第8話 星冠庫の証人は、宝石を食べる手のひらサイズの竜でした
王宮へ戻ったセラフィナたちを待っていたのは、心配そうな侍従でも、事情を知らない衛兵でもなかった。
皇太子宮の玄関前で腕を組み、笑っているのに目だけが少しも笑っていないノアだった。
「お帰りなさいませ、殿下。婚約者のご実家へ朝の挨拶に向かわれた方が、護衛を撒いた挙げ句、三時間近く戻らない場合、側近はどの時点で誘拐を疑うべきだと思われますか」
「護衛は撒いていない。工房の外に置いてきただけだ」
「世間ではそれを撒いたと言います。しかも戻ってきたと思えば、お二人とも徹夜明けのような顔をして、セラフィナ様は泣いた跡を隠そうともしていない。私はこれから、婚約者の実家で殿下が何をしでかしたのかを記録しなければならないのでしょうか」
「殿下は何もしていません。家族の喧嘩に口を挟もうとして、わたしに黙っていてくださいと言われただけです」
セラフィナが答えると、ノアはルシアンへ同情とも呆れともつかない視線を向けた。
「殿下、他人の家族の喧嘩へ入るには、それなりの訓練が必要です。正しいことを言えば収まると思っている人間が入ると、たいてい悪化します」
「セラフィナにも同じことを言われた」
「今日一つ賢くなられましたね。では、お部屋で朝食を取りながら詳しいお話を――」
「星冠庫へ行く」
ノアの笑みが消えた。
「今からですか」
「今からだ」
「理由を伺っても?」
「王妃陛下が亡くなった夜、最後に話した相手を見た証人がいるらしい」
「八年前の事件の目撃者が、星冠庫で生きていると?」
「青い竜だそうだ」
ノアはしばらく何も言わなかった。
やがて、こめかみを二本の指で押さえる。
「すみません。少々疲れているようです。今、殿下が非常に真面目な顔で、星冠庫に青い竜が住んでいるとおっしゃったように聞こえました」
「そのように言った」
「やはり疲れているのは私ではなく、殿下のほうかもしれません」
「亡き母の月長石に残された声です」
セラフィナは首から下げた月長石をノアに示した。
「わたしも聞きました。竜の特徴は、小さくて、口が悪くて、宝石ばかり食べること。王妃陛下が亡くなった夜、最後に話した人間を見ているそうです」
「なるほど。情報が具体的になったせいで、かえって理解しにくくなりました」
「信じろとは言わない。確認する」
「それは結構です。ただし、秘密裏に星冠庫へ入り、そこで行方不明になるのはおやめください。殿下はご自分が死んだあとのことを軽く考えすぎです。あなたが秘密を抱えたまま亡くなれば、残された人間は何が起きたのかもわからないまま、失敗の責任だけを押しつけられるんですよ」
ノアは従者へ紙と筆記板を持ってこさせ、ルシアンへ差し出した。
「今、わかっていることをすべて話してください。私が記録し、二通作ります。一通は私が持ち、もう一通は別の場所へ隠す。殿下が星冠庫から一時間以内に戻らなければ、陛下ではなく、王都警備隊とリード伯の双方へ届けます」
「父には知らせないほうがいいのでは?」
セラフィナが尋ねると、ノアは首を横へ振った。
「セラフィナ様のお父上は、この事件について八年間も黙っていたのでしょう。だからこそ、今度は知らされない側に置かないほうがいい。人は秘密を抱えれば強くなれるわけではありません。たいていは、誰にも相談できないまま判断を間違えます。殿下もその点では非常に優秀です」
「最後の一言は必要か」
「必要です。言わなければ、またお一人で行かれるでしょう」
ルシアンは不服そうにしながらも、母の指輪、夜星膠、リード家から盗まれた製法帳、エリーゼの月長石について順番に話した。
ノアは冗談を挟まず、一言も聞き漏らさないよう筆を走らせた。
記録を封蝋で閉じると、三人は王宮北棟の地下へ向かった。
◇
星冠庫は、歴代の王族が使った宝飾品や儀式具を保管する、王家でもっとも古い宝物庫である。
地下へ下りる階段の入口には衛兵が二人立っていたが、ルシアンの姿を見ると、戸惑いながらも道を開けた。細い螺旋階段を下りるにつれ、朝の気配が遠ざかり、空気が冬の井戸水のように冷たくなっていく。
「ここから先は、殿下と正式な婚約者しか入れません」
三つ目の扉の前で、ノアが足を止めた。
「私は外で待ちます。先ほど申し上げたとおり、一時間です。それを過ぎたら、王宮中へ大声で助けを求めますので、そのおつもりで」
「おまえに羞恥心はないのか」
「殿下を生還させるためなら、そのくらいは捨てます。セラフィナ様」
「はい」
「殿下が危険だからという理由で、あなたを外へ出そうとした場合は聞かなくて結構です。おそらく中に入ってから言い出します」
「なぜわかる」
「十年以上、あなたの尻拭いをしてきたからです」
ノアの予想どおり、扉の前に立ったルシアンは、鍵を差し込む寸前になってセラフィナを振り返った。
「やはり、君はここで待ったほうがいい」
セラフィナは思わずノアを見た。彼は「ほら見たことか」という顔をしている。
「殿下、理由を聞いてもいいですか」
「この先に何があるかわからない。母上は王冠に近づくなと警告し、君の母上も同じものを危険視していた。君まで入る必要はない」
「青い竜が宝石に記憶を残していても、殿下には聞けません。それに、星冠庫の北壁を開くには正式な婚約者の指輪が必要なのでしょう?」
「北壁まで私が確認し、安全だと判断してから呼ぶ」
「それでは、さっきお父様に言われたことと同じです。守るという名目で、わたしの知らないところで話を進める。わたしが何を知り、どの危険を選ぶかまで、殿下が代わりに決めるんですか」
ルシアンは言葉を詰まらせた。
「……そういうつもりではない」
「そういうつもりがない人ほど厄介なんです。悪意がないから、自分が相手から選択肢を奪っていることに気づかない。わたしは怖いですよ。怖いに決まっています。でも、怖がっている人間は何も決められないと考えられるほうが、もっと嫌です」
「君の父親と私を同じにするのか」
「今の発言だけなら、よく似ています」
「それは……かなり不愉快だな」
「お父様にも殿下にも言われたくありません」
ルシアンは眉間を押さえた。
怒るかと思ったが、長い息を吐いたあと、彼はセラフィナへ向き直った。
「わかった。私が悪かった」
「ずいぶん早く謝れるようになりましたね」
「君の言い方には容赦がない。反論を考えている間に、自分が間違っているとわかる」
「わかったなら結構です」
「ただし、危険を感じたら私の指示に従ってほしい。君が何を選ぶかは君が決める。だが、私にも君を守ろうとする権利くらいは認めてくれ」
それは命令ではなかった。
セラフィナは少しだけ考えてから頷いた。
「わかりました。ただし、殿下も同じです。わたしが逃げろと言ったとき、ご自分だけ残って格好よく扉を閉めたりしないでください」
「私はそんなことをしそうに見えるか」
セラフィナとノアは、同時にルシアンを見た。
「……質問を変えよう。触れてもいいか」
扉の中央には、王家の紋章を囲むように二つの手形が刻まれている。一つは王族用、もう一つは伴侶のためのものらしい。
「はい。今は許可します」
ルシアンはセラフィナの手を取り、それぞれの手形へ重ねた。
彼が銀の鍵を回すと、セラフィナの指輪が熱を帯びる。石造りの扉を青白い光が走り、地の底で何かが目覚めたような低い音が響いた。
「一時間ですからね」
閉じていく扉の向こうで、ノアが念を押した。
「あと、竜がいた場合でも、勝手に連れ帰らないでください。飼育許可の申請先がわかりません」
◇
扉の先には、地下とは思えないほど広大な空間が広がっていた。
天井には光を宿す小粒の宝石が嵌め込まれ、夜空の星のように瞬いている。左右に並ぶ硝子棚には、歴代王妃の首飾りや、王子たちが成人の儀式で使った短剣が収められていた。
それらの中心に、戴冠式で使われる王冠が置かれている。
白銀の冠には大小の透明な宝石が散りばめられ、中央には深い青色の石が一つ、夜の底のような光を湛えていた。
美しい。
けれどセラフィナは、もう一歩も近づきたくなかった。
「どうした」
「声がします」
「触れていないだろう」
「強い思いを長く浴びた石は、触れなくてもこちらへ滲んでくることがあります。大勢の声が重なっていて、言葉までは聞き取れません。でも……これは、戴冠を祝う声ではない」
王冠の中央石を見ていると、喉を締めつけられるような息苦しさを覚えた。
欲しい。
奪え。
渡すな。
殺される前に殺せ。
何代もの王が抱いた恐怖と欲望が、溶け合っている。
ルシアンが、王冠とセラフィナの間へ身体を入れた。
「聞くな」
「命令ですか」
「頼んでいる。今はあれに触れるべきではない」
「……同意します」
母の月長石が、王冠を拒むように冷たく震えている。
二人は中央の展示台を避け、北壁へ向かった。
壁には星座を模した銀の装飾が施されている。注意して見なければ単なる模様にしか見えないが、七番目の星だけ、中央に細い穴があった。
ルシアンが銀の鍵を差し込む。
硬い手応えのあと、壁の一部がわずかに奥へ沈んだ。
その瞬間だった。
「青い!」
壁の隙間から、何かが飛び出した。
「やっと来た! よこせ!」
小さな影がセラフィナの顔を目がけて跳んでくる。
ルシアンが反射的に彼女の肩を抱き、引き寄せた。影は目標を失って宙返りし、そのままルシアンの右手に噛みついた。
「殿下!」
「問題ない。手袋の上だ」
「青いの! 青い石! よこせ、腹が減った!」
ルシアンの手にぶら下がっていたのは、手のひらほどの大きさしかない竜だった。
鱗は磨かれたサファイアのような青。背中には透き通った二枚の翼があり、額から伸びる角は片方だけ先が欠けている。身体はひどく痩せ、金色の目ばかりが大きく見えた。
その視線は、セラフィナの指輪に釘づけになっている。
「離れろ」
「いやだ! 青いのくれるまで離れない!」
ルシアンが剣の柄へ手を伸ばす。
「殿下、証人を斬らないでください」
「証言する前に私の指を食いちぎりそうだ」
「指は食べない。まずい。石がいい」
「まずいと言われていますよ」
「慰めになっていない」
セラフィナは工具袋を探り、工房から持ってきた小さな煙水晶を取り出した。
「これで離れてくれますか」
竜はルシアンの手から口を離し、煙水晶へ鼻先を近づけた。しばらく匂いを嗅いだあと、露骨に顔をしかめる。
「土の味。いらない」
「好き嫌いを言える立場ですか」
「言える。竜だから」
「ずいぶん元気ですね」
「八年、腹が減ってる!」
「八年も食べていない生き物が、そんな大声を出せますか?」
「少し食べた! 棚の端の、小さいの。赤いのはまずい。緑は苦い。青が一番いい」
ルシアンが周囲の棚を見回した。
「近年、保管品から小粒の宝石が消える事件が続いていた。管理官が使用人を疑って何人も解雇している」
「この子の仕業ですね」
「この子と言うな。ラピスだ」
竜は胸を張った。
「名前があるんですか」
「あの女がつけた。長い髪の、うるさい女。勝手に触る。勝手に抱く。青い石をくれる」
ラピスはルシアンへ顔を近づけ、鼻をひくつかせた。
「……青い鳥?」
ルシアンの表情から、すべての色が消えた。
「今、何と呼んだ」
「青い鳥。小さかった。泣いてた。あの女が言ってた。私の小さな青い鳥は、泣き虫で困るって」
母の指輪から聞こえた、誰も知らないはずの呼び名。
ルシアンは膝をつき、ラピスと目の高さを合わせた。
「母上を知っているのか」
「母上?」
「おまえに石を与えていた女だ」
「あの女、帰ってこない。エリーゼも帰ってこない。みんな、すぐ戻るって言う。人間の『すぐ』は長い。人間は嘘つき」
ラピスは怒っているように見えた。
だが、その声には八年間待ち続けた寂しさが滲んでいた。
「お母様は、戻りたくても戻れなかったんです」
セラフィナが月長石を見せると、ラピスは鼻を近づけた。
「エリーゼの匂い」
「母は、あなたのところへ戻ろうとしていました。でも殺されたんです」
「殺された?」
「王妃陛下も、おそらく母も。だから教えてください。王妃陛下が亡くなった夜、ここで何を見たんですか」
「先に青いの」
「この指輪は駄目です」
「けち」
「王家の重要な証拠品です。食べたら、あなたを宝石窃盗の容疑で捕まえます」
「竜に人間の決まりは関係ない」
「食事が欲しいなら、食事を持ってくる人間とは仲良くしたほうが得ですよ。わたしは宝石職人ですから、欠けて商品にならない青い石を用意できます」
ラピスの耳らしき突起が動いた。
「いくつ?」
「質問一つにつき、一粒」
「十粒」
「二粒」
「八粒」
「増えましたね。三粒です。最初の一粒は今、残りは話を聞いてから」
「五粒。大きいの」
「三粒。あなたの頭より小さいもの」
「けちで、意地悪」
「よく言われます」
「私は言っていない」
ルシアンが口を挟んだ。
「殿下は顔に出ています」
セラフィナは工具袋の底から、傷の入った小さな藍玉を取り出した。値のつかない練習用の石である。
ラピスは勢いよく飛びつき、口いっぱいに頬張った。
硬い宝石を飴玉のように噛み砕く。青い破片を飲み込むたびに、くすんでいた鱗へ少しずつ艶が戻っていった。
「生き返った」
「死んでいたんですか?」
「半分くらい」
「それでは、話してください。王妃陛下が亡くなった夜、最後にここへ来たのは誰ですか」
ラピスは舌で口の周りを舐め、北壁の奥へ視線を向けた。
「あの女が来た。手から血が出てた。王冠を見て、『もう入れ替えられている』って言った。青い指輪を持ってたけど、石の声が漏れるから、エリーゼに頼んで眠らせるって」
王妃が母の工房を訪れたときのことだ。
「そのあとです」
「夜。また、あの女が来た。ここに隠れるつもりだった。でも、銀の扉が開いた」
「誰が入ってきた」
「男」
「顔を見ましたか」
「見た。あの女が『どうして、あなたが』って言った。男は王冠に触った。黒くて、甘くて、気持ち悪い匂いがした」
セラフィナとルシアンは顔を見合わせた。
「夜星膠です」
「ああ。指輪と矢に残っていたものと同じだろう」
「男は王妃陛下に何をしましたか」
「わからない。ラピス、噛みつこうとした。でも黒いのを投げられて、眠くなった。起きたら、あの女はいなかった。壁も閉まってた。角が折れて、ずっと出られなかった」
ラピスは欠けた角を前足で触った。
「その男の顔を、もう一度教えてくれ」
ルシアンの声は静かだったが、指先がわずかに震えている。
ラピスはじっと彼を見上げた。
「青い鳥に似てた」
「私に?」
「もっと年を取ってる。髪に白いのがある。王さまの服。王さまの顔」
ルシアンが息を止めた。
八年前も現在も、この国の王は一人しかいない。
ルシアンの父だ。
「父上が、母上の最後の客だったのか」
「違う」
ラピスは即座に否定した。
「顔は王さま。でも王さまじゃない」
「なぜそう思う」
「匂いが違った。歩き方も違った。それに、あの女は本物の王さまに『あなたは誰』なんて聞かない」
そのとき、星冠庫の奥に澄んだ鐘の音が響いた。
ラピスの身体が強張る。
セラフィナたちが入ってきた扉の向こうで、重い仕掛けが動き始めていた。
「ノアでしょうか」
「違う。あの扉は、ノアには開けられない」
星冠庫へ入れるのは、王族と正式に認められた婚約者だけだ。
ラピスは翼を畳み、セラフィナの肩へ飛び乗った。小さな爪がドレス越しに食い込んでいる。
「来る」
ラピスの声から、先ほどまでの生意気さが消えていた。
「何がですか」
「黒くて、甘くて、気持ち悪い匂い」
八年前と同じ匂いがする、とラピスは震えながら囁いた。
そして、閉ざされていた星冠庫の最初の錠が、外側からゆっくりと回った。




