ人は戻らない。
私は隣のイリスを見る。
今のイリスも同じ場所を見ていた。
「三年前から」
「はい」
「ずっと後悔してた?」
「はい」
「じゃあ何で第7花じゃなかったの」
「……分かりません」
私は少し考える。
「多分」
花瓶。
黒赤い蕾。
「後悔だけじゃないから」
「……」
「まだ怒ってるんでしょ」
イリスが私を見る。
「ベルディアに?」
「違う」
私はイリスを見る。
「自分に」
沈黙。当たった。
「許せない?」
「……はい」
「三年前の自分」
「はい」
「殺した自分」
「はい」
「じゃあ」
私は花瓶を見る。
「どうしたらいいんだろ」
◇
その瞬間。
景色が変わった。
燃えるベルディア。
消える。
暗闇のなか、中央に一人。
過去のイリス。
そして向かいには今のイリス。
二人。
同じ顔。
過去のイリスが剣を持つ。
『許すのですか』
今のイリスは黙る。
『私を』
「……」
『罪のない者を殺した』
「……」
『子供も』
「……」
『老人も』
「……」
『あなたは』
黒炎。
『私を赦せるのですか』
イリスが答えない。
私は口を挟まなかった。
これはイリスが答えること。
長い沈黙。
やがて。
「いいえ」
イリスが言った。
過去のイリスが笑う。
『なら』
「赦しません」
「イリス?」
「私は」
今のイリスが過去の自分を見る。
「あなたを赦すことはできません」
『なら殺せ』
「それもいたしません」
『なぜ』
「死ねば」
一歩。
「終わるからです」
『……』
「私が殺した方々は」
一歩。
「戻りません」
『……』
「私が死んでも」
「……」
「戻らない」
過去のイリスの剣が揺れる。
「なら」
自分の胸へ手を当てる。
「生きます」
『……』
「覚えて」
一歩。
「背負って」
一歩。
「二度と同じことをしない」
『それが償いだと?』
「分かりません」
『都合がいい』
「はい」
『生きたいだけだ』
「……はい」
過去のイリスが止まる。
今のイリスは泣いていた。
「生きたいです」
私は初めて聞いた。
イリスが自分からそれを。
「澪様と」
私を見る。
「もう少し」
声が震えている。
「生きていたい」
胸が痛い。
『罪人が?』
「はい」
『許されると?』
「分かりません」
『ならなぜ』
イリスは私を見る。
そして小さく笑った。
「それでも生きたいからです」
過去のイリスが剣を下ろした。
◇
でも消えない。
「……まだ?」
花瓶。蕾。
開かない。
文字。
《憤怒》
《未完》
「何が足りないの」
その瞬間、声。
『美しい』
アルディア。
空が割れる。
黄金の目。
『実に人間らしい』
イリスが私の前へ出る。
黒炎。
『罪を犯し』
『自らを赦し』
『なお生きたいと願う』
「赦してない」
私が言う。
アルディアの目。
こっち。
「イリスは赦してない」
『同じこと』
「違う」
腹が熱い。
『罪人を庇うか』
「庇ってない」
『ならば』
光。
『我が裁こう』
黄金の雷が落ちる。
「待って」
私は前へ出た。
「澪様!」
雷。目の前。花瓶。七輪。光。防ぐ。衝撃。
腕が痺れる。
でも立つ。
『なぜ庇う』
「うるさい」
『その者は人を殺した』
「知ってる」
『罪人だ』
「知ってる」
『なら』
「だからって」
私は空を睨む。
「お前が決めるな」
空気が止まる。
『何?』
「何で」
腹の底。
ずっと溜まってた。
「神だからって」
黒赤い蕾。
震える。
「全部決めていいと思ってるの」
『我らは世界の秩序』
「だから?」
『人は我らが創造した』
「だから何!」
声が響く。
「作ったら何してもいいの?」
ベルディア。
人体実験。
神々。
人を管理。
アルヴェリア。
召喚。
全部。
重なる。
「親が子供作ったら!」
ママ。
パパ。
「子供の人生全部決めていいの!?」
『同列に語るな』
「同じだよ!」
花瓶が熱い。
「作ったものは自分のもの?」
「従わなかったら罰する?」
「気に入らなかったら消す?」
光。
「ふざけんな!」
自分でも驚く。
「私は!」
胸が熱い。
「お前らのものじゃない!」
蕾が開き始める。
「人間も!」
一枚。
「アメンも!」
一枚。
「地球も!」
一枚。
「イリスも!」
最後。
「誰のものでもない!」
黒赤い花が開く。
――第八花、開花条件達成。
――不正への怒り。
――他者への怒り。
――己への怒り。
――罪を消すためではなく。
――未来を選ぶために怒りを抱く。
――第八花。
――《憤怒》。
《八/九》
黒い炎が花から噴き出す。
「え」
私の腕を覆う黒炎。
でも熱くない。
イリスが目を見開く。
「澪様」
「何これ」
黒炎が私を包む。
イリスと同じ。
いや。
少し違う。
イリスの炎は光を食べる黒。
私の炎はその中心に白い光。
「ミオ様の……」
イリスが呟く。
アルディアの黄金の雷。
また落ちる。
私は手を上げた。
黒炎が雷を燃やした。
『……』
アルディアは初めて黙る。
「これ」
私は自分の手を見る。
「私も使えるの?」
イリスが私を見る。
そして笑った。
「どうやら」
黒炎。
隣で揺れる。
「私のものだけではなかったようですね」
「なんで?」
「千年前」
イリスが自分の炎を見る。
「私が世界境界で浴びたのは、澪様の神力です」
「あ」
「その力が私の怒りと結びつき」
黒炎。
「この形になった」
「じゃあ」
私の炎。
「元は私?」
「半分は」
「残りは?」
イリスは少し笑う。
「私の怒りでしょう」
「重い」
「千年分ですので」
「またそれ」
でも笑った。
◇
ベルディアが崩れていく。
記憶が終わる。
過去の街。灰。空。
全部。
光へ。
その中。
人影。
さっきの少女。
被験体二百七十三号。
私たちを見る。
イリスが固まる。
少女は何も言わない。
赦すとも。恨むとも。
ただ消える。
イリスが頭を下げた。
深く。
最後まで。
そして世界が消えた。
◇
第八門の外。
神々の領域。
アルディア。ネレイス。オルド。
待っている。
でも様子が違う。
八輪。花瓶。私の黒炎。
見ている。
『九花まで』
アルディア。
『あと一輪』
「うん」
『それを咲かせれば』
「知ってる」
『神へ戻る』
「戻るかもしれない」
『人の自我など』
「消えるかもしれない」
『それでも進むか』
私は少し怖くなった。
でも。
「進む」
イリスを見る。
「全部欲しいから」
東京。アメン。家族。イリス。自分。
「全部残す方法」
「……」
「最後まで探す」
アルディアは笑う。
『存在しない』
「まだ分かんないでしょ」
『神である我らが知らぬ』
「だから?」
私は黒炎を消す。
「神様って」
八輪の花瓶を抱える。
「思ったより何でも知らないじゃん」
ネレイスの顔が引きつった。
イリスが後ろで笑いを堪えている。
「笑った?」
「いいえ」
「絶対笑った」
「気のせいです」
その時。
最後の門。
第九門がゆっくり開いた。
《第九門》
《最終花》
《生》
そしてもう一つ。
《開放条件》
《死を選択せよ》
「……は?」
私は文字を見る。
何度見ても変わらない。
《死を選択せよ》
イリスの顔から笑顔が消えた。
「澪様」
「待って」
第九花。
《生》
なのには条件。
《死》
「何これ」
返事はなし。
門の向こう。
真っ暗で何も見えない。
そして、その奥から声。
私の声。
いや、ミオ。
『今度こそ』
『死ねる?』
イリスが私の腕を掴んだ。
強く。
「行かないでください」
初めてだった。
門が示した道をイリスがはっきり拒んだ。
「澪様」
手が震えている。
「これは」
声まで。
「これは、駄目です」
第九門。
《生》
最後の一輪。
その門の前で。
私は初めてイリスから。
「進まないでください」
そう言われた。




