第9話 国王陛下の指輪が「殺せ」と囁きました
「その竜が見たという男について、私にも聞かせてもらおう」
重い扉の向こうから現れた人物を見て、セラフィナは息を呑んだ。
国王アレクシス。
先ほどラピスが語った、王妃の命が奪われた夜に星冠へ触れていたという男と、同じ顔を持つ人物だった。
もっとも、目の前の国王は肖像画で見るよりも老いていた。目元には深い疲労が刻まれ、頬もわずかに痩せている。王冠を戴いていないせいか、国を治める絶対的な存在というより、長いあいだ眠れずにいる一人の男に見えた。
「父上。なぜ、ここに」
ルシアンがセラフィナの前へ出た。
庇われたのだと気づいたのは、その広い背中が視界を塞いでからだった。
「星冠保管庫の封印が開けば、私に分かる仕組みになっている。お前こそ、許可も取らずに何をしている」
「許可を求めれば、くださったのですか」
「それとこれとは話が別だ」
「つまり、くださらなかったのですね」
「お前は子供の頃から、そういう言葉尻ばかり拾う」
「父上が肝心なことをお答えにならないからです」
親子の会話だというのに、どちらも一歩も譲らない。二人の間に積もった年月は、王と王太子という肩書だけでは説明できないほど重そうだった。
国王の後ろには近衛騎士が二人いた。だが、保管庫の敷居を越えて入ってくることはない。王族以外の立ち入りを拒む結界が、今も青白く揺らめいている。
国王の視線が、ルシアンの肩越しにセラフィナへ向けられた。
「リード嬢。正式な婚約の挨拶より先に、王家の最深部で会うことになるとは思わなかった」
「申し訳ございません、陛下」
「謝らなくていい。どうせ、息子が巻き込んだのだろう」
「全面的に否定するのは難しいのですが、私も自分の意思でここへ参りました」
「そうか。ならばなおさら、この男にはもったいない」
「父上」
「事実だろう。契約書を十九条も作らなければ婚約者を安心させられない男だ」
セラフィナは思わずルシアンを見た。
「陛下は、契約書の内容をご存じなのですか」
「王宮へ提出された書類だからな。第十一条の『能力の使用を強要しない』と、第十四条の『接触には事前の同意を要する』はよくできていた。だが、第十八条の『任務中であっても宝石修復師としての仕事を妨げない』は、もう少し具体的にしておいたほうがいい。ルシアンは放っておくと、一日を四十八時間あるものとして他人を働かせる」
「三十六時間程度です」
「殿下、訂正になっておりません」
思わずそう返すと、国王の口元がほんの少し緩んだ。
だが、それを見ていたラピスが、突然セラフィナの肩から飛び立った。
『顔をよく見せろ』
小さな青い竜は国王の周囲を一周し、肩、髪、胸元の順に鼻を近づけた。
近衛騎士たちが剣に手をかける。
「待て」
国王が片手を上げて制した。
「この竜が、王妃の死に関わる証人なのだろう。好きにさせよ」
『ふむ。薬くさい。寝不足くさい。胃も悪い』
「竜というものは、初対面の相手にそこまで言うのか」
『王というものは、初対面の竜に礼も言わぬのか』
「ラピス。今は遊んでいる場合ではありません」
『遊んでおらぬ。匂いは大事だ』
ラピスは国王の鼻先まで飛び上がると、金色の目を細めた。
『こいつではない』
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
国王だけが、表情を変えずに尋ねる。
「何が違う」
『顔は同じだ。だが、あの夜の男はお前の匂いではなかった。琥珀を焼いたような匂いと、冷たい鏡の匂いがした。こいつは薬と古い紙と、ひどい後悔の匂いだ』
「最後は匂いなのですか」
ノアの問いに、ラピスは胸を張った。
『我は鼻がよい。後悔する人間は、雨に濡れた銀のような匂いがする』
「ずいぶん詩的な鼻ですね」
「ノア」
「申し訳ございません。緊張すると、余計なことを口にしてしまう性分でして」
国王は苦笑しなかった。
雨に濡れた銀のような後悔という言葉を、否定することもしなかった。
そのまま保管庫の奥へ視線を向ける。
そこには、本来なら星冠が収められているはずの台座がある。だが、王冠は戴冠式に備えるという名目で、数か月前から王宮宝飾局へ移されていた。
「八年前の夜、星冠に触れた者がいた。それも、私の顔で」
国王の声は低かった。
「父上。心当たりがあるのですか」
「あるとは言えない。だが、何も知らなかったとも言えない」
ルシアンの顔から、わずかに表情が消えた。
怒ったときの顔なのだと、セラフィナにはもう分かる。声を荒らげるより先に、彼は感情をすべて奥へ押し込めてしまう。
「何を、ご存じだったのです」
「王妃の死が病ではなかった可能性だ」
保管庫の空気が冷えた。
セラフィナの肩に戻ってきたラピスが、爪を立てる。
痛かったが、声を出せなかった。
「母上は、流行り病で亡くなったと発表された」
「発表はそうだ。実際には亡くなる数日前から、何者かを恐れていた。王宮宝飾局の記録を調べ、星冠の修復履歴を集めていたことも、死後になって知った」
「では、なぜ調査を打ち切ったのですか」
「ルシアン」
「答えてください」
国王は息子から目を逸らした。
王が王太子の視線に耐えられず、逃げたのだ。
「母上が殺された可能性をご存じだった。それでも病死として葬り、記録を封じた。なぜです」
「お前を殺すと脅された」
国王の告白は、あまりにも静かだった。
「王妃が亡くなった翌朝、私の寝室に箱が置かれていた。近衛が一晩中守っていたにもかかわらずだ。中には、お前が幼い頃に使っていた青い鳥の髪飾りと、短い手紙が入っていた」
国王は目を閉じた。
「『鳥籠を開けるな。次は青い鳥の喉を裂く』。そう書かれていた」
「青い鳥……」
それは、亡き王妃だけがルシアンを呼んだ愛称だった。
指輪の記憶にも残っていた、他人が知るはずのない呼び名だ。
「それだけで、調査をやめたのですか」
「それだけではない。お前の寝室にも侵入された。枕の下に、七つの星を刻んだ黒い石が置かれていた。警備を三重にしていたにもかかわらず、誰も侵入者を見ていなかった」
「だから、母上を見捨てた」
「死んだ者より、生きている息子を選んだ」
「それを私のためだったと言わないでください」
ルシアンの声が、初めて揺れた。
「私に選ばせもしなかったくせに、私のためだったなどと。父上は私の命を守ったつもりなのでしょう。だが同時に、母上がなぜ死んだのか知る機会を、私から八年間も奪った」
「当時のお前に何ができた」
「何もできなかったでしょう。だからといって、何も知らなくてよかったことにはならない」
「真実を話して、お前まで殺されればよかったと言うのか!」
「そうではありません!」
ルシアンの拳が震えていた。
「私が腹を立てているのは、父上が怖がったことではない。怖かったなら、そう言えばよかった。私を失いたくなかったと、そう言えばよかったのです。王家の安定だの、民の不安を避けるためだのと、きれいな言葉で隠し続けたことに怒っている!」
国王は口を開きかけ、閉じた。
その顔から、一国の王としての厳しさが剥がれていく。
「……怖かった」
やがて出てきたのは、ひどく掠れた声だった。
「妻を失った直後に、お前まで失うのが怖かった。私が王でなければ、お前を連れて国から逃げていたかもしれない。だが、王である私は逃げられなかった。だから調査を止め、何も起きなかった顔をした。そうしているうちに、どこからが国のためで、どこからが自分の臆病さなのか、私にも分からなくなった」
ルシアンは答えなかった。
許したわけではないのだろう。
けれど、怒りだけをぶつけられるほど、父の弱さを他人事にできなくなってしまったらしい。その面倒さが、セラフィナには痛いほど分かった。
「陛下」
彼女は慎重に口を挟んだ。
「お尋ねしてもよろしいでしょうか。最近、体調が優れないのではありませんか」
国王が怪訝そうに眉を寄せる。
「なぜ分かる」
「先ほどから、右手を何度も握り直していらっしゃいます。指先の痺れを確かめるように。それに、唇の色もよくありません」
「年齢のせいだ。医師も、疲労が溜まっていると言っている」
『違うぞ』
ラピスが国王の右手を指した。
『その指輪が、さっきからまずい匂いを出しておる』
国王の右手には、王家の紋章を彫った大粒の紅玉の指輪が嵌められていた。
公文書へ印を押すための、国王の証。片時も手放してはならない王璽の指輪である。
セラフィナは目を凝らした。
石そのものに異常はない。だが、紅玉を支える爪の根元に、不自然な黒ずみがある。古い汚れに見えるものの、光の角度を変えると七つの銀色の粒が浮かんだ。
「《夜星糊》……?」
その言葉を口にした途端、国王の身体が大きく傾いた。
「父上!」
ルシアンが駆け寄り、倒れかけた国王を抱き留める。
近衛騎士が結界の外で叫んだ。
「陛下!」
「医師を呼べ! 急げ!」
ノアが扉へ向かって声を張る一方で、セラフィナは国王の前に膝をついた。
「陛下、指輪を外します。よろしいですね」
「王璽は……王の身体から、離してはならぬ」
「今は規則より命が先です」
「簡単に外れるものではない。王家の血を認めて――」
「失礼いたします!」
返事を待っている時間はなかった。
セラフィナは国王の右手を取り、指輪へ触れた。
焼けるような痛みが、指先から腕まで駆け上がる。
視界が暗転した。
石が覚えていたのは、指輪を加工した者の、ひどく愉快そうな声だった。
『少しずつでいい。王を殺せ』
誰かが笑っている。
『急死では疑われる。疲労に見せかけろ。眠りを奪い、指を痺れさせ、心臓を弱らせる。王が死ねば、喪が明けるより先に戴冠式を行わせろ』
金属を削る音。
黒い糊を爪の裏へ塗り込む、湿った音。
『そして星冠を、ルシアンに被せる』
聞き覚えのない声なのに、その名を呼ぶ響きだけが異様に親しげだった。
『偽の星は、あの子の力を、記憶を、名前を吸い上げる。空になった器ほど、王冠にはよく似合う』
「やめて……!」
セラフィナは指輪から手を離した。
息ができない。胸を押さえて咳き込みながら、どうにか顔を上げる。
ルシアンが国王を抱えたまま、彼女を見ていた。
「何が聞こえた」
言いたくなかった。
しかし、隠すことが人を守るとは限らない。それをセラフィナは、父との八年間で嫌というほど思い知っていた。
「この指輪は、陛下を少しずつ毒しています」
国王の顔から血の気が引いた。
「目的は、私か」
「いいえ」
セラフィナは震える指で、ルシアンを指した。
「陛下の死は、始まりにすぎません。犯人の本当の目的は、次の戴冠式です」
星冠に嵌められた偽の宝石。
それが奪おうとしているものは、王位でも国でもなかった。
「犯人は、星冠を使って――ルシアン殿下のすべてを奪うつもりです」




