第7話 八年間、父が隠していた母の遺言
「どうして、八年間も黙っていたの」
声を荒らげたつもりはなかった。
けれど、工房の壁に掛けられた細い工具が、セラフィナの声に怯えたように微かに震えた。
父アルドは作業台の前に立ったまま、答えなかった。
亡き王妃から指輪を預かり、母エリーゼが《夜星糊》でその記憶を封じたこと。王妃が亡くなった三日後、母の工房が火事になったこと。そして、母が遺した配合帳が何者かに盗まれていたこと。
それだけのものを胸の内に抱えながら、父は八年間、娘に何ひとつ知らせなかった。
「お父様。聞こえなかったのなら、もう一度言うわ。どうして黙っていたの」
「聞こえている」
「なら、答えて」
「お前を巻き込みたくなかった」
ようやく返ってきた言葉は、あまりにも予想どおりだった。
そのせいで、セラフィナは余計に腹が立った。
「巻き込みたくなかった? 私はもう巻き込まれているわ。お母様が封じた指輪を、何も知らずに婚約指輪として八年間も身につけていたのよ。王妃様の最期の声を聞いて、襲われて、今は殿下の偽の婚約者までしている。それでもまだ、私は巻き込まれていないつもりだったの?」
「だからこそ、これ以上は――」
「これ以上を決めるのは誰?」
父の声を遮った瞬間、胸の奥に溜め込んでいたものまで一緒にこぼれた。
「お父様が決めるの? 私が何を知って、何を選ぶのかまで? 守るという言葉を使えば、何を隠しても許されると思っていたの?」
「許されるとは思っていない」
「だったら、なぜ!」
「怖かったからだ!」
アルドの拳が、作業台に落ちた。
工具が跳ね、金属同士のぶつかる乾いた音が響く。
いつも背中を丸めて宝石を磨き、客に無理を言われても困ったように笑っていた父が、これほど大きな声を出したのを、セラフィナは初めて聞いた。
「お前まで失うのが怖かった。エリーゼは死んだ。工房ごと焼かれて、私のところに戻ってきたのは、煤にまみれた指輪と、半分焼けた工具箱だけだった。誰がやったのかも分からない。訴えようとした翌朝には、お前の寝台の上に黒い石が置かれていた。七つの星が刻まれた、あの糊と同じ匂いのする石だ。脅しだと分かった。次は娘だと、そう言われたんだ」
父の声は怒鳴り声のまま、途中からひどく震えていた。
「当時のお前は十三歳だった。母親が帰ってこないと泣いて、それでも工房に立つと言い張った。石の声が聞こえるお前なら、いずれ真相に辿り着けるかもしれない。だからこそ、知られるわけにはいかなかった。お前がエリーゼと同じ力を持っていると、あいつらに気づかれるわけには」
「だから私に、母は不注意で火事を起こしたと言ったの?」
「……そうだ」
「お母様が仕事中に火の始末を間違える人ではないと、お父様が一番よく知っていたのに?」
「知っていた」
「私が、お母様を疑ったことも?」
アルドは答えられなかった。
その沈黙が、何より残酷だった。
セラフィナは唇を噛んだ。
八年間、母の死を考えるたびに、胸のどこかに小さな棘が刺さっていた。どうして母ほどの職人が火を出したのか。疲れていたのか、焦っていたのか、それとも自分たちには見せなかった失敗を抱えていたのか。
母を信じたいのに、父の言葉を疑うこともできず、セラフィナは何度も母の仕事ぶりを疑った。
「私、お母様を恨んだことがあるわ」
「セラフィナ」
「どうして、私を置いていくような失敗をしたのって。職人なら火を見落とすはずがないのに、それでも亡くなったのなら、お母様にも落ち度があったんじゃないかって。そんなことを思った自分が嫌で、でも考えずにはいられなくて……八年間、ずっと」
「すまなかった」
「謝らないで」
口にしてから、セラフィナは自分でもひどく理不尽だと思った。
問い詰めておいて、謝罪すら拒む。けれど、今ここで謝られたところで、簡単に許せるはずもなかった。
「今のお父様の『すまなかった』を受け取ったら、私は許さなければならない気がする。だから、まだ言わないで。私は今、とても腹が立っているの。お父様が私を大切に思っていたことも分かる。怖かったことも分かる。でも、分かることと、許せることは同じではないわ」
「ああ」
「そんな顔をしないで。私が悪いことを言っているみたいになるでしょう」
「そんなつもりはない」
「お父様は昔からそう。黙って傷ついた顔をすれば、相手が言い過ぎたと思ってくれるから」
「……それは、今初めて知った」
「私も今、初めて言ったもの」
ひどい会話だった。
互いを大切に思っているのに、その大切さが刃物のように相手を傷つけている。
セラフィナは目元を押さえた。泣きたくはなかったが、涙は本人の都合など聞いてくれなかった。
少し離れた場所で、ルシアンは何も言わずに立っていた。
慰めることも、父を責めることもせず、ただ逃げ道を塞がない距離を保っている。その不器用な気遣いだけが、今はありがたかった。
ノアも珍しく口を閉ざしていたが、やがてアルドに静かに尋ねた。
「リード殿。あなたは先ほど、奥方から預かったものが、配合帳以外にもあると仰いましたね」
アルドの肩が強張った。
セラフィナは顔を上げる。
「まだ何か隠しているの?」
「隠したかったわけではない」
「今の話をした直後に、その言い方を選べるお父様は、ある意味すごいと思うわ」
「……返す言葉もない」
アルドは疲れ切ったように息を吐くと、古い作業台の前に膝をついた。
引き出しを抜き、その奥に指を入れる。小さな留め金の外れる音がして、作業台の底板が持ち上がった。
そこから取り出されたのは、掌に収まるほどの木箱だった。
「エリーゼから、もし王妃の指輪が目を覚ましたら、これをお前に渡すように言われていた」
「指輪が目を覚ます?」
「王妃様の声が聞こえるようになったとき、という意味だろう。だが私は……渡せなかった。これを聞けば、お前は必ず真相を追うと思ったからだ」
「ええ。追ったでしょうね」
「だから怖かった」
「そうやって正直に言ってくれたほうが、まだ腹が立たないわ」
「腹は立っているだろう」
「とても立っているわ」
「そうか」
「そこで少し安心しないで。お父様の面倒なところよ」
アルドは苦く笑った。
本当に、ほんの少しだけ安心したようだった。娘が怒っているうちは、まだ自分との関係を諦めていないとでも思ったのだろう。
その考えが透けて見えるから、また腹が立つ。けれど、完全に間違っているとも言えなかった。
木箱の中には、乳白色の月長石が入っていた。
宝飾品には加工されていない。表面の一部だけが磨かれ、残りには母が好んで使っていた細かな刻み模様が残されている。
セラフィナの指先が震えた。
「お母様が触れた石……」
「聞けるのか」
ルシアンが尋ねた。
セラフィナはすぐには触れず、石を見つめた。
「分かりません。長く封じられていた石です。強い感情が残っていれば、指輪のときのように飲み込まれる可能性もあります」
「ならば、やめてもいい」
「やめません」
「君ならそう言うと思った。だから命令はしない。ただし、危険を感じたらすぐに手を離せ。私が触れても構わないか」
差し出された手を見て、セラフィナは一瞬だけ迷った。
「……はい。今回は、お願いします」
ルシアンの手が、彼女の手首を包む。
力づくで止めるためではない。戻る場所がここにあると伝えるような、静かな触れ方だった。
セラフィナは息を整え、月長石に指を置いた。
冷たい。
次の瞬間、工房の景色が遠ざかった。
『セラ』
懐かしい声がした。
胸の奥を、直接撫でられたような気がした。
『これを聞いているということは、あなたはきっと、私が隠したものに辿り着いてしまったのね』
「お母様……」
『ごめんなさい。あなたには何も背負わせたくなかった。でも、知らないままでいることが、必ずしもあなたを守るとは限らない。私はそのことを、少し遅すぎるくらいに知りました』
父が息を呑む気配がした。
月長石に残された声は、指輪の記憶とは違っていた。恐怖に引き裂かれた断片ではない。母が自ら言葉を選び、娘へ遺したものだった。
『王妃様の青い指輪は、鍵です。けれど、扉を開く鍵ではありません。偽物を見抜くための鍵です』
月長石の内部に、淡い光が走る。
その光は七つの星を描き、やがて王冠の形へと変わった。
『戴冠に使われる《星冠》を信じてはいけません。王冠の中央にある無色の宝石は、本物ではありません。本来そこに嵌められていた星晶石は、すでにすり替えられています』
「王冠の中央が、偽物……」
ルシアンの指に力が入った。
『偽の石が何をするためのものか、私は確かめられませんでした。ただ、あれは祝福を受ける器ではない。人から何かを奪うための器です。王妃様はそれに気づき、証拠を指輪へ移しました』
声の向こうで、何かが落ちる音がした。
母の呼吸がわずかに乱れる。
『私たちのほかに、見ていた者がいます。人ではありません。星冠の保管庫に閉じ込められた、小さな青い竜です。あの子は宝石を食べます。そして、食べた石が覚えていた声を、吐き出すことがある』
ノアが小さく呟いた。
「王宮の古い記録にあります。星冠の守り手として、宝石竜が飼われていたと。ただし、百年以上前に絶えたと記されている」
『青い竜を探して。あの子は見ています。王妃様が亡くなる前の夜、王の顔をした何者かが、星冠に触れるところを』
セラフィナの背筋が凍った。
王の顔をした、何者か。
国王本人ではない、と母は言っているのだ。
『セラ。石の声は、真実そのものではありません。石が覚えているのは、誰かの痛みや怒りや願いです。それを忘れないで。聞こえたものを信じすぎてもいけないし、怖がって捨ててもいけない。迷ったときは、一人で決めないで』
母の声が、少しだけ柔らかくなった。
『あなたは何でも一人で抱え込むところがあるから。そこは私に似なくてよかったのに、きっと似てしまったわね』
笑う気配がした。
セラフィナの頬を、涙が伝った。
『愛しているわ。ごめんなさいより、こちらを最後に言わせてね。私はあなたを愛しています。だから、生きて。正しさよりも、秘密よりも、私の仇よりも、あなたが生きることを選んで』
光が消えた。
工房の景色が戻ってくる。
セラフィナは月長石から指を離したが、すぐには顔を上げられなかった。
「ずるいわ」
絞り出した声は、自分でも情けないほど幼かった。
「生きて、と言われたら、怒れないじゃない。どうして置いていったのって、もう言えないじゃない……お母様は、いつもそう。自分だけ言いたいことを全部言って、私の返事を聞かないの」
アルドが口元を押さえた。
泣き声を堪えようとしているらしい。けれど、肩が震えているので、何の意味もなかった。
「あなたも、この声を聞くのは初めてなの?」
「ああ。私には石の声は聞こえない。エリーゼは、これはお前だけに遺すと言った」
「そう」
「セラフィナ。私はお前に許してほしくて隠していたわけではない。あのときの私には、あれしか選べなかった。だが、正しかったとも言えない。お前から母親を疑わずに済む八年間を奪った。それだけは、言い訳のしようがない」
セラフィナは乱暴に涙を拭った。
「まだ許せないわ」
「ああ」
「でも、お父様を嫌いになったわけではないの。それも腹が立つのよ。嫌いになれたら、もっと簡単に怒れたのに」
「……すまない」
「今は謝らないでと言ったでしょう」
「そうだったな」
「次に同じことをしたら、本当に口を利かないから」
「次があれば、か」
「そこに希望を見つけないで」
父は泣きながら、ほんの少しだけ笑った。
親子というものは面倒だ。
傷つけられても、きっぱり切り捨てられない。愛されていたと知っても、すぐには許せない。そのどちらも本当だから、心の置き場所に困る。
ルシアンが、セラフィナの手首から静かに手を離した。
「星冠の保管庫へ行く」
「殿下、あそこへ入れるのは王族と、王家に正式に認められた伴侶だけです」
ノアの指摘に、ルシアンはセラフィナを見た。
「ならば問題ない」
「問題しかありません。私は三か月限定の偽婚約者です」
「公には正式な婚約者だ。王家の結界が、我々の契約書の第十九条まで確認するとは思えない」
「もし確認されたらどうするのです」
「そのとき考える」
「殿下は、冷静なお顔で無茶を言えば無茶ではなくなると思っていませんか?」
「思ってはいない。ただ、時間がない」
その言葉に、セラフィナも反論できなかった。
王冠の中央にある偽の宝石。王の顔をした何者か。そして、王妃が亡くなる前夜の出来事を見ていた、小さな青い竜。
八年間止まっていた母の声が、ようやく次の道を示したのだ。
セラフィナは月長石を握りしめ、ルシアンを見上げた。
「分かりました。星冠の保管庫へ行きます。ただし、ひとつ約束してください」
「何だ」
「一人で先に入らないこと。危険だと判断したら、殿下も退くこと。ご自分の命を、王族だからという理由で勝手に安く扱わないこと」
「三つあるように聞こえたが」
「ひとつの大きな約束です」
ルシアンはしばらく黙り、やがて小さく息を吐いた。
「分かった。約束する」
「本当に?」
「君は疑り深いな」
「殿下が信用を積み上げてこなかったからです」
「では、これから積み上げよう」
思いがけない返事に、セラフィナは言葉を失った。
ルシアンはそれ以上何も言わず、扉へ向かう。だが、出ていく直前に足を止めた。
「セラフィナ」
「はい」
「君の母君の最後の言葉を、忘れるな」
「生きろ、という言葉ですか」
「ああ。真相よりも、復讐よりも、君が生きることを選べと。私も、その意見には賛成だ」
彼は振り返らなかった。
そのため、どんな顔で言ったのかは分からない。
ただ、セラフィナの胸の奥で、母の月長石とは別の何かが、熱を帯びた。
翌朝。
王宮の地下深く、星冠の保管庫へ続く扉の前で、青い指輪がひとりでに震え始めた。
扉の向こうから、何かが硬いものを噛み砕く音がする。
やがて、幼い声が響いた。
『遅いぞ、人間』
小さな青い竜は、八年間ずっと、王妃を殺した者の顔を覚えていた。




