第6話 婚約者を報告する前に、父が容疑者になりました
「父が夜星膠を作ったとは限りません」
セラフィナは、自分でも驚くほど強い声で言った。
ルシアンは反論せず、作業机の上に置かれた黒い封印材を見ている。ノアは紙へ何かを書きかけていたが、二人の空気を察したらしく、いったんペンを置いた。
「私はまだ、君の父親が作ったとは言っていない」
「ですが、疑っておられるのでしょう」
「この材料の製法を知る者が一人しかおらず、それが君の父親だというなら、確認は必要だ」
「それは分かっています。ただ、父を罪人と決めつけるような扱いはしないでください」
「君は私が何をすると思っている」
「王家の暗殺計画へ関わった疑いで、兵士を送り込み、問答無用で拘束するのではありませんか」
「必要ならばそうする」
セラフィナは椅子から立ち上がった。
「契約の第十七項には、わたしの家族を正当な理由なく拘束しないとあります」
「正当な理由があれば拘束できるとも書いてある」
「父が製法を知っているというだけでは、正当な理由になりません」
「暗殺に使われた可能性のある材料だ」
「夜星膠は、人を殺すためのものではありません。宝石の残響を封じるための材料です。料理人の包丁が事件に使われたからといって、包丁を作った鍛冶職人まで殺人犯にするのですか」
「材料の製造者を調べるなとは言っていないだろう」
「調べるなとも、父を疑うなとも申し上げておりません。最初から犯罪者として扱わないでほしいと申し上げています」
ルシアンの眉間にしわが寄る。
セラフィナも譲らなかった。
少し前までなら、皇太子を相手にここまで言い返すなど考えもしなかっただろう。しかし今夜だけで、自分の意見を飲み込んだ結果、後から一人で傷つくのはもう嫌だと思い知った。
黙っていれば関係が円満になるのではない。
黙った側にだけ、言えなかった言葉が積み重なるのだ。
「分かった」
先に視線を外したのは、ルシアンだった。
「拘束ではなく、事情を聞く。君も同席していい」
「本当ですか」
「その代わり、君の父親が嘘をついたと判断した場合は、私の指示に従ってもらう」
「何をもって嘘と判断するのですか」
「また条件を増やすつもりか」
「大切なことです」
ノアが再びペンを取った。
「でしたら、供述と証拠の間に明らかな矛盾がある場合、という文言でいかがでしょう。殿下が何となく怪しいと思った程度では拘束しない、と」
「私を感情だけで人を捕らえる暴君のように言うな」
「殿下はお母上のことになると、普段より判断を急がれます」
「余計なことを言うな」
「余計ではございません。セラフィナ様のお父上が関係している可能性が出た以上、お二人ともご家族への感情を抱えた状態です。今夜については、私が第三者として記録いたします」
ルシアンは不満そうだったが、反対はしなかった。
セラフィナも腰を下ろす。
「今から実家へ向かいます」
「夜が明けてからだ」
「その間に、父へ何かあったらどうするのですか」
「すでに護衛を送ってある」
「いつの間に」
「馬車が襲撃された直後だ。君が王宮へ入ることを妨害しようとする者がいるなら、君の家族や工房を狙う可能性がある」
セラフィナは返す言葉を失った。
ルシアンはセラフィナより先に、父親の安全まで考えていたらしい。
「ありがとうございます」
「契約上の義務だ」
「それでも、お礼を言ってはいけませんか」
「礼を言われることには慣れている。ただ、君から素直に言われると思わなかった」
「わたしを何だと思っているのですか」
「何でも理屈で返す女」
「殿下の中で、わたしの評価が婚約破棄前のオスカー様と同じになりつつあります」
「それは困る。今の発言は撤回する」
あまりに早く撤回されたため、セラフィナは少しだけ笑った。
本当に、オスカーと似ていると思われることが嫌らしい。
ノアが懐中時計を確認する。
「夜明けまで三時間ほどあります。セラフィナ様はお休みください」
「眠れると思いますか」
「眠れなくても、横になって目を閉じるだけで体は休まります」
「その言い方は、殿下にもしてください」
ノアがルシアンを見る。
「もちろんです。殿下もお休みください。昨夜から一睡もしておられません」
「私は調べることがある」
「十三項」
セラフィナが言うと、ルシアンは眉をひそめた。
「何だ」
「双方が健康維持に努めるという、契約の第十三項です。わたしに休めとおっしゃるのでしたら、殿下もお休みください」
「三時間では、寝たほうが頭が鈍る」
「二時間半を睡眠、残りの三十分を笑顔の練習に使えばよいのではありませんか」
「なぜこの状況で、笑顔の練習が必要なんだ」
「婚約者の父親へ、罪人を見るような顔で会われては困ります」
「君の父親が本当に関係していた場合は?」
「そのときは、わたしも一緒に怒ります」
「父親をかばわないのか」
「かばいたい気持ちと、事実を知りたい気持ちは両立します。家族だから何をしても許せるわけではありません」
ルシアンは、何かを考えるようにセラフィナを見た。
「君の家族は、仲がよいのか」
簡単に答えられない質問だった。
「悪くはないと思います」
「歯切れが悪いな」
「父と最後に長く話したのがいつだったか、思い出せない程度には仲がよいです」
「それは仲がよいと言うのか」
「同じ家に住み、同じ工房で働いています。必要な話はします」
「必要ではない話は」
「ほとんどしません」
母が亡くなってから、父との会話は減った。
今日はどの石を磨く。明日までにどの依頼を仕上げる。石炭を買う金が足りない。ベルモント家への納品は何日だ。
必要な話なら、いくらでもできる。
けれど、母を亡くして寂しいという話も、オスカーとの婚約が本当は不安だったという話も、一度もしたことがなかった。
父も何も聞かなかった。
互いに相手は忙しいと思い込み、話さないことを思いやりのように扱ってきた。
その結果、セラフィナは父が何を考えているのか分からない。
父もおそらく、娘が大勢の前で婚約を破棄され、同じ夜に皇太子の婚約者になっているなど、想像もしていないだろう。
「寝ます」
考えるほど気が重くなり、セラフィナは立ち上がった。
「父に会う前に、少しでも体力を残しておきます」
「そうしろ」
「殿下もですよ」
「分かった」
「本当に?」
「契約を破るつもりはない」
その言葉を信じ、セラフィナは自室へ戻った。
けれど、寝台へ横になっても、やはり眠れなかった。
天井を見つめているうちに、オスカーと暮らすつもりで描いた家の間取り図を思い出した。作業机の引き出しにしまったままだ。
工房へ戻ったら、今度こそ捨てよう。
そう決めた途端、なぜか涙が出た。
声を上げて泣くほどではない。ただ目尻から流れた涙が枕へ染み込み、止めようとすると余計に増えた。
オスカーとやり直したいわけではない。
それでも、自分が大切にしていた未来を、今夜一晩で失ったことは悲しかった。
泣いているところを誰にも見られないように、セラフィナは毛布を頭までかぶった。
少し眠ったらしく、マルタに起こされたときには、窓の外が薄明るくなっていた。
顔を洗って鏡を見ると、目元が少し腫れている。
「冷たい布をご用意しましょうか」
マルタが尋ねた。
「分かりますか」
「長く宮殿で働いておりますので。女性が泣いた翌朝と、男性が酒を飲みすぎた翌朝は、だいたい分かります」
「殿下には、何も言わないでください」
「もちろんです。ただ、泣いたことを恥じる必要はございません。婚約を破棄された夜に泣かない女性がいたら、よほど相手に興味がなかったのでしょう」
「未練があると思われませんか」
「未練があってはいけないのですか」
思いがけない問いだった。
マルタは冷たい水へ浸した布を絞り、セラフィナへ渡した。
「戻らないと決めることと、悲しくないことは別でございます。人間は決心した瞬間に、都合よく感情まで切り替えられるものではありません」
「昨夜、似たような話を殿下にしました。あまり理解していただけませんでした」
「殿下は恋愛について、生まれたばかりの子鹿より知識がございませんので」
「それは少し、子鹿に失礼ではありませんか」
マルタが初めて笑った。
身支度を終えて玄関へ向かうと、ルシアンはすでに待っていた。黒い髪を隠すため簡素な外套を羽織っているが、立ち姿だけで身分の高さが伝わってしまう。
「殿下もいらっしゃるのですか」
「私が聞く必要がある」
「その格好で変装しているおつもりですか」
「何か問題があるか」
「町中でそのように背筋を伸ばして歩く人は、近衛騎士か、偉い方のどちらかです。もう少し力を抜いてください」
「どうやって」
「肩を落として、少し猫背に」
ルシアンは試してみた。
ただ機嫌の悪い貴族になった。
「元に戻ってください」
「君がやれと言ったんだろう」
「予想以上に似合いませんでした」
ノアが横から口を挟む。
「殿下に庶民を装わせるより、護衛の多い金持ちという設定にしたほうが自然でしょう」
「では、そのように」
「最初から馬車で行けばよかったのではありませんか」
「襲撃されたばかりの王家の馬車へ、もう一度乗りたいのか」
「それもそうですね」
三人は目立たない馬車へ乗り、王都の南側にあるリード工房へ向かった。
工房の前には、すでに王宮から派遣された護衛が立っていた。扉や窓に壊された跡はない。
セラフィナは安堵して扉を開けた。
中では、初老の男性が作業机へ向かい、金属製の台座を削っていた。
「お父様」
アルド・リード伯爵は手を止め、拡大鏡を外した。
白髪の混じった髪を無造作に後ろへ流し、痩せた頬には徹夜の疲れが残っている。
娘の顔を見た後、その背後にいるルシアンへ視線を移した。
「王宮からの使いに聞いた。昨夜、婚約者が変わったそうだな」
久しぶりに父と交わす長い会話の第一声が、それだった。
「ほかに聞くことはありませんか」
「怪我は」
「手を少し切りました」
「顔色が悪い」
「ほとんど眠っておりませんので」
「飯は」
「食べました」
「なら、今のところは生きているな」
父はそれだけ確認すると、ルシアンへ向き直った。
礼をする様子はない。
「殿下。娘を捨てる予定があるなら、早めに言ってください。次の婚約者を一晩で探すのは、こちらも忙しい」
「お父様!」
「事実だろう。昨夜まではベルモント家の息子だった。今朝には皇太子殿下だ。明日は誰になる」
「そのような言い方はおやめください」
「私との婚約は三か月の契約だ」
ルシアンが正直に答えた。
父が目を細める。
「殿下は、娘を愛しているわけではないと」
「現時点では」
「ルシアン殿下」
今度はセラフィナが彼を睨んだ。
「嘘をつくよりよいだろう」
「もう少し言い方があると思います」
「君の父親は、愛していると偽る男のほうがいいのか」
「いや」
父が即座に答えた。
「娘の手だけが必要だと最初から言う男のほうが、まだ信用できる。後になって愛がなかったと言い出す男よりはな」
オスカーのことを言っているのだろう。
「お父様は、オスカー様をお気に召していなかったのですか」
「好きではなかった」
「一度もおっしゃいませんでした」
「お前があの男を見るときだけ、少し笑っていたからだ。私が嫌いだと言えば、お前は自分の気持ちより工房を選ぶと思った」
「では、どうして婚約を勧めたのですか。ベルモント家との婚約があれば、工房を立て直せるとおっしゃったではありませんか」
「あちらの父親から話を持ちかけられた。工房を救える。お前も嫌がっていない。それなら悪くないと思った」
「嫌ではないことと、望んでいることは違います」
「今なら分かる」
「今では遅いです」
父の顔がわずかに歪んだ。
「分かっている」
それだけだった。
謝罪でも言い訳でもない。
だからこそ、セラフィナの胸に残った。
「親子の話は後にしてください」
ノアが穏やかな声で割って入る。
「今朝伺ったのは、夜星膠についてです」
作業机へ、証拠袋に入れた黒い封印材を置く。
父は表情を変えなかったが、指先が止まった。
「どこで見つけた」
「一つは、八年前に王家から盗まれた青玉の指輪です。もう一つは、昨夜セラフィナ様を狙った矢から」
「矢?」
父が娘を見る。
「馬車が襲撃されました。ですが、殿下が庇ってくださったので、大きな怪我はありません」
父は椅子から立ち上がった。
「なぜ先に言わない」
「お父様が、婚約者が変わった話から始めたからでしょう!」
「矢で狙われたなら、婚約などしている場合か」
「その矢から守るための婚約でもあります」
「王家に関わったから狙われたのではないのか」
「もう関わってしまったのです。今さら婚約をやめても、安全になるとは限りません」
父は何か言おうとしたが、ルシアンが一歩前へ出た。
「彼女を巻き込んだ責任は私にある。必ず守る」
「王家は、そう言って私の妻も使った」
部屋の空気が変わった。
「母を?」
セラフィナは父を見た。
父は答えず、証拠袋を開ける許可を求めた。手袋をつけ、黒い封印材を銀皿へ載せる。
小さな炎で温めると、焦げた樹脂と花のような香りが広がった。
「間違いない。リード工房の夜星膠だ」
「いつ作られたものか分かるか」
ルシアンが尋ねる。
「古いものではない。夜星膠は時間が経てば硬くなり、熱を加えても、このように均等には溶けない。これは長くても一か月以内に作られている」
「一か月……」
セラフィナは父を見た。
「お父様が作ったのですか」
「作っていない。エリーゼが死んでから、一度も作っていない」
「では、ほかに製法を知る者がいるのですね」
父は答えなかった。
その沈黙を、ルシアンが見逃すはずがない。
「アルド・リード伯爵。何を隠している」
「……一か月前、工房から古い製法帳がなくなった」
「なぜ届け出なかった」
「盗まれたと確信できなかった。借金の整理で、工房の中は何度も片づけた。私がどこかへ移した可能性もあると思った」
「わたしには、どうして話してくださらなかったのですか」
セラフィナの問いに、父は苦しそうに眉を寄せた。
「お前に言えば、必ず探す」
「当然です」
「危険だと思った」
「黙っていれば、危険ではなくなるのですか。現にわたしは、何も知らないまま矢で狙われました」
「だから言わなかったんだ。お前は母親と同じで、知れば最後まで追う。自分が傷ついてもやめない」
「わたしはお母様ではありません!」
思った以上に大きな声が出た。
父が黙り込む。
セラフィナは胸を押さえ、呼吸を整えた。
「お父様が何も話してくださらないから、わたしは母がどんな仕事をしていたのかも知りません。夜星膠の製法も、どうして王室との取引が突然なくなったのかも、何も教えていただけませんでした。守っていたとおっしゃるなら、せめて何から守ろうとしていたのか、話してください」
父は長い間、作業机に視線を落としていた。
やがて、古びた椅子へ腰を下ろす。
「八年前、王妃陛下がこの工房へ来た」
ルシアンの顔が強張った。
「母が?」
「護衛も連れず、一人だった。青玉の指輪を持ってきて、石に残ったものを誰にも聞かれないよう、封じてほしいとエリーゼへ頼んだ」
「母は、指輪の声を聞いたのですか」
セラフィナが尋ねる。
「お前と同じ力があったかどうかは、私にも分からない。ただ、あの夜、母さんは指輪を磨いた後、ひどく怯えていた。何を聞いたのか尋ねても、答えなかった」
「その後、指輪は?」
「王妃陛下へ返した。そして三日後、王妃陛下が亡くなった」
父の声が震えた。
「その一週間後、工房で火事が起きた。エリーゼは煙を吸って死んだ。事故だと処理されたが、火の気がない保管庫から出火していた」
セラフィナは息ができなかった。
母は事故で亡くなった。
幼い頃から、そう聞かされてきた。
「お父様は……お母様が殺されたと思っているのですか」
「ああ」
父はゆっくりとうなずいた。
「王妃陛下を殺した者は、指輪の声を封じた人間まで消そうとした。私はずっと、そう思っている」




